個人情報は、秘密だから保護するのではない

企業活動において個人情報を取り扱うことは、センシティブな事柄として常に緊張感をもって利用を考える必要があると思います。先日知ったあるサービスのことで、その思いを新たにしました。

簡単に説明すると次のようなものです。そのサービスは顧客情報基盤サービスといった趣旨を謳い、各社が顧客向けに制作するスマホアプリの中に組み込むことができるものになっています。

企業がこのサービスに契約して、自社のアプリにその機能を組み込むと、このサービスに関連するセンサーを組み込んだデバイスに近づいたときにバックグラウンドで通信が行われ、その際にアプリ利用者の識別子と位置情報を収集します。こうしたセンサーが様々なスポットに設置されており、そのアプリの利用者が行った先の情報がくまなくこのサービスに蓄積されることになります。

その位置情報データを含めて行動分析すると、その利用者の嗜好や行動パターンが分析できます。購買していなくても、どの場所で、どんなものを見ていたのか、わかるわけです。

その分析に基づき、物販している場所などにある時その利用者が近づいたら、当人のスマホ画面や、その場所に置かれているサイネージなどに、その利用者が興味を持つと推測できる広告やクーポンなどを提示して、購買に繋げる、という仕掛けです。

このケースで、利用者から見たときのアプリは、気に入った小売店のものだったり、情報提供サービスだったりと、様々でしょう。一方で、アプリを提供する企業から、その基盤サービスが組み込まれているという説明が適切にされていなければ、利用者がそうとは気づかぬうちに行動が収集され、興味や嗜好を判定され、広告表示に使われることになります。

この基盤サービスを提供している企業は、個人が認識できないような仕組みで分析を行っていると説明しています。個人情報保護に関連した各法律にも触れないように作っていると想像します。ただ、この仕組みを理解した時に、気味が悪いと思う個人は少なくないだろうと思います。

広告をビジネスにしている会社にしてみれば、個人にパーソナライズされた広告を表示するのは顧客の利便性にかなう、と考えるのでしょうが、一方の個人の側では、そもそも広告表示など不要だと思う人も少なくないわけです。個人情報はあくまで「当人の持ちもの」であり、利用する企業は「人様の持ちものを使っているのだ」と認識することが重要だと思います。

企業の個人情報利用の問題に関しては、リクナビ問題がいまだ記憶に新しいところです。この問題は、商売の面では理にかなっていても、道理にはかなわないことがあるということを、強烈なかたちで世間に示しました。

適切な判断ができないまま道理にかなわないサービスを設計してしまうのは、個人情報を保護しなければならない理由に対して理解が乏しいからかもしれません。個人情報を保護しなければならないのは、必ずしもそれが個人の秘密だからというわけではありません。その人が積極的に提供するつもりがない自身の情報が、勝手に第三者によって選別や判定や評価に利用され、それが当の本人に不利益をもたらすことを防止する必要があるから、保護が必要なのです。

ここで、「不利益」をもたらさないのなら個人情報は使ってもよいことになりますが、この「不利益」が、人によって異なる主観的なものであることが多いわけです。だからこそ、個人情報の利用にあたってはその目的を提示し本人の同意を取ることが求められます。

こうした感覚が乏しいと、本人の知らないところで個人にまつわるデータを収集する行為に、あまり深い問題を感じないだろうと思います。

例えば、教育の分野では、学生や生徒が利用するタブレットなどの端末の操作ログを取得することを巡って問題になるケースが出てきています。

その操作ログを蓄積して学習履歴などを分析すれば、その内容から学生や生徒を「選別」するような評価が可能であり、その評価が当の学生に不利益をもたらす可能性が考えられます。ですから、そうした行為は行われないこと、端末を利用する学生や生徒にメリットをもたらすサービス設計がされていることを丁寧に説明し、同意を取る必要があるのです。

データを取られる側の人々の理解が乏しいことを前提として、フェアなサービスを設計し誠意をもって個人情報を利用すること。個人情報を利用するサービスを「自分の情報を使っていいからいいもの提供してくれよ」と言ってくれる利用者に ”だけ” 提供すること。またその利用実態を誠意をもって公開し説明すること。個人情報を利用する企業に求められるのは、こうした姿勢と行動ではないでしょうか。ポイントを付けてあげたのだから、クーポンを出してあげたのだから、おカネを出して買ったのだから、あとは企業側の自由であるという発想は、非常に危険です。

データがある会社とない会社の、大きすぎる差

おおよそそうではないかと思っているのですが、ビジネスの仕組みが明らかではない会社には、使えるデータもありません。

使えるデータをたくさん持っているのにビジネスの仕組みはいまいちだという会社を、わたしは寡聞にして知りません。逆に、ビジネスの仕組みづくりに長けている企業には、たいていは多くの使えるデータが存在しています。

そういう傾向になるのは、データに次のような特性があるからです。

まずデータは、使おうとする人が自分で「取ろう」と思わなければ、存在すらしません。自然にそこにあるように思われがちですが、そうではありません。自然にそこにあるデータも見つけることはできますが、それは誰かほかの人が取ろうと意図して取得したデータに違いありません。そしてそういうデータは大抵、自分にとって使えるデータにはなっていません。

次に、データは何らかの目的をもって取らなければ、そもそも意味を成しません。意味をなさないのなら、使えないデータです。何かの情報システムやソフトウェアを入れたりすると、それが勝手に内部でデータを取っていたりします。しかしそのデータ取得が自分が持つ目的に合ったものでないなら、きっとそのデータが参照されることはありません。見たところで意味がないからです。漫然とデータが取られているだけならば、自分に見えてくるものは何もありません。

さらに、データというのは、使わないのなら持っていないのと同じです。出してくれと言われれば多くのデータを揃えて提出できる会社はたくさんあります。しかし、それらのデータを普段から自分で使っていないのだとしたら、実はそれらのデータを出力できない会社とあまり変わりはありません。

最近、AIを適用して業務能力を向上させる事例が、業種を問わず出てきています。ただ一方で、AIを使える企業と使えない企業の差が、かなり顕著になってきている側面もあります。その要因は、技術力の差というよりも、つまるところデータの差です。AIはデータを食べさせることで育成されます。自社内に使えるデータがない会社は、そもそもスタートラインに立てないのです。

データというのはまた、過去から現在までの蓄積の賜物という側面もあります。ある企業では、職人技の調整を要する業務にAIを適用して判断精度の向上を図ろうとした際、数十年にわたって記録してきた作業日報を活用したそうです。そこには、調整のノウハウと、成功失敗の履歴が詰まっていました。

おそらくこの会社では、「どう調整したらうまく行くのか」を長年追究し続けてきた結果、一定の「仕組み」が出来上がっていたのではないでしょうか。その蓄積が、作業日報でした。もちろん紙の情報でしたが、これをデジタル化してAIに学習させたのです。

職人技に依存する多くの企業は、その技を言葉にしようとする努力を欠いています。実際、言葉にしようとすると大変な労力を要します。それでもなお言葉で表現しようとする取り組みは、つまり属人的な仕事を仕組み化しようとするものにほかなりません。仕組みを構築するマインドがある会社はおよそ、データ化する取り組みは自然に実行しているものなのです。

「最先端のデータ活用」を疑う

ここ最近、いわゆる ”GAFA” に対する風当たりが強くなってきています。大きな理由のひとつは、情報を寡占しすぎているということです。情報を渡す側であるユーザーの保護に対する意識が世間で高まり、例えば2020年に予定されている個人情報保護法の改正検討では、個人が企業に対して自らの個人データの利用停止を請求できる「利用停止権」の拡充が検討されているようです。

データの持ちすぎ、分析のやりすぎは、世間からネガティブに反応されるということが、カタチになって現れてきているということだと感じます。

日本の企業はGAFAに(皮相だけ)見習い、データは集めれば集めるほど良いと考えているように見受けられます。データ活用に先進的と言われる企業ほど、データの持ちすぎ、分析のやりすぎで先進的、というふうになってはいないでしょうか。

GAFAには、世界中のあらゆる情報を集めるというポリシーがあったのかもしれません。そして、集めたその情報をどう扱ったのかという行動が、世間の批判を集める結果につながっています。日本の企業はどうでしょうか。自信を持って顧客に誇れるポリシーのもとで、データを獲得しているのでしょうか。「あればそのうち使えるかもしれないから、とにかくなんでも集めとけ」というような方針は、ポリシーがないに等しいですし、ポリシーがなくてもできることです。

最近よく聞く「先進的な小売業」や「先端を行くマーケティングを実践する企業」などは、例えばこんな感じです。

まず利用者にアプリをスマホにダウンロードさせる。そのアプリを利用開始する前に、性別、年代、職業、居住地域、出身、学歴、趣味など、利用者には数々の個人情報を登録させる。そのアプリにはクーポンなどのお得な情報を掲載して、来店を促す。利用者が来店すると、店舗の入り口に仕掛けられたビーコンでアプリをインストールしているスマホを検知し、入店した段階で履歴の記録が開始される。店舗の棚にも同様にビーコンやカメラが仕掛けられ、手に取っただけのものまで逐次記録される。場合によっては、その場で即座におススメ商品を画面に映し出す。そして最終的に商品を購入すれば、当然に個人と紐づけられる形で購入履歴が記録される。店舗を離れると、アプリには来店のお礼と共に感想などのコメントを求めるメッセージがプッシュされる。それに書き込んで送信すると、その評価もまた記録される。

みなさんがこれを「すごい、進んでる」と感じるか、「気持ち悪い、居心地悪い」と感じるかは、それぞれでしょう。オトクなクーポン以外には関心のない人も、データを取られようが分析されようがどうでもよいと思う人も、なかにはいるかもしれません。

ところで、あなたにはなじみの店というものがあるでしょうか。特に勧誘されてもいないけれど、なんとなく足が向いてしまう。ある特定のモノやコトを購買するとしたら必ずその店に行く。そんな店があるでしょうか。

その店にいる、あなたの馴染みの店員は、あなたのことをどのくらい知っているでしょうか。仮にあなたのプライバシーを事細かに知っていたとしても、それはその店員から聞き出されるままにあなたが回答したことでしょうか。おそらくは、店員から聞かれたわけでもないのに、あなたが自ら進んで話をしたことではないでしょうか。相談するうちに自分のことを知ってもらいたくなって。

企業がデータ分析をする理由は、多くの場合、顧客をより惹きつけたいからであろうと思われます。一方で、どれだけデジタル化されようとも、客が行きたくなる店の特性はそれほど変わるものではないように、わたしは思います。そういう店の(暗黙の)データポリシーは、「情報はなんでも取る」ではないはずです。

「データは客観的」のウソ

ビッグデータ、ビジネスインテリジェンス、人工知能(AI)と、ここのところデータ活用を軸にした話題に事欠きません。かつて “Data is the new oil.” と謳われ、データが持つ潜在価値と将来性がクローズアップされました。データを持つことは競争力の格差につながると考える企業は、その収集と集約に躍起になっているところです。

データのどこに価値があるのかと言えば、それは人間には見えないもの、感じ取れないものまで含めて、事象をデジタル化して記録するところにあるのでしょう。

事象によっては、すべてを捉えようとすればそのデータ量は膨大になることがあります。または、ものによっては一瞬で完了してしまうような事象もあります。膨大であっても高速であっても、データにすることで利用が容易なかたちで収めることができる。データが事象を説明しているので、観察や分析ができる。結果として、新しい知識の発見につながる。こういうことが価値となるのだろうと思います。

そのように考えると、事象を捉えたデータというのは、きわめて客観性が高いもののように思えてきます。私見では、多くの企業が「データは客観性が高く、正しい」という理解をしているのではないかと感じています。

しかしそれは、大いなる誤解です。データは、実際には「主観の産物」です。

データは、オイルと違って天然に存在する資源ではありません。データは、取得すべくして人間が設計するから、取得できるモノです。どのようにデータ化するかの設計は、人間の主観で行っています。そうである以上、得られるデータも、主観の域を脱することはありません。

例えば、「気温」はどうでしょう。気象庁が公式に各地の気温を発表しています。疑いようのない、正確なデータです。ところで気温はどのように計測されているかご存知でしょうか。日本の気象庁では、地表面から1.5mの高さで測定することが基準とされています。

この ”1.5m” というのは、人間の主観です。そもそも気温は、地表面から成層圏までスペクトル状に分布し、両端では大きく異なります。夏場において、ベビーカーに乗った幼児が感じる「気温」は、気象庁発表の「気温」よりもかなり高い、とはよく聞く話です。それでも気温を1.5mの高さで測定する「主観的」な判断に誰も文句を言わないのは、多くの人にとって生活実用上問題がないからにすぎません。

主観的に設計した結果としてデータが取れるのであって、設計しなかったデータはもちろん取れません。そういえば、もうすぐサッカーのW杯が始まりますが、サッカーにおいてはフォーメーションが重要だと言われます。選手をどのような配置でフィールドに並べ、局面に応じてどのような連動をさせるかが、勝敗に大きく影響するというわけです。

これが理解できているサッカー玄人の分析者なら、効果的な戦術を導こうとするとき、試合中のボールの動きだけでなく、ボールを持っていない選手の動きまでを含めてデータを取得し、分析しようとするでしょう。玄人にとっては何のことはない話です。

一方で、わたしのようなサッカーの素人だったらどうでしょうか。戦いかたを知らない素人に試合をさせると、往々にしてほぼ全員がボールに寄っていく動きをするものです。ボールにしか注目していないのです。そういう素人がサッカーの試合を分析しようとしたら、ボールを持った選手とボールの動きのデータしか取らないかもしれません。仮に玄人が取ったデータを利用して分析するとしても、素人は興味も関心もないので、ボールを持っていない選手の動きなど見ようともしないと思われます。この場合、ボールを持たない選手の動きに関する知見は、どんなに頑張って分析しても得られないでしょう。

こうしたことは、ビジネスの現場でも多数起こっているのではないかと推察します。つまり、設計時点で考えが及んでいないデータは、分析されないどころか存在さえできないということです。それは、データが「主観の産物」だからです。

別の観点でもうひとつ。データは取得が終わった時点で「過去のもの」になり、必ずしも「いま」の分析に有効ではないかもしれません。

例えば、顧客向けに満足度評価のアンケートを継続的に取っているとします。あるとき、アンケートの質問を改善したとします。そうすると、回答する顧客が質問に対して感じることが変わり、結果として回答の傾向に影響が出ます。

こうなると、前のバージョンのアンケートで取得してきたデータとは、単純比較できなくなります。アンケートを変えたいと思うということは、何らかの形で評価したいことが変わったということです。その時点で、蓄積してきたデータはもう使えなくなります。設計を主観的に行っている以上、その主観が変われば、取るデータの意味合いも変わり、どれだけの蓄積があろうとも過去のデータは無用になるのです。

このように、データは「主観の産物」です。あなたが想像できないものは見えません。森羅万象が取れることもありません。他人が取ったデータは、自分が欲しいデータではないかもしれません。自分でよく考えることなく単にかき集めているだけでは「使えるデータ」は手に入らないと認識することが、データ活用の始めの一歩になるのではないかと思います。

あなたの会社に「欲しいデータ」は整っているか

近年盛んにIT活用が取り上げられている分野に、農業があります。農場や農機にセンサーやカメラなどを取り付け、データを取得することで、農作物の生産品質の向上や作業効率化を図る、という取り組みです。

さまざまな事例が出てくるようになっていますが、同時にさまざまな課題もあることが分かってきているようです。そうした事例を見ていると、ほかの業界でも例外ではない、ITを活用するうえでの重要な課題がいろいろと理解できます。

例えば、「欲しいデータを正しく取る」という課題です。これは、1つの課題に見えるかもしれませんが、2つの課題について述べています。

農業の事例においては、データの取得にセンサーやカメラを使っているというのは、先に述べた通りです。こう言うと、機器を設置すればあとは自動でデータを採ってくれるように感じられますが、実はそんなにシンプルなことではありません。設置するのはいいですが、「こちらが思っている通りにデータが取れる」ということが保証される必要があります。

つまり、機器を設置したところで、環境的な条件でうまく機能しないかもしれないのです。例えばカメラを農地に設置したところ、そのカメラにクモが巣を作ってしまって映像を撮るどころではなかったというエピソードがあるくらい、自然を相手にして根本的な問題に突き当たることがあるわけです。

なにもこれは、農業だけの問題とは限りません。センサーの感度、カメラの向きや解像度など、場合によってはそうした要素の微妙な違いが、自社が欲しいデータの条件に大きく影響してくることは十分考えられると思います。都市部においても、設置環境は大きな影響を与える要素になり得るでしょう。

そうした条件をクリアして、とりあえず物理的にデータは取れるようにできたとしても、今度は「そのデータは本当に欲しいデータなのか」も保証されなければなりません。

農地において気温や降水量などのセンサーデータを取得するのは、当たり前のことのように思えます。しかしそれらのデータは、例えば農作物の品質向上などの目的を果たすのには結果として役に立たないかもしれません。役に立たなければ、そのデータは取っていても無駄ということになります。

試行錯誤してさまざまなパラメーターを試した中から、ある特定のセットだけが役に立つデータであった、という結論になるわけです。それができてようやく、「欲しいデータ」にたどり着くことができたことになります。「欲しいデータ」とは、最初から何の苦労もなくわかっているとは限らないのです。

このあたり、事例の中には、初めから科学的に裏付けのある理論を背景にデータを取得し、検証するという取り組みもあります。そうした方向性なら、もしかすると結果は出しやすいかもしれません。

ただし農作物などは、収穫が年に1回などの場合は特に、成果が見えるのが年間で限定されてしまうケースが多々あります。試行錯誤するにも、相当な時間がかかるということです。しかも環境条件が一定せず、それによって結果が左右されます。

こうして見ていくと、センサーデータがいくら蓄積され分析できたとしても、それだけではまったくうれしくはない実態が理解できるのではないでしょうか。

こうした状況は、農業分野に限らないのではないかと思います。ITを活用するうえで、データの質と量はその根幹を成します。

ITの業界には、”Garbage in, garbage out”という言葉があります。ITの話ではその機能に注目が集まりやすいですが、実はデータこそ重要です。入力データがゴミならば、機能がどれだけ先進的でも、出力されるデータは間違いなくゴミなのです。それがゴミか否かを判定するのは、そのデータと、そのデータを使った活用シナリオによって生み出される、ビジネス上の成果にほかなりません。

勘のよい方はお気づきかもしれませんが、今はやりのAIもまた、同じような話が当てはまります。

経営者のみなさんには、ぜひ自社を振り返っていただきたいと思います。会社の成果につながる「欲しいデータ」とはなにか定義ができるか。欲しいデータがきちんと社内に整備され、維持されているか。そしてそのデータは、実は「ゴミ」になってはいないか。

 

データ流通のハブとして期待したい「情報銀行」

先日の報道によれば、政府は「情報銀行」の創設に向けて本格的な検討を始めたとのことです。実証実験を行い、2018年度中の法整備を目指すとしています。

「情報銀行」とは、個人のライフログ、つまり行動履歴、購買履歴、診断履歴、趣味情報、スケジュールなどを含む個人情報を、個人の預託に基づいて一元管理する制度または事業者のことです。銀行におカネを預けるように、個人情報を信頼できるかたちで預ける機関として考えられています。

現在こうした個人情報やプライバシー情報は、各事業者でバラバラに取得および保管され、またその利用のされ方も必ずしも明確にされているとはいいがたいケースがあります。個人の意向を中心に据えて一元的に情報を管理することで、正当なかたちで個人情報が流通し、事業者が個人に最適化された適切なサービス・情報を提供することにつながる、と期待されています。

このアイデアは、識者を中心に数年前から提唱されていましたが、いよいよ本格的な実現に向けて検討が始まるようです。コンセプトそのものは、大いに期待が持てると思います。

重要なのは、「個人が自らで情報提供をコントロールできる」という点だと、わたしは考えています。

一部の事業者によるライフログの利用、また個人情報の取扱いに対するスタンスは、いわゆる「気持ち悪さ」がぬぐえないものがあります。実際、昨年11月に発表されたNTTデータ経営研究所による調査では、企業がパーソナルデータを利用することへの印象について、48.9%が「知っており、不快である」、21.4%が「知らなかったので、不快である」と答え、計70.3%が不快感を示しました。

この背景には、サービス提供や情報提供、ポイント提供などを受けることで、ライフログや個人情報が利用者の無意識のうちに(一部では勝手に)収集されている側面、個人情報の活用に対する利用者側へのフィードバックに必ずしも透明感がない側面、などがあると思われます。一部の事業者では相当に事業者寄りのかたちで利用規約改正を行い、取得した履歴データを自由に使ってよい環境を整えようとしている傾向がありますが、利用者の側は規約の改正やその意味合いなどほとんど知らない、というのが現実でしょう。ポイントカードなどでは、カードを作った以降に提携企業が知らぬ間に増え、知らぬ間に自分の情報がいろんな企業に流通しているという状況も推察されます。要するに、正直さが足りない感じがするわけです。

こうした不安感を払しょくし、個人が自らのコントロールのもとで、自分がよいと思った事業者だけに喜んで情報提供する。預けるべき情報も、自分の意志でコントロールする。一切知られたくない、怪しいから提供したくない、と思えば何も預けないという選択も取れるし、どんどん企業に提供してお得な情報を得たいと思えば預ければよい。本来あるべき情報流通の姿ではないでしょうか。

セキュリティリスクをゼロにすることが事実上不可能であるという事実を踏まえて、情報銀行をどのようにセキュアに運営するのかという大きな課題はあります。こうした機関から万一情報が漏えいすれば、取り返しがつきません。米国では患者の診療情報などが積極的にデータ化されていますが、病院から漏えいしたそのようなデータが、ダークWebで売買されていたりする現実があります。

そうした課題に適切な対策を打って設立を実現できるなら、今後のデータ活用の活性化にもつながる方向性でないかと思います。期待したいところです。

データ活用「やる、やらない」の経営判断を誤ると、どうなるか(後)

前々回、および前回のコラムで、企業がデータ分析活用を成功させたケースやうまく行っていないケースを概観し、そのパターンやポイントの考察を簡単に紹介してきました。今回は、まとめとして、結局企業は、データ分析に対してどのように対応していくべきかについて、わたしの現時点での見解を述べたいと思います。

実はこのことは、いま企業に要求されているITへの関わりかたが、大いに関係していると見ています。

一般にデータ分析というと、社内外のデータをいわば「拾ってきて、集めて、よく見てみる」という感覚で捉えられている雰囲気を、個人的には感じています。しかし、成功している企業には、そういう態度はありません。

実際に少しでもデータ分析を試してみるとわかることですが、社内外にデータはそこそこあるかもしれないものの、「有用なデータ」となると、思ったほど存在しないものなのです。

では、成功している企業は「有用なデータ」をどう調達しているかというと、「自分でつくって」います。

アンケート調査を自ら実施する、現場に行って測定する、持っているデータに2次属性を付けたり簡易計算したりして加工する、など、さまざまなテクニックや工夫をして、専門的知見を取り入れながら自分たちでデータを考えだし、生み出しているのです。

データ分析活用において、かなりアートな感覚も要求されるこうした創意工夫の態度、そしてその取り組みを長い目で支援する組織の存在は、非常に重要と言えます。

前々回に紹介した統計調査結果を見て推察できるように、「ビッグデータは自分たちには関係ない」と思っている企業は、少なくないようです。ビッグなデータを持っているとも思わないし、持っていてもコストをかけて分析する価値を感じない、と考えているように見受けられます。

しかし実際のところ、データを分析する価値は、自然にわいてくるものではありません。自らアクションを起こして、ビジネスの視点で活用シナリオを描かなければ、価値は見えません。

また、データがビッグかスモールかは、あまり問題ではありません。最新版の Excel で実行可能な範囲の分析で、要求が十分満たせることも少なくないのです。

消極的な企業の中には、そのうち誰かが方法論をまとめてくれたら真似してみようと思っているところもあるのかもしれません。しかし、成功企業はいずれも、自ら試行錯誤したうえで、自らにとって有効な方法を独自に見出しています。これは自らの努力で勝ち取るノウハウです。誰でも成功できるような便利な方法論は、いつまでも出てくることはないでしょう。

そして重要なのは、「過去とは違って、いまは簡単にデータを取り扱うことができるようになった」ということです。過去においては相当に高価で手が出なかったBIツールが安価に手に入るようになり、なかにはフリーのものまであります。バイト当たりのハードディスク単価は劇的に低下し、分散処理技術も充実、大規模でデータを扱いたいならクラウドも使えます。その気になれば、特殊能力がない一般企業でも相当なレベルまでできてしまう手軽さに落ちてきているのです。

世の中でバズワード化した「ビッグデータ」の本質とは、実はこれであると、わたしは考えています。だからこそ、データを操れる企業とそうでない企業との間では「突出した差ができつつある」のです。結果として、本気でやって成功した企業には、将来も継続して強みとなり得る能力が身につくことになります。

データ分析活用におけるITは、従来にあったような「導入するかどうかのIT」ではありません。いまの時代に企業に要求されているのと同じく、「どう使うかを考えるIT」と見るべきでしょう。データ分析活用もまた、「IT活用はあらゆる面ですでにそういうフェーズになっている」ことを示す、ひとつの例なのです。

もちろん、本気で取り組むかどうかを検討した結果として、企業によっては「やらない、必要ない」という選択もありえるだろうと思います。いずれの選択をするにしても「確信をもって」判断する必要があるでしょう。「やらない」判断をして誤った場合の代償は、大変大きなものになると想像できます。

一方で、「やる」という判断をしたとしても、「判断したから、あとはよろしく」とは行きません。

データ分析のビジネスへの活用レベルは、経営層が持つビジネスの視点と、経営層による具体的行動、データ分析能力へのリソースの投下と、それが創り出す体制や仕組みに大きく左右されます。データ分析のチカラを企業が取り込もうと思うなら、現場が成果を挙げるのを経営層が『黙って待っている』のでは成功確率がかなり低いことは、事例が示しているところです。やるのなら片手間ではなく、本気で、息長くやる覚悟が求められるものと理解したいところです。

データ活用「やる、やらない」の経営判断を誤ると、どうなるか(中)

前回のコラムで、ほとんどの企業は、ビジネスをドライブするうえでデータ分析をそれほど重要とは見ていない、または少なくとも過去においては重要と見ていなかった企業であり、その中でデータ分析に取り組んで成功したと言える企業にはパターンが2つある、と述べました。今回は引き続いて、その2つのパターンのお話から始めます。

成功例といえるパターンのうちのひとつは、ビジネスが停滞または危機に瀕するような状態に陥った結果、改革の活路として徹底した品質管理・事業管理を目指すことになり、その原動力としてデータを活用したケース。もうひとつは、現場で始めたデータ分析の具体的な効果を経営層が高く評価する結果となって組織に定着したケースです。

前者のケースの場合は、結果としてトップダウンになり、組織を横断した取り組みとなるので、英知をうまく結集できれば成功に至ります。経営層に危機感が強い、またはデータを適用しようとする分野に経営層がもともと明るい、といった場合は、成功率が高まるように見受けられます。

後者のケースの場合ですが、実際にこのカタチで成功する企業は、なかなか数は多くありません。たいていの場合、データ活用をやってみようとしつつも、ボトムアップになるため社内でなかなか盛り上がらずに苦労しています。

ボトムアップで成功している企業で特徴的なのは、データ活用を試そうとするチームが、IT部門に近いところにあることだと見ています。IT部門が全社横断でデータを閲覧できるという強みをうまく生かし、業務部門をうまく巻き込んで、分析のみならずその成果を使ってもらえる仕組みをつくり上げられると、成功につながっているようです。

一方で、データ活用を試そうとするチームがマーケティング部門に近いところにあると、Web や EC 以外では顕著な成功例がなかなかありません。マーケティング部門が孤軍奮闘するも、他部門はあまり乗ってこないか受け身である様子が見受けられます。

データ分析は、分析力が重要であることは言うまでもありませんが、むしろ、その分析結果を踏まえて業務に埋め込み仕組み化する能力が、さらに重要になります。この能力の確立には、業務を横断してデータ活用の意義を共有し協力しあう体制が不可欠で、取り組みに対して相互に責任を持つ意識も重要です。

それができていない組織ではデータ分析をドライブする力に欠けてしまい、投下できる組織リソースにも欠けるため、まずは小さく始めて小さく成功しようとアプローチするのはいいけれどなかなか大きく広がらない、という印象です。スモールスタートが、スモールなままで成長しないのです。Web や EC でうまくいくのは、取り組みがITの領域でほぼ閉じるからと言えるでしょう。

興味深いのは、同じ業種で似たようなものを売っている企業間で比較しても、データ重視とそうでない企業があり、社内でのデータ分析に対する取り組みかたが見事なまでに異なることがある点です。例えば、同じ業種の企業のマスマーケティングにおいて、かたや華々しい成果を挙げてマスコミに大々的に取り上げられる一方、かたや「小さく始めて広げていくしかない」と頑張ってトライするけれど盛り上がらず、街に出て話題をつくろうと思っても理解してもらえず、顧客データの獲得どころか逆に街の人に「何やっているんですか?」と聞かれてしまう、といった具合です。

くり返しになりますが、ビジネスにおけるデータ活用は、統計的スキルや分析ツールの運用能力があることが必要十分なのではなく、分析した結果を現場が活用できる仕組みに昇華させる取り組みがさらに重要です。つまり、組織横断で行動できるかどうかがカギになっているわけです。関心のある人材のみで推進するボトムアップでは、データ分析活用の場合、すぐに限界が来ます。

このようなことが、データ分析活用の成功ケース・停滞ケースを総合的に概観してみると分かってきました。情報システム活用も同様なところがありますが、データ分析活用はその傾向がよりセンシティブであると思われます。

では、結局のところ、データ分析を企業にとって有用な施策とするにはどう対応すべきのか、次回のコラムでまとめてみたいと思います。

データ活用「やる、やらない」の経営判断を誤ると、どうなるか(前)

最近、集中的に、データ分析のビジネスへの活用について事例研究を行っています。今回と次回のコラムでは、現段階での理解から少しだけ紹介してみようと思います。

データ分析というテーマは、昨今の「ビッグデータ」ブームに乗ってホットなトピックになっています。しかし、現時点では大多数の企業がこれに取り組んでいるという状況でもないことが、各種の統計調査から見えています。例えば、日本情報システムユーザー会(JUAS)が昨年発表した調査結果によれば、ビッグデータ活用を「導入済み」とした企業は、割合にして 4.8% しかいません。一方で、ニーズなしとした企業は 52.9% となっています。

JUASのアンケート調査に回答する企業は、およそIT活用にそれなりの意識を持つ大企業と中堅企業です。それでこの結果ですから、この件に関する日本企業全体のトレンドは推して測れるでしょう。

しかしながら、データ分析活用の事例を探っていくと、相当先進的なものが出てきます。成果はもちろんですが、それを導く分析能力の秀逸さがずば抜けているのです。つまり、データを操れる企業とそうでない企業との間では 「突出した差ができつつある」 ということになります。

データ分析に先進的な企業の特徴は、そもそもデータというものを、ビジネスを発展させるうえでトップ・プライオリティと認識している業種業態であるということです。ほぼこれに尽きる、と考えています。そしてそのほとんどのケースは、金融取引系か、マーケティング重視の企業です。

少々補足しておきますが、もちろん、在庫評価・財務分析などの分野で、従来からデータ分析手法は利用されてきました。しかしながら、この分野で使われる手法はすでにパターンが固まっており、どの企業でも同じことを行っているため、「やっていて当然」のデータ分析です。分析に試行錯誤の必要がない分野での活用は、今回の事例研究の対象から除いて考えています。

マーケティングを重視する企業は、経営層がそれを重視しており、マーケティングをうまくドライブできるような組織を形成しようとしています。結果としてそれが、データを活かしデータを重視する企業文化につながっているようです。結果として、分析に長けた人材が集まり、マーケターと組んで試行錯誤を繰り返す取り組みが、日常の業務として当たり前に行われています。そしてそこに、リソースの投資が行われているということです。

ただし、こういう企業の絶対数は、とても少ないのが現状です。

一方、ほとんどの企業は、データ分析をビジネスをドライブするうえでそれほど重要とは見ていない、または少なくとも過去においては重要と見ていなかった企業です。

その中で成功例と言える企業には、パターンが2つあります。(後篇に続く)

 

ビッグデータより、ビックリデータ

ときどき、ホテルやレストランなどで、ちょっと感動するサービスに遭遇することがあります。

例えば、宿泊先のホテルで。チェックインの際に、ホテル内のジムが何時から開いていてどんなサービスがあるのか、フロントの人に少しくわしく質問します。いろいろ教えてもらった後、部屋に入り、食事を済ませてからジムへ行ってみます。すると名前を告げるなり、受付からもインストラクターからも「お待ちしておりました」と言われます。こちらが使ってみようと思っていたサービスを、こちらが伝える前から紹介しはじめました。

例えば、日本料理の店で。来店の際、座敷に上がるため、靴を脱ぎます。居酒屋などでは、げた箱に入れてセルフでカギをかけたりしますが、ここではそういうものは見当たりません。大きなげた箱が玄関に置かれていたので、自分で靴をそこに入れ、店内に入ります。おいしい食事をいただき、満足しながら店を後にしようと出口に向かうと、玄関にはすでに、自分の靴が並べられて土間に置かれていました。

いかがでしょうか。似たような「おもてなし」体験をしたことがあるかたも、多いのではないかと思います。

これらの例を実現した秘密をひも解くなら、前者はフロントとジムで情報共有ができていた結果であり、後者はサービス担当が顧客の持ちものを記憶するように訓練されていたから、ということになります。

こうしたことから、よいサービスになるものの共通項は「自分のことを知っていてくれる、覚えていてくれる」ということだ、と理解できます。これをIT技術で実現しようとしているのが、最近話題の(特にマーケティング分野での)ビッグデータなわけです。

実際にこうしたデータ収集に取り組む人々がどういう思いでいるのかまでは存じませんが、顧客の情報を集めれば顧客を知ることになり覚えることになると、単純にそう思っているのだとしたら、わたしには、大事な気づきがひとつ抜けているように思えます。

それは、「自分のことを知っていてくれる、覚えていてくれる」ということばの前に、「思いがけず」が省略されている、ということです。

何かのサービスを受けて感動するとき、たいていその理由は、「そんなことをしてくれるなんて思いもしなかったから」ではないでしょうか。上記の例でいえば、もし顧客が「ホテルでは情報共有されていて当たり前、フロントに話したのだからジムの担当者は自分が来ることを当然知っている」と思っていたとしたら、どうだったでしょうか。もし顧客が「日本料理店の従業員は、客の持ちものを覚えているのは当然。店を出るときには当然靴が出されている」と思っていたとしたら、どうだったでしょうか。

つまり、サービスが感動を呼ぶには、顧客を「知っている」ことではなく、顧客が「思いがけない」「想像していなかった」ということがより重要と思えるのです。

もうひとつ挙げるなら、「その行為がリアルタイムに起こる」という点も、見逃せません。上記の例でいえば、ホテルのフロントも、日本料理店のサービス担当も、感動につながる行為を「その場で」実行しています。昔から顧客の興味や情報を知っていたわけではなく、その場で情報を入手し、その場で処理して、その場で行動しているのです。

こうして考えてみると、顧客からたくさんの個人情報を吸い上げ、それを分析し、そこから得た知見を活用するというような取り組みだけでは、たとえそれがワントゥワン・マーケティングだったとしても、感動は呼ばないだろうという考えに至ります。なぜなら、顧客はその企業にあらかじめ自分のことを教えているからです。「その情報を使って分析するんでしょ」と、もう思われてしまっているからです。

「いや、レコメンドするのは、お客様が便利になるからです」とおっしゃるのなら、そうかもしれませんね。それなら、「たったそれだけしか教えていないのに、なんでわかったの」と言われるくらい、少ない情報からレコメンドすれば、感動されると思いますよ。