「買い物体験」、なんだか怪しい

最近、小売業ではデジタルを活かして新しい価値を顧客に提供しようという動きが活発です。

スマホアプリを顧客に使ってもらってクーポンを提供したりおススメを紹介したりするのは、さほど珍しい取り組みではなくなってきました。どの企業も、実店舗での買い物とECでの買い物を結び付けた、いわゆるオムニチャネルを何とか成功させようと、あの手この手を凝らしています。

このときによく出てくるキーワードが、「買い物体験」ということばです。買い物という行為を顧客体験として捉え、顧客に斬新な体験価値を提供しようとし、そのカギとしてデジタルをフルに活かそうという考え方をしているようです。

こうした事例もいつも興味深く見つめているのですが、実のところ個人的には、斜めから見ているようなケースも少なくありません。

怪しいなと感じる理由のひとつは、「買い物」と「体験」は本来別のものであって両方を追おうとするならそれは案外難しい、ということです。

ビジネスにおける提供価値は大きく2つの分野に分けられます。ひとつは「困りごとの解決」、もうひとつは「心地よい体験の提供」です。世の中のビジネスで提供されている価値は、およそこの2つのどちらかに当てはまります。

なかには両方に当てはまるビジネスがありますが、これまでわたしが観察してきた限りでは、「困りごとの解決」を提供しようと価値を追求してきたところ、次第に「心地よい体験の提供」による差別化を図るようになってきた、というのがほとんどです。そうした企業の場合、主たる価値提供は後者に転換されています。つまり普通は、2つの提供価値のうちどちらか一方が主であったり根本であったりするものだと、わたしは考えています。

そのような考えのもとで先ほどの話に戻ると、「買い物」は困りごとの解決、「体験」は心地よい体験の提供、とそれぞれ分野が異なります。

にもかかわらず、「買い物体験」を掲げる小売業は両方とも追いかけようとしているように、わたしには見えてならないのです。「買い物」なら徹底して買い物の利便性を上げる。「体験」ならまるで温泉やアミューズメントパークに来たかのように楽しんでもらう。どちらに注力するのかを意識し、どちらかを徹底的に追及して作り込まなければ、顧客からはどちら付かずの中途半端なモノに見えてしまう可能性が高いです。

少なくとも、片方を追求した会社にはその分野で負けます。「買い物体験」を追求した企業が、心地よい体験の提供を追求するアミューズメントパーク、例えばディズニーランドに、そのうち勝てるのか、という話です。

怪しいなと感じる理由をもうひとつあげると、デジタル化を図る企業の下心がものすごくうかがえる点です。

顧客の買い物をデジタル化することで、顧客の動きを逐一データ化し、顧客の志向や考えをつまびらかにしようと狙っている企業ほど、こうした取り組みを積極推進しているように見受けられます。

そうした分析を純粋に提供価値の向上につなげようとする企業もあるでしょうから、その取り組み自体を否定はしません。ただし、どういう考えでその企業がデータを扱い、使おうとしているのかは、そのビジネス行動に現れます。顧客はそれを見て、度が過ぎると感じれは気持ち悪さを覚えます。それは言うまでもなく、その企業への信頼につながります。

顧客が買い物に店舗を訪れ、ふと天井を見上げると、おびただしい数のカメラや通信機器がこちらを捉えているのを見つける。場合によっては商品棚にまでセンサーが仕掛けられている。このような店舗で買い物していて、果たして顧客は気分がよいものなのでしょうか。

実際、例えばECサイトのレコメンドに対しても、後から追いかけてきて推薦されることにいやらしさや気味悪さを感じていると回答する人が多いことが、各種の調査からも明らかになっています。

こうしたことがどうあるべきなのかは、経営者が打ち立てるべき、企業としての倫理観の問題です。法に則っていれば何をしてもよいという考えには、およそ洗練された矜持のようなものは見受けられません。

先日も、利用者の同意なく個人データを外部に提供して行政から是正勧告を受けた企業がありました。この企業の経営者は、問題のサービスを提供することを部下から知らされたとき、問題を何も感じなかったと述べています。個人情報の取扱いについて、経営者としてそれを重視するポリシーやセンスは不在だった実態が明らかになった。わたしはそう理解しています。

特に技術者は、分析したい、取れるデータはなんでも欲しい、知ることができるなら何でも知りたい、と追究する気質であるのが(良いか悪いかはともかく)自然でしょう。リーダーがあるべき姿を何も示さなければデジタル担当者はそのまま突っ走るという、他山の石として捉えるべきではないでしょうか。

個人的には、「買い物体験」を追う試みはおそらくなかなか成功しないだろうと思いながら、観察しています。

 

「しくみ」と「マニュアル」、全然ちがいます

わたしはよく、ビジネスのしくみをデザインすることの意義を強調するのですが、時として、仕組み化することとマニュアル化することを同一のものと捉えている方を見かけることがあります。

これらはまったく異質のものであるばかりか、危険な誤解とさえ感じます。

ビジネスのしくみは、単純化すると、「インプット」「プロセス」「アウトプット」のまとまりが、連鎖してつながっている構造をしています。

ビジネスのしくみをデザインすることとは、つまり、その事業を実行する一連の流れを要素に分解し、要素ごとにどのような「インプット」をもって「プロセス」を実行し、どのような「アウトプット」を出して終了するかを決め、その要素の連続をどのように組み合わせて、最終的な価値を創出するのか、を考えることです。

そのデザインを司るのは、その事業を全体俯瞰する立場にある経営者や事業責任者です。デザインにあたっては、要素を分解し、要素に対して「インプット」「アウトプット」を決めながら、「プロセス」にはその実行の目的を定義します。こうして決めた一連の要素の連鎖を、全体俯瞰しながら管理していくことで、出したい事業価値を生み出すしくみを確実にするのです。

全体俯瞰して事業をリードすることが重要なのは言うまでもありませんが、そうするには、事業の全体が見えるようにデザインしなければなりません。それもせずに、全体が見えている気になって采配を振るうリーダーの下では、危険な失敗を犯しかねません。

一方、現場の実務のうえでは、誰でも正確にまたは迅速に「プロセス」を実施するために、「プロセス」を手順化して整理しておくことがあります。これが、いわゆる「マニュアル化する」ということです。

このように、仕組み化することとマニュアル化することは、次元が異なる行為です。

マニュアル化が求められるケースは、現実には大いにあるでしょう。ただし、マニュアル化に関して留意すべきことがあります。例えば、マニュアルがあることによって従業員が思考停止しやすくなること、また、マニュアルから外れた行動をしたときの危険性を従業員が考えなくなること、などが挙げられます。

認識しておかなければならないのは、「プロセス」の目的に適う行動であって「アウトプット」を確かに出せるならば、「プロセス」のやり方は一つではない、ということです。技術の進化で変わるかもしれないし、時代の変化で替える必要が出るかもしれません。もっと良いやり方があるなら進化させなければならない、という発想を、常に現場が持っていることが重要です。そうでなければマニュアルは「考えない現場」を生むリスクがあります。

一方で、いくらその意識を持っていたとしても、一般に事業全体が見えていない現場の従業員によって、局所にしか適していない方向で進化させようとしてしまう問題が起こります。また別の問題として、マニュアルに従業員が慣れてしまうと、今度は「少しくらいは大丈夫だろう」と手間を省いたり手を抜いたりするケースが出てきます。始めは些細なことであっても、そのうちに、慣れがいつしか怠慢に変わり、失敗や事故につながるわけです。

事業に責任を持つ者が「プロセス」に目的を設定するのは、それらを抑止するためでもあります。

「プロセス」に目的が設定してあれば、もし従業員がマニュアルから外れた行動をしようとした時、目的に照らして自分の行動が正しいのか顧みる材料にもなります。これは逆に、「プロセス」を現場で変更したくなった場合にも言えることです。

「プロセス」に目的が設定されていないと、時間が経つにつれて、その作業を実施している意義が意識されなくなっていきます。信じがたいかもしれませんが、自分のビジネスであるにもかかわらず、「なんでこれ、やってるんだっけ?」と忘れるのです。

そこに例えばコスト削減のニーズが発生した場合、削ってはいけない領域まで削減対象として、事業責任者でさえそれに気づかないということが起こります。結果、現場にミス回避のしわ寄せが行き、人によるケアが余計に増え、それがクオリティの低下や事故につながる、というわけです。

このコラムでは「さわり」の話しかできませんが、ここではぜひ、全体俯瞰でデザインして価値創出を担保する「ビジネスのしくみ」と、現場レベルで仕事の実効性を担保すべく作る「マニュアル」は、まったく質が異なるものである、ということをご理解いただきたいと思います。

「強み」は、道を誤りやすい

経営が立ちいかなくなった企業の話を記事などで読んでいると、「○○というかつての強みが、時代の変化(または新興勢力の台頭など)で通用しなくなった」などと評しているのをよく見かけます。わたし個人は、こうした表現を見るたび違和感を覚えます。

企業の特色や得意領域を考える際に、わたしは「強み」という言葉を使うことはありません。必ず「こだわり」と言うようにしています。理由は2つあります。

ひとつは、「強み」は誰もが持ち得るものではなく、また「強み」がないことは事業の失敗要因では必ずしもないからです。

少し考えてみればわかることですが、中堅以下の企業がどれだけ頑張っても、大企業にも必ず勝てる「強み」はほぼ持てません。顧客基盤、営業能力、高度な技術、優秀な人材… なにに絞ったとしても、「ウチは大企業を含めてどの企業にも負けません」と確信を持って言えるというのは、中堅以下の企業にはほとんど無理です。しかし、だからといって、中堅以下の企業の事業がうまく行っていないわけではありません。

これを説明しようとするなら、その企業には「強み」があるのではなく「こだわり」があると位置づけたほうが妥当だ、というのがわたしの考えです。「こだわり」を持っている領域というのは、たいていはその会社にとってプライドを感じている領域です。「こだわり」であれば、どんな零細企業でも持つことができます。

一方で、たいした「こだわり」もないのに「強み」はある、ということはほぼありえません。そのような「強み」は、維持のしかたはわからない偶然の産物か、およそたいした強みではないでしょう。

もうひとつの理由は、「強み」という言葉を使うと、間違った方向の「強み」でもしっくり当てはまってしまう感覚になることが多いからです。

事業の成功につながっているとして誇れるものを企業が持つとしたら、それは顧客に対する提供価値に直結するものでなければなりません。顧客が価値を感じて買ってくれるから、収益が上がり、事業はうまく行く。当然のことです。

ただし、「強み」という言葉を使うと、顧客に対する提供価値に直結しないものも「強み」として表現ができてしまい、しかもそれに違和感を覚えない、ということが往々にしてあります。

例えば最近聞いた事業再生の話では、その企業の(かつての)強みは「都市郊外に中規模の店舗を多数展開する」と謳われていました。これは、顧客に対する提供価値と直結するものでしょうか?ネット通販がまだ一般的でなかった頃、近所に大きめの店ができれば嬉しかったかもしれません。しかしそれは、ネット通販でなくても、別の「大きめの店」が近所にできれば失われてしまうような程度の価値です。

よく「強み」に取り上げられるものとして、店舗数、店舗の立地、顧客規模、売上高No.1などを見かけることがありますが、そうした「強み」には、顧客はたいした価値を感じていないことが多いものです。しかしそうした要素であっても、「強み」と表現してしまうとしっくり来てしまうのです。

だからわたしは「強み」ではなく「こだわり」と表現します。「強み」という言葉にはポジティブなニュアンスしかありません。一方で、「こだわり」という言葉は、ポジティブとネガティブ両方のニュアンスで使われます。「変なこだわり」という言葉は自然に使われますが、「変な強み」という言い方はあまりしません。

つまり、おかしな方向に「こだわり」を持つと気づきやすい一方、おかしな方向に「強み」を持ってもあまり気づかない、ということです。ある要素について、「それってウチの強みなのか?」と自問すると問題がないと思ってしまいやすいですが、「それってウチのこだわりなのか?」と自問すると、おかしなものには引っ掛かりを覚えます。「それにこだわるのって、意味あるの?」と。

そして、顧客に対する提供価値に根差した「こだわり」であれば、いったん顧客の支持を得たのに時代の変化で通用しなくなるということは、実はほとんどありません。

「強み」という言葉自体を否定はしません。ただし「強み」と言うのなら、それは顧客に対する提供価値に直結するものでなければなりません。その「強み」は、事業のあり方に大きく関わります。トップレベルでの少しの方向の狂いが、現場レベルでは方向の大きな間違いにつながります。だからわたしは、こだわって「こだわり」という言葉を使っています。

 

事例で判断するのは、もうやめませんか

企業の方々と話をしていると、事例を求められることがよくあります。

なにか新しいことに取り組むにあたって、それを採用する前に関連する事例を知れば、実際に採用するとどんな効果があるのかが具体的に想像できるだろう、と考えて要望するのでしょう。

事例を知ることそのものは、悪いことではもちろんありません。ただし、これまで3400ほど企業のシステム事例を収集し分析してきた身からすれば、事例を知ることの目的を誤ってほしくないと考えているところです。

とかく日本の企業は、事例を知ることで第三者保証を得ようとしているように、わたしは感じています。採用に踏み切るにあたって、本当に効果があるのか確信が持てないし、社内を説得もできない。業者の説明だけでは、真に受けていいのか不安がある。そこに事例があれば、第三者が成功していることが裏付けられて、安心して採用ができる。こういう具合です。

わたしが考えるに、このような目的で事例を使うべきではありません。いつまでも他人や他社の後追いしかできない組織になるだろうと思います。

この説明のため、個人的には欧米と日本を比較して「日本は遅れている」とする世間の記事やコメントを嫌っているのですが、ここでは敢えてその比較をしてみましょう。

多くの面で、日本は欧米に対して大抵は後追いになっています。最近では中国の後まで追おうとしています。なぜそうなるのか。私見ですが、文化的にそれにつながる思考パターンが定着しているからではないかと感じています。

わたしの知る限りですが、米国などでは、人間関係において、自分から発言しない人や行動しない人は「いない人」と同じに扱われる傾向があります。無視されるわけではありません。「存在しない」として扱われます。しかし一方で、何らか発言や行動をし、良いパフォーマンスをすることを見せると、途端に仲間として認知してもらえます。それは時に、オーバーなくらいに大手を拡げて行われるような気がします。

日本ではどうか。人間関係において、自分から発言しない人や行動しない人は「従順な人」として扱われます。そこで何らか発言や行動をすると、期待される行動や雰囲気からそれが外れているほど、「お前などたいしたことない」と言わんばかりに上から乗っかって来られます。いわゆる「出る杭は打たれる」というものです。

ところが、関係者ではない他人、リスペクトに値する人物、マスコミなどによって、それにポジティブな評価が与えられると、この対応が一気に変わります。途端に評価され、意見が尊重されるようになります。

この違い、わたし個人は、オープンでフェアな判断軸があるのかないのかの違いではないか、と考えています。

米国の企業やビジネスパーソンを見ていると、どれだけ無名であろうが、よいものはよい、試してみよう、という判断をしているように感じます。逆に悪いとわかると、かなりドライに切り離し固執しません。時にそれは非情とも思えることがあります。いずれにせよ、よい・悪いを判断する軸が(よくも悪くも)はっきりしており、それに基づいて物事を見ているようです。

欧州などでも同様の傾向があると感じています。こと欧州は、ものごとのルールや基準を標準化することが得意です。日本にも欧州由来の多くの社会ルールが入ってきていることからもそれは窺えるでしょう。最近で言えば、個人情報保護にまつわるGDPR、国際会計標準のIFRSなどが思い浮かびます。

日本の企業を見ていると、善し悪しの判断は結局他人の意見(すなわち事例)で行っているように感じます。特に「みんなそうしている」「外国でやっている」には本当に弱い。同じ無名の人物でも、日本人だと信用しないのに、欧米人だと信用するという不思議なところがあります。そして、採用した後にダメだとわかっても、失敗と認めたくないのか愛着があるのかわかりませんが、一度行った判断に執着して継続する傾向があるように思います。

要するに、どのようであればよくて、どうだったら悪いのか、客観的な判断軸を持っていないのです。

判断軸が明確にあるのなら、事例は単なる「良き参考」でしかなく、採用の可否は、あくまで自らの判断軸に適っているかどうかに依るはずです。みんながやっていようが軸に合わなければ採用しないし、みんなやっていなくても軸に合っていれば採用する。シンプルです。

ことITの分野に関して言えば、不安であれば実際に試してみればよいでしょう。現在はクラウドが安価に利用できるなど、試してみたければいくらでも試せる環境が容易に手に入ります。止めたければすぐにやめられます。成功事例がなければ不安だと思う必要などないはずです。

他人、他国、他社の後追いで構わないし、そのほうが安全だ、リスクは負いたくない、というなら、止めはしません。しかし、顧客や有望な人材が積極的に選択する企業は、後追い専門の2番手以降の企業なのか。あの会社すごいねと評価される企業は、ポリシーがあいまいな企業なのか。一度考えてみてほしいと願っています。

「最先端のデータ活用」を疑う

ここ最近、いわゆる ”GAFA” に対する風当たりが強くなってきています。大きな理由のひとつは、情報を寡占しすぎているということです。情報を渡す側であるユーザーの保護に対する意識が世間で高まり、例えば2020年に予定されている個人情報保護法の改正検討では、個人が企業に対して自らの個人データの利用停止を請求できる「利用停止権」の拡充が検討されているようです。

データの持ちすぎ、分析のやりすぎは、世間からネガティブに反応されるということが、カタチになって現れてきているということだと感じます。

日本の企業はGAFAに(皮相だけ)見習い、データは集めれば集めるほど良いと考えているように見受けられます。データ活用に先進的と言われる企業ほど、データの持ちすぎ、分析のやりすぎで先進的、というふうになってはいないでしょうか。

GAFAには、世界中のあらゆる情報を集めるというポリシーがあったのかもしれません。そして、集めたその情報をどう扱ったのかという行動が、世間の批判を集める結果につながっています。日本の企業はどうでしょうか。自信を持って顧客に誇れるポリシーのもとで、データを獲得しているのでしょうか。「あればそのうち使えるかもしれないから、とにかくなんでも集めとけ」というような方針は、ポリシーがないに等しいですし、ポリシーがなくてもできることです。

最近よく聞く「先進的な小売業」や「先端を行くマーケティングを実践する企業」などは、例えばこんな感じです。

まず利用者にアプリをスマホにダウンロードさせる。そのアプリを利用開始する前に、性別、年代、職業、居住地域、出身、学歴、趣味など、利用者には数々の個人情報を登録させる。そのアプリにはクーポンなどのお得な情報を掲載して、来店を促す。利用者が来店すると、店舗の入り口に仕掛けられたビーコンでアプリをインストールしているスマホを検知し、入店した段階で履歴の記録が開始される。店舗の棚にも同様にビーコンやカメラが仕掛けられ、手に取っただけのものまで逐次記録される。場合によっては、その場で即座におススメ商品を画面に映し出す。そして最終的に商品を購入すれば、当然に個人と紐づけられる形で購入履歴が記録される。店舗を離れると、アプリには来店のお礼と共に感想などのコメントを求めるメッセージがプッシュされる。それに書き込んで送信すると、その評価もまた記録される。

みなさんがこれを「すごい、進んでる」と感じるか、「気持ち悪い、居心地悪い」と感じるかは、それぞれでしょう。オトクなクーポン以外には関心のない人も、データを取られようが分析されようがどうでもよいと思う人も、なかにはいるかもしれません。

ところで、あなたにはなじみの店というものがあるでしょうか。特に勧誘されてもいないけれど、なんとなく足が向いてしまう。ある特定のモノやコトを購買するとしたら必ずその店に行く。そんな店があるでしょうか。

その店にいる、あなたの馴染みの店員は、あなたのことをどのくらい知っているでしょうか。仮にあなたのプライバシーを事細かに知っていたとしても、それはその店員から聞き出されるままにあなたが回答したことでしょうか。おそらくは、店員から聞かれたわけでもないのに、あなたが自ら進んで話をしたことではないでしょうか。相談するうちに自分のことを知ってもらいたくなって。

企業がデータ分析をする理由は、多くの場合、顧客をより惹きつけたいからであろうと思われます。一方で、どれだけデジタル化されようとも、客が行きたくなる店の特性はそれほど変わるものではないように、わたしは思います。そういう店の(暗黙の)データポリシーは、「情報はなんでも取る」ではないはずです。

成果を問わずに成果を目指す「胆力」(後)

先月のコラムから、AI(人工知能)の採用・導入について述べています。今回はその後編です。

先月は、AIには「使えるデータ」が必要である、そして、AIによるアウトプットの精度を高めるのは案外大変なことである、ということをお話ししました。つまり、AIには「モデル」と呼ばれる分析のシナリオが必要で、その構築にはおよそ試行錯誤を伴う、つまり時間がかかり、それほど簡単ではありません。

例をひとつ挙げてみます。Googleの音声AIであるGoogleアシスタントには、日英翻訳の機能が付いています。「英語の通訳して」などと命令して、日本語でAIに話しかけると英語にしてくれる、というものです(逆もできます)。

ある記者氏が、翻訳を実際に試した内容を記事にしていました。それによれば、こんな結果だったそうです。

(原文のまま引用)
日)シティーハンターの新作映画はコラボするキャッツアイの長女のを誰が演じるのかと思ったら戸田恵子が次女とのダブルキャストでびっくり
英)City Hunter’s new movie collaborates When thinking who will play the eldest daughter of Cat’s Eye Toda Keiko is surprised at double cast with the second daughter

この記者氏は「意味はおよそ通じる」などと評価していますが、とんでもありません。元の日本語はFacebookの投稿らしいのですが、日本語のむちゃくちゃさ加減を飛び越えて英語はぐちゃぐちゃです。戸田恵子さんがびっくりしたことになってしまっています。

当のGoogleアシスタントは、米国の調査会社によるAIアシスタント比較調査で、Siri、Alexa、Cortanaという有名どころの競合を押さえてトップのIQだと評価されています。それでも、複雑な口語体の文章になるとこのくらいのレベル感だということです。精度を高めることがどのくらい大変か、想像していただけるでしょうか。

この問題もまた脇において、仮に、業務で使えるほどに精度の高いモデルが構築できたとしましょう。しかしそれでも、精度100%(つまり、間違いがゼロ)というのは至難の業です。100%ではないということは、AIが想定外の挙動を示すこともあり得ることになります。そうなると、絶対に間違ってはいけない業務システムにAIを適用するのは、普通の感覚なら怖いと感じるはずです。

そこにも折り合いをつけてシステム化し、運用するとしたらどうでしょう。問題は終わりません。先に申し上げたように、AIはデータを食べて動いています。運用中に異常なデータが入り込もうものなら、一発でアウトです。異常なデータが投入されないように日常的にケアすることが必要です。

それを人力や自動でうまく仕組み化できたとしても、実はAIは、正常運用しているうちにモデルの精度が劣化していくことがあります。精度の劣化を検知してモデルを改修する、という活動も必要になるのです。

ひどい話ばかりで、やりたくなくなってしまったでしょうか?しかし、考えてみてください。

ここまで説明したことを理解したうえでAIに取り組み、時間をかけてモデルの精度を向上させ、その成果として盤石なシステムを作り上げたとしたら、どうでしょう。それは、相当レベルの高いノウハウです。出来ないからといって取り組んでいなかった他社は、もうその企業に追随不可能でしょう。覆すことができないアドバンテージになる可能性が高いと思われます。

それに気付いている会社が、成果はそこそこでも今のうちからコツコツ積み上げようとしている。それが実際の姿なのです。

AIの採用や導入には経営者の「胆力」が必要である、と申し上げているのは、これが理由です。

取り組むとしたら、マスコミによるセンセーショナルな見出しに惑わされて飛びつかず、成果を長い目で見られるか自問してください。限定された用途範囲で軽い責任しか負わないようなものから始めてみて、徐々にレベルを高めていくようなシナリオが描けるなら、取り組み方としては理想的かもしれません。

 

成果を問わずに成果を目指す「胆力」(前)

新聞に「AI(人工知能)」の話が頻繁に出ているのを見るにつけ、それとなく焦りを感じている経営者の方がいるかもしれません。

金融機関や製造業を筆頭に多くの大手企業がAIを活用した仕組みを開発し、話題になっています。それに伴って、その開発を支援するベンチャー企業もちらほら名前が目に付くような印象です。適用分野はなかなか多彩で、事務処理の分野から、建設や農業、水産業といった分野にまで広がりを見せています。

マネして追随したくなりますか?うまく行ったら「先端を行く企業」と称賛されるかもしれませんね。ただ、AIの採用や導入には経営者の「胆力」が必要であることを、ぜひ知っていただきたいと思います。

AIの開発に利用できるソフトウェアやクラウドサービスは、急速に充実してきています。技術力のある人がその気になれば、無料でも結構なレベルまで試作することも可能です。少し投資ができるなら、AIを得意にしているベンチャーやベンダーなどと組んで、何らかの実証システムを組むことも難しくはないでしょう。

ただし、AIの開発に一番必要なものは、システムではなく、データです。しかも「使えるデータ」が必要なのです。

およそいま手元にあるデータというのは、AI向けに利用したい目的とは異なる目的でデータ化されています。ありものをそのままAIに食べさせても、実は満足には使えません。

例えば、オークションサイトには品物の写真が大量に存在します。この品物がブランド物である場合に、本物か偽物かを判定したくなるとしましょう。写真がたくさんあるのだからAIに判定をやらせればラクではないか、と思うのがフツウの考え方です。しかし、いまサイト向けに持っている画像を真偽の判定に使おうとすると、画質や撮影の角度などが問題になってうまく行かない、ということが起こるのです。

AIにはデータが不可欠です。しかも、ただのデータではダメで、「使えるデータ」でなければいけません。用意するのは、他ならぬ自社自身です。「使えるデータ」を揃えられるようにするのが、まず大変なのです。

仮に使えるデータが集められたとしても、それだけでAIによるアウトプットの精度が保証されるわけではありません。それはまた別の問題になります。

少々乱暴に説明してしまえば、AIには「モデル」と呼ばれる分析のシナリオを組み込む必要があります。「モデル」がAIの実体、と言ってもいいかもしれません。

このモデル構築、少ない要素で簡単に筋書きを見出せるような分析テーマであれば、それほど苦労しないかもしれません。一方で、判断が感覚的であいまいなテーマであるほど、モデル構築の難易度が上がります。

AIにやらせたいことは説明が簡単でないことなのが通常です。従って判定したい現象をモデル化するには、試行錯誤が必要、つまり、時間がかかります。そんなに簡単にアウトプットの精度は上がりません。

…と、ここで例を挙げて説明するつもりのところなのですが、以降の文章が長くなってしまいましたので、続きは来月にします。もしよろしければお待ちください。

「ベンダー丸投げ」と「経営丸投げ」

情報システム開発のお作法で忌み嫌われるもののひとつに、「ベンダー丸投げ」というものがあります。

これは端的に言えば、発注側がIT業者にシステム開発を委託するにあたって、自らは主体的に関与せず、開発方針や要求もあいまいな状態で、自身が本来すべき仕事でさえもIT業者に「丸投げ」してやらせることを意味します。その結果として出来上がる情報システムは、言わずもがなですが、発注側にとって満足のいかないものになります。質の悪い発注者ですと、その原因は自らにあるにもかかわらず、IT業者側の能力不足にしたがります。

わたしは今の仕事を始めるまでは、これはIT業界特有の話かと思っていました。しかし、多くの事例を見るにつけ、経営の分野でも似たようなことがあると知りました。

企業において、経営者は人を雇います。企業が成長し、組織力が必要になれば、人材が必要になることは必然です。経営者が人に任せるというのは、当前に行われる行為です。

ただし、人に任せる際に、任せようとする側に要求されることがあります。それは、任せる側が何を実現したいのかというポリシーの立案能力と、それを周囲が理解できるように伝える伝達力です。冒頭の「ベンダー丸投げ」においても、発注側に欠けている能力は、大きく分けてこの二つです。

経営者にも、丸投げするタイプがいます。自分では能力的に難しい分野のことを、自分の仕事ではないとして、担える人材を採用し、担当させます。もちろん、優秀な人材を採用して任せることに何の問題もありません。積極的にそうすべきです。ただし、自分はわからないからと言って何のポリシーも示さず、結果やプロセスのモニタリングもまともにしないとすれば、それは冒頭の「ベンダー丸投げ」と同質です。

ポリシーを打ち立て、それをうまく表現して伝える力は、経営者やリーダーにとって死活的に必要な能力だとわたしは考えます。これを疎かにしたまま、人を雇って担当させることを続けるとどうなるか。任された人は従うべき指針が曖昧なので、自分の考えを主体に物事を推進しますが、その人は大抵、ビジネスの全体を俯瞰して見られません。従って、組織は部分最適の道へ進んでいきます。

実は、部分最適な組織でも、優秀な人材を抱えられたなら、売上はそこそこ上がります。そのため、何の問題も感じない経営者も多いようです。ただしそういう企業は、経営者の潜在意識にあった売上目標に達したり、マスコミに取り上げられてチヤホヤされるにようなったあたりから、あまり伸びなくなります。そして、伸びていない理由が思い当りません。

一方、目標の基準を、自分が実現したい理想が顧客や社会に認められたのか、というようなことに置いている経営者は、そこそこ売り上げが上がったくらいでは満足しません。そういう経営者は、自分が実現したい商品やサービスが本当に提供できているかにこだわっているからです。どこまで行っても、改善の糸口を思いつきます。

またそういう経営者ほど、任せた他人がやっている仕事を、全体俯瞰の視点で厳しく見極めます。ただし、ブレない軸を持っているので、任されている側は、何をすれば高く評価され、何をしたら怒られるのか、わかりやすいのです。

そういう企業が築き上げるビジネスシステムは、他にはないものになります。

能力のある人材に頼るのはもっともなことです。ただし、際立つ企業のリーダーを見ていると、設けた柵の中で「放牧」はすれども「放任」はしていません。全体のうちのどの部分を切り離し、そこにどのような成果を求めるのか、任せる側がこれを意図的にデザインしないとすれば、やはりそれは、スジのとおった意志のない「丸投げ」なのです。

 

「見える化」と「見え過ぎる化」

よくある企業のシステム化事例に、「見える化で成功」というものがあります。

これまで曖昧だった社内の状態、顧客の状況、問題や異常、施策の成果などを、経営者や責任者または現場の人々が「見える」形に整え、確認したり評価したりできるようにする。「見える化」そのものは、大変に意義も効果もある取り組みです。

ただし、見えればよいというものでもありません。見え過ぎることで弊害が生じることもあります。

ある製造業の企業で、それまで見えていなかったサプライチェーンの動きを徹頭徹尾「見える化」して成果を挙げたという事例がありました。当時、この事例は大々的にマスコミに取り上げられ、仕掛け人だった当時の社長は「経営とITのどちらにも精通する人物」としてもてはやされていました。

ところがその社長が退任し、次の社長がその会社に就任すると、新社長はその「見える化」のほとんどを、ことごとく廃止していきました。なんと、見えなくてよいと宣言したのです。

現場の仕事ぶりと成果がすべてデータで挙がってくる「見える化」が、就任時点から労することなく整備されていたにもかかわらず、新社長はなぜ止めるように指示したのか。その理由は、現場にありました。

「見える化」を実現するためには、各業務の動きや流れをどこかでデータに変換しなければなりません。そのデータをどこかで入力し、どこかに集約して集計し、どこかから出力して、表示しなければなりません。実はこの会社では、こうしたデータ処理のプロセスのほとんどが、人力だったのです。現場の社員の多くはデータ処理に相当の工数を強いられ、実はお疲れ気味だったのだとか。

しかも社長向けに出力されてくるデータはかなり細かく、経営判断にはそこまで必要がないというものだったそうです。

「見える化」するのはよかったけれど、見えるようにしすぎて処理が重くなりすぎ、本来の業務に支障をきたすという、本末転倒な状況でした。もうやめるように指示するのも、無理はありません。

世間の事例をマネして単に「見える化」を目指そうとすると、リーダーの性格によってはこうしたことになりがちです。無用な細かさは、ITツールの技術的なスペックにも影響して無用な投資にもなりかねません。こうしたことを避けて「足るを知る」ためにも、まずはシナリオのデザインが必要です。見えるようにする前に、データを見ることによって何がしたいのか。見えるようになったデータから何をどのように達成して成果にするのか。

現実味のあるシナリオが的確に描かれていれば、必要十分な「見える化」となって、末永く自社のビジネスの仕組みに活かされるはずです。

当然ですが、「見える化」の受益者が経営者であるなら、システム要求の整理には主体となって参加すべきでしょう。

デカい会社よりも、ハヤい会社を

今から25年ほど前、大学の研究室で初めてMosaicなるものをコンピュータ画面で目にしたとき、それがいったい何の役に立つものなのか皆目見当がつかなかったことを、よく覚えています。

“Mosaic” とは、現在のWebブラウザーの原型となったソフトウェアです。その後どうなったかは、みなさんご承知のとおりでしょう。このように、わたしにはあまり先見の明がないのですが、年頭くらいはボヤキよりも前向きなことを書きたいと思い、少々慣れない将来予測をしてみたいと思います。

私見では、ビジネスを成功に導くために、当面は「ちょうどよい規模の驚速企業」を目指すのがよいのではないかと考えています。

ここでいう「ちょうどよい規模」とは、大きくてもダメ、小さくてもダメ、いわゆる「足るを知る」ということです。

まず、当面は大きなものを作ってはいけないと思います。大きなものは、全体制御も微調整も難しい。全体で信頼性を維持するのが困難であり、一部でも壊れればその影響が大きくなりかねない傾向があります。それに、柔軟性も通常はありません。何か課題を抱えた時、すぐに課題のある部分だけ直したくなりますが、たいていそれは理想的な解ではありません。そうわかっていながら、全体を考えようとすると複雑で面倒なので、部分的に直してしまいます。つぎはぎを継続するうちに無理が出るようになり、いつしか仕組みの効果や効率が落ちていきます。そしてそれが破たん寸前になるまで、当事者たちは問題にしません。

大きなものの末路とは、およそこうしたものです。

だからと言って、小さいものであればいいわけでもないと思います。小さいものにフォーカスすると、必ずそのうち、小さいもの同士を連携させたくなります。それが不幸の始まりです。始めのうちは繋いで幸せですが、徐々に調子に乗っていくと、構造が複雑化していきます。複雑化したものは、大きなものと同じです。しかも厄介なことに、人間は、複雑が極まってコントロールできなくなって初めて、それが複雑であることに気付く生き物なのです。

ちょうどよい規模であることがなぜ必要なのか。その理由は「驚速」にあります。これからの時代、企業は「常に速い」ことが要求されるだろうと思うからです。

その要因は、ITがもたらすスピードと処理能力です。資本がなくてもITのパワーを享受できる時代になったいま、これに対応できる人間や組織であるかどうかが問われます。ニーズに対して驚速でアウトプットを出せる企業が勝ち、遅かった企業は、場合によっては秒単位の遅れでも、淘汰されてしまうかもしれません。

ただし、速ければよいというわけでもありません。精度も問われます。速くアウトプットできたとしても、すぐにもろさが露呈する企業は、やはり淘汰されるでしょう。ITと、それを駆使する組織、安定した質を実現できる仕組み、すべてが問われます。これが、「常に速い」という意味です。

これからビジネスに要求される「驚速」を実現するための現実解が、現時点では「ちょうどよい規模」であることだろう、ということで、目指すべきは「ちょうどよい規模の驚速企業」と考えました。

ところで、「ちょうどよい規模の驚速企業」という目標のうち、「ちょうどよい規模」というのは「当面」に限られる話です。「ちょうどよい」時代の後には、「デカいのに速い」企業が主役になるだろうと思います。

そういう企業はしばらく出てこないだろうと思いますが、冒頭に申しあげたとおり、わたしには先見の明がありませんので、悪しからずご了承ください。