基幹システムを自前開発した中小企業は、経営者のレベルが低い

たいていの日本の中小企業は、ITの活用レベルが高くありません。これは世間で言われているとおりと、わたしも感じています。ただし、例外にも思えるような中小企業が時々見つかります。なかには、会社のコアとなる基幹システムを自前で構築してしまったという中小企業も存在しています。

大企業が完全内製で基幹システムを構築、という例はほとんどないと思われますが、中小企業の場合、事業規模があまり大きくないことも手伝い、実は自分で作ろうと思えばできてしまうという側面があります。そうかといって社内にスキルの高い技術者がいないと当然不可能ですが、たまたま1人くらい「できる人」が社内にいると、その人が根気強く取り組んで構築を果たしてしまう、ということが起こるわけです。

うらやましい会社だ、と思うでしょうか。ベンダーに頼んで作ってもらうよりコストもかからなくて素晴らしい、と感じるでしょうか。わたしが見る限りでは、そうした会社は「経営者に問題がある」おかげで、大きなリスクを抱えていることが多いと考えています。

経営者が自ら手掛けてシステムを作ってしまった、というなら結構です。しかし、技術者が独力で作ってしまった、という状態は、経営者の情報システムに対する知識や理解の欠如、関与しようとする意欲の低さ、会社にとっての情報システムの位置づけの設計不足、等々の欠陥によって引き起こされた結果なのです。

そのとき、その会社の経営者は、何らコントロールができていません。言い換えれば、放任です。情報システムに対する知見がないがために、自分がコントロールしなければならないという発想さえも浮かばないのだろうと思います。それが、事業運営に大きなリスクを抱えることにつながります。

では、基幹システムが事業の根幹をなすクリティカルなシステムであることを十分に理解する経営者ならば、どのようなことを発想できることが求められるのでしょうか。

いくつもありますが、長くなりますので、そのうちの数点を以下に書き連ねてみたいと思います。「自分はこんなことを考えるに及ばない」と思われるなら、少なくとも社内のIT担当者が「作っちゃいました」と言い出してこないような業務環境にするよう努めるべきでしょう。

● 中小企業の自前開発は、たいていは特定の技術者が単独あるいは少人数で進め、達成します。そしてそのシステムの仕様を設計した技術者はまともに形式知化せず、その構築ノウハウは属人化します。それは、会社にとって大いなるリスクです。一刻も早く、システムに関するノウハウや詳細仕様をドキュメントとして完全に網羅し、保守を長く継続できるような組織と仕組みを整備することを考える必要があります。

特に、開発した技術者が高齢であるほど、その技術者が会社を去るまでの時間の制約が厳しくなります。そして、そういう技術者に限って、言葉や図式による表現やわかりやすい説明が上手くなかったりすることが往々にしてあります。システムの仕様や、細かい(けれど重要な)属人的ノウハウを引き継ぐ時間が限られる可能性を、十分念頭に入れる必要があります。

このとき、多くの経営者は、「若い技術者を採用して、開発したベテランの下に付けよう」ということくらいは思いつきますが、その程度ではまったく十分ではありません。必要なことは、「属人化から脱却すること」です。単に若手を採用すればよいという考えは、属人化した「人」に新たに属人化させる「人」を付けているだけのことです。属人化の継承では意味がありません。「組織で実行するにはどうすればよいか」を考える必要があります。
● 中小企業の基幹システムの自前開発は、その多くが10年近くかけて少人数の特定の技術者だけで実行されます。それほどの時間をかけて技術者に業務遂行させることの是非を、本来ならまず経営判断すべきです。

仮に是と判断したとしても、10年経たないと完成しないようなシステムで事業に役立つのか、その認識を経営者が示さない限り、技術者は好きな方法で、適当なスケジュール感で、システム開発を進めるでしょう。技術者の優先度と、経営者の優先度は、何のすり合わせもしなければまったく違ったものであるのが常です。技術者が優先するのは、技術の追求、技術の都合、技術の制約、です。経営者が自分から考えを示さない限り、彼らは経営の優先事項には何の関心もありません。逆の立場で、経営者にはIT技術者の発想がしづらいのと、同様のことです。
● 自前でシステムを開発できる技術者でも、態度には決して出しませんが、万能ではありません。プログラム開発には長けているがネットワーク設計は知識が低い、システム設計は得意だが情報セキュリティ設計には疎い、等々、だれでも得意分野と不得意分野はハッキリしているのがフツウです。IT分野に関する、会社としての知見の甘さを的確に検知して補強する努力は、ITを操る以上は必ず要求されると心得るべきです。

それを怠り、「うちの技術者は基幹システムが作れたのだから他のことも何でもできている」などと考えているなら、自社のシステムに知らずのうちに大きな欠陥を抱えるリスクがあります。そのリスクを軽減するには、まず経営者自身が、ITの技術分野のポートフォリオについて知ることです(技術に詳しくなれという意味ではありません)。そのうえで、自社では疎い技術分野を認識し、知見を持つ人材を(採用、外部支援両面で)採り入れ、組織を強化する努力をすることです。
● 自前でシステムを構築するにも知識が必要ですが、自前で作ったシステムを運用保守していくにも(別の)知識が必要である、と発想できるかどうかが問われます。構築出来たら終わり、使えていれば問題なし、ではありません。自前でシステムを運用保守するのに相応な知識体系を構築して、人材の育成を組織として継続実施することが求められます。

ましてITは常に進化し、またその進化は速く、既存の技術が陳腐化する可能性も高いです。ベンダーに依存していればベンダーが実行するようなことを、自前で情報システムを作った以上は自前で実行する義務がある、と心得るのが肝要です。

自社のエンジニアは、会社の費用で外部に修行に出すべきです。社内だけで教育しようとすれば、知識に偏りや淀みが起きやすいものです。まして人材に乏しい中小企業ならなおさらでしょう。外部で学ばせ、その知見を社内に持ち込ませ、社内の古い知識や偏った理解をアップデートさせるように図ります。または、外部の有識者を定期的に呼び寄せて、様々なテーマでレクチャーしてもらうことも考えられるでしょう。

優秀な人材に単に依存するなら、属人化するだけです。一流のシステム運営能力を持ちたければ、会社が「組織として」努力しなければなりません。それをリードするのは、経営者自身です。

”伴走支援もどき” と中毒症

近年の DX や AI にまつわるニーズを受けて、国内でのビジネスコンサルティング事業は活況なようです。業界はここ数年 2桁パーセントの右肩上がりで成長を続けているといいます。そんな業界環境なせいか、新興のコンサルティング会社を多く見かけるようになりました。

そして新興か老舗かに限らず、コンサルティング会社はどこも挙って「伴走支援」を掲げているようで、一種のブームのような様相です。つまり、精緻な分析や海外のベストプラクティスを基に「あなたがたはこうあるべき」などと御託を授ける教授スタイルではなく、顧客企業の側に立って共に歩み、顧客が自走できるようになるよう能力開発を助ける支援を目指す、としています。

本当の意味でそのような支援が実行されているなら良い傾向といえますが、わたし個人が実態として知る限りにおいては、多くのコンサルタントはいまだに従来同様「業務代行」していると思って見ています。

それも実は、無理からぬ話です。巷でよく聞かれる顧客企業の要望というのは、典型的には次のようなものだからです。「○○業界の企業の責任者への人脈を紹介してほしい」「アドバイスではなく実務に対応してほしい」「エンジニアがいないのでプロジェクトを現場でリードしてほしい」

顧客企業のオフィスに常駐し、机を並べて「伴走支援」しているコンサルタントの多くは、実態として顧客の代わりに、資料作成、データ抽出や整理、情報分析、会議の取り纏め、などの実務の肩代わりを行っています。しかしこれは、少なくともわたしが定義するところの「伴走支援」ではありません。顧客が主体的に担うべき業務の「代行」です。

当社では、代行任務はすべてお断りしております。顧客のためにならないからです。

率直に言えば、コンサルティング会社の経営者として事業拡大を企図するなら、代行を請けたほうがビジネスとしては有益です。なぜなら顧客の困りごとの多くは、前記のとおり「代行してほしい」なのですから。

それをわかっていながら、代行の依頼はすべてお断りしています。なぜか。当社のミッションである「お客さまのビジネスシステムを強くする」を踏まえた行動を遂行するにあたり、顧客任務の代行は、顧客のビジネスを強くするどころか、結果的には弱くすることになるからです。

これは、人間社会に存在する構造的問題の典型のひとつです。ある問題を是正しようとしたときに、即効性があるように見える短期的な方策を解決策に採用するけれど、そういうお手軽な方策を選択するほどに、より根本的な問題を見て見ぬ振りするようになり、時間がかかる根本的解決策に手を付けなくなる。実は根本的解決策を打たなければ、その問題を根絶することはできない。それに気づいていてもいなくても、お手軽な策に一度味を占めると、次にまた問題が出ても、手近で安易な対症療法にばかり手を出すようになる。

そういう状態にある組織に根本的解決策を唱えると、それは「正論」だと位置づけて忌み嫌い、避けようとします。正論を振りかざす、というフレーズにはネガティブな響きがあり共感を呼びそうです。しかしこの状況においては単に、本質的な問題から逃げようとしているだけのことです。

このような問題構造に一度嵌ってしまうと、最終的には、根本的な解決策を自らの手で打つ能力さえも失ってしまいます。要するに「中毒症状」と同じ構造なのです。アルコール中毒、麻薬、ギャンブルなどの依存症の問題構造を想像してみてください。

コンサルティング会社にとっては、顧客企業が自社に「依存」してくれる構造が生み出せますから、ビジネスが安定し大変に有益です。しかし、顧客の側からすればそれは中毒症状であって、コンサルティング会社がいなければ業務が破たんする状態、コンサルティング会社がいなければ戦略も計画もまともに立てられない状態、になっていくわけです。わたしはこれを指して「顧客のためにはならない」と言っています。

「コンサルティング会社が代行してくれてうまくやってくれるのを、うちの社員が端から見て学ぶのだ」というようなことをおっしゃる向きもあるのは承知しています。少なくともわたしはそのようにして、本当に学んで自走し始めた会社をまだ知りません。思うに、ふつうの人間なら、非常にうまく仕事を捌いてくれる人たちを見て、彼らなしに自分たちだけで問題に対処する方法は学びません。彼らに任せておけばよい、と考えるのがフツウです。パソコンメーカーが効率よくパソコンを製造して供給してくれるのを見て、「パソコンを自作しよう」と思う人がどれだけ多いか、想像してみてください。

わたしは、本来コンサルタントというのは医者と同じだと考えています。医者は、患者の病気が治れば任務完了になります。完治した患者にいつまでも医療行為を継続することはありません。顧客のステージが上がった結果として新たなレベルの課題が生じたというなら別のコンサルティングになるので良いですが、そうではないのなら、課題を解決すればそのコンサルティングは完了なのです。同じ依頼で何年も顧客企業に常駐しているということは、自分が関与しても問題がいつまでも解決していないことを意味することになります。

任務代行を施せば、顧客は課題を根本的に解決できるリソースもケイパビリティも身につけられないどころか、身につける機会も学習能力も奪われると、わたしは考えています。課題の根本はいつまでも解決されず、顧客は半永久的に、その課題のモグラたたきを続けることになるわけです。しかも大抵、モグラは年々増殖し、土壌をむしばんでいきます。最後にどうなるかは、想像が難しいことではないはずです。

当社としてはそういう信念で事業をしているのですが、なかなかこうしたことを理解しない企業や人が存在することも事実です。それはそれで仕方がないことではあります。

技術戦略を考えないビジネスのミライ

AI(人工知能)が適用されるビジネス領域は、拡大の一途です。ChatGPT が衝撃を与えて以降、クラウドでのサービス展開も含めて、一気に応用領域が広がった感があります。また、その適用の範囲は、現場作業の置き換えや支援から、事業のコアとしての実装まで、あらゆる領域にわたります。

企業が本格的に AI を取り込んで業務に適用しているケースは、大企業ではほとんど行きわたっていると思われますが、中小レベルでは温度差があるでしょう。それでもこれだけ世間で話題になっているのですから、個人的にであれば遊び程度でも、対話型AIを触った経験がある方も多いのではないでしょうか。

企業が AI を活用しようとするなら、その取り込みかたについては十分に戦略的であるべきだと、わたしは思います。大手企業であっても安易な採用のしかたが散見されると思って見ています。

特に経営者がきちんと考えを及ぼすべき論点は、「使おうとしている AI が事業の根幹に影響を及ぼす可能性があるのかどうか」です。ChatGPT に情報を調べてもらう、知識を教えてもらう、資料をまとめてもらう、図や絵を書いてもらう、程度のことであれば、現場の好きなようにやらせてもそれほど問題はないでしょう。ただし、ビジネスの価値提供に大きく影響を与えるような使い方をしようとするなら、安易な方向に流れていかないように、経営が環境を構築することが必要です。

例えば、AI が適用される有力な領域に、翻訳があります。OpenAI など有力なテック企業が開発する大規模言語モデル(LLM)を基にすれば、あらゆる言語への翻訳がかなりの精度で実現できることが実証されています。これを用いて、様々な出版物に適応できるように AI モデルを改良し、価値を生み出そうとするスタートアップ企業も出てきています。

マンガの翻訳などはその一例で、マンガを多言語に翻訳するエンジンを開発するスタートアップ企業が複数出てきています。現状では、マンガやアニメには独特の言い回しが多く、翻訳には物語の背景に対する理解も必要で、単に LLM を使うだけでは精度が出ないと言われています。しかし、そうした背景、言い回し、ニュアンスなどを、マンガやアニメに最適になるように学習させれば、精度が確実に上がっていきます。要は、時間と労力の問題です。それに取組もうとするテック企業に、出版社が出資をして、翻訳を委託する動きがあるようです。

ご存じのとおり、日本のアニメやマンガは、海外で人気を博しています。今後ビジネスとして大きく伸びる可能性を秘めているでしょう。それに対して、翻訳の工程における精度を格段に向上させ、また格段に処理時間を短縮させて、海外市場に素早くコンテンツを展開できる可能性を、AI は持ち合わせています。きわめて有力な競争力のリソースになり得るテクノロジーです。

では、そうした競争力の源泉のタマゴと言えるリソースを、自前で持たなかったらどうなるか、出資する出版社の経営者は考えを及ぼしているのでしょうか。「ウチはITの会社ではないし、専門技術を持った集団がもう存在しているのだから彼らに任せるのが早い」などと考えて、易きに流れていないでしょうか。

今後、日本の人口が減少すること、つまり国内のマンガやアニメのファンは減少することは、すでに分かっていることです。一方で、海外では今でも人口が増えている国や地域が少なからずあります。海外でマンガやアニメの人気が順調に拡大していった場合、売上構成は海外が主、国内が従、になる可能性は十分想定されます。そのとき、多言語翻訳はビジネスの展開において、価値提供に不可欠なピースになるはずです。自前でやらないということは、事業に不可欠な要素を社外の別の会社に依存する、ということになります。

一方、AI 翻訳企業の立場で見れば、出版社にとって自分の会社が、事業存続のためになくてはならない存在になります。そうなった時点で翻訳の機能を果たすのみならず、海外への物理的な展開や配信まで機能的役割を果たせるようにビジネスを作り上げられていれば、アニメ・マンガ業界のプラットフォーマーになれる可能性も見えてくるでしょう。

そうした将来シナリオを今の時点で想像できているのなら、出版社の社長は、自前でAI モデルを育てないと「ビジネスの肝」を他社に押さえられてしまうという危機感にとらわれないとおかしいと思うのですが、いかがでしょうか。

AI は、データを食べて成長し、力をつけます。そのデータはどこから来るのかといえば、企業が自前で持つ情報から来るのです。その情報がビジネスの根幹をなす源泉であるほど、それを食べて成長した AI モデルがビジネスの根幹をなす存在になるのは自明です。AI モデルが成長して脅威を示すようになってから、そのデータはウチのデータなのだから返してくれ、使用料払ってくれ、と主張したところで、もう消化してしまったデータを取り戻すことはできません。そして、一度成長してしまえば、その能力は岩盤のごとく強固な存在になります。長年かけて強化してきた AI モデルに対して、随分後になってから自前で追いつこうと思っても、追いつけないでしょう。

AI を事業に活用しようとするなら、どのような用途に使おうとするのか、それは手間をかけて自分で育てなくてもいいのか、経営者が主体的に戦略を設計し、会社の方針として指示を出していく必要があります。そして、事業成長に AI が有力だとなれば、長期戦と捉えて AI モデルを自分たちで地道に育てていく環境を整えていく覚悟も必要です。

戦略もシナリオも考えずに易きに流れれば、上記の出版社のように、気づいたら外部のテック企業がいないと生きられない会社に成り下がるかもしれません。テクノロジーというのは、「ウチは技術の会社でないから関係ない」では済まない、もはやそういう存在なのです。

「知らない」を知る

経営者や経営幹部の方々とITの話をするとき、時々出くわすのが、「自分はどこまでITのことを知っているべきなのか」という論点です。

というよりもむしろ、「経営者である自分は、ITのことなど詳しく知っている必要はないはずだ」という認識を下敷きにしているように感じられます。ITに限らず、財務管理会計にしても人材育成にしても法律にしても情報セキュリティにしても、同じ話です。

誰しも得意分野と不得意分野があり、不得意分野は積極的に学びに行かないでしょうし、覚えようとするだけ時間の無駄に思えてくるでしょう。または、自分があまりその分野が得意でないことを見せたくない、という自尊心も働くのかもしれません。

しかし、残念なことに中小企業ほど、企業規模が小さければ小さいほど、その経営者はあらゆる企業運営の分野において万能である必要がある、とわたしは考えています。なぜなら、企業規模が小さいほど、その経営者個人の能力で、その会社の組織としてのパフォーマンスがほとんど決まってしまうからです。つまり、その会社の経営者が不得意なことは、そのまま、その会社の不得意分野になりますし、その会社にとって脆弱な領域になるのです。

もちろん、経営者個人があらゆる業務をこなす必要があるということではありません。しかし現実は、経営者がケアしようとしない業務領域は、その会社では管理が行き届かず気にされないのが、企業規模が小さくなるほど自然な成り行きです。例えば、ITを気にしたがらない経営者の会社は、たいていは組織のITレベルは低いです。

たとえ「自分にはできないから専門人材を雇って責任者に据えた」としても、同じです。そうした専門人材のやりたい放題にして管理できない会社のIT運営レベルは、だいたい高くありません。そもそも、責任者を選定しようとする人がよくわからない分野の専門人材について、その人材が自社にとって適切だという判断が果たしてできるものでしょうか。その人材の働きが自社にとって適切になっているという評価が、果たしてできるものでしょうか。

冒頭に挙げたような論点で、もしわたしが「経営者が細かいことに詳しい必要などあるのか」と聞かれたら、次のように答えます。

物事を「知る」ということには、レベルがあります。例えば、思いつくままに言えばこんな分類です。

1.他人に指導できるほど身についている
2.知っているうえに、自分でこなせる
3.知っているけれど、自分ではできない
4.知らないということを、認識している
5.知らないということに気づいていない

経営者は、”5番目” を限りなくゼロにする必要があると思います。

車の運転に例えていうなら、4番目の状態は、道路のすぐわきに崖があることが分かっている状態で、ハンドルを握っている状態です。一方で5番目の状態は、道路のすぐわきに崖があることを知らずに、ハンドルを握っている状態です。5番目が多い経営者は、自覚なしに危ない動きや判断を行います。しかも、それが危ないということに気付きません。

以前、ある大手企業グループが子会社を作って電子決済サービスを始めましたが、サービス開始直後に不正アクセスを許し、利用者のアカウントから不正にお金を持ち出されたという事件がありました。発覚後会社は記者会見を開き、社長が謝罪と説明に当たりましたが、その社長はある記者から「二要素認証をなぜしていなかったのか」と問われて、答えられませんでした。

彼は「二要素認証」という技術のことについてまったく無知だったのが、回答できなかった理由でした。

そんなことも知らない会社に大事なお金を預けていいのかとソーシャルメディアでは炎上騒ぎになり、大手メディアでも大々的に取り上げられ、結局その会社は、決済サービスの全面停止、社長の辞任、を通り越して、会社自体をたたむという判断に至りました。

おそらくこの社長は、情報セキュリティについては上記の5番目の状態だったのだろうと推察されます。もし少なくとも4番目の状態であったら、本人の危機管理能力次第ではあるでしょうが、知識補強なり理論武装なり、事前に準備を施すことは可能だったはずです。知らないことに自ら気付いていなければ、知らないままでいても何も感じることはありません。対策や準備は一切不可能です。

このようなかたちで、知らないでいることに平気でいる状態で下す判断は、運がよい場合を除いては、不適切で浅はかなものになります。経営者がそのような判断をすれば道を誤るわけですが、本人にはその自覚がまったくないので、極めて厄介です。

ちなみに、5番目の状態を限りなくゼロにするためには、一旦はあらゆる物事を知ろうとする努力が必要になります。つまり、不得意であろうが、気が向かなかろうが、時間がなかろうが、難解であろうが、経営に携わり社員をリードする立場である以上は、あらゆる分野のことを学習し、ひととおり人並み程度には知識を体系的に獲得しておく必要がある、ということです。

「他人に委ねて自分はラクをしよう、他にもやることがたくさんあるし」などという考えは、少なくとも社員数1000人を超えるような規模の企業に育て上げるまでは、潔く捨て去ったほうがよろしいかと思います。経営は、幅広く高い能力を要する大変な仕事です。

「デジタル化が遅れている」と言われて、安直に急がない

マスコミがさかんに「日本企業はデジタル化が遅れている」とはやし立てるせいか、判断に必要な情報が足りない、業務が非効率で混乱している、などといった課題に直面したとき、「システムを入れよう」という発想になる経営者や経営幹部が、最近多くなってきたように思います。

今回のコラムは、その発想は悪いことではないが安直である、というお話です。

もう多くの方にとって忘却の彼方に行ってしまったことかもしれませんが、コロナ禍が始まった時、医療現場ではコロナ患者の動向に関する情報収集をめぐって、深刻な混乱が発生していました。

国は当初、全国に感染患者がどれだけいるのかを集計するのに、電話やFAXを使っていました。しかし、それでは不正確で不確実なことはすぐに明らかになり、すぐさま「システムを入れよう」という流れになりました。

ところがこのシステムに必要なデータとして列挙された項目や内容があまりの分量となり、そのデータ入力作業は医療現場の人々にとって、押し寄せる患者の看護や治療でひっ迫している業務へのさらなる負担となりました。

結果、どうなったか。医療機関によってはすべての項目を入力せずに報告したり、1週間分をまとめて入力して報告したり、などという行為が横行したのです。

テレビやネットで情報を見ていた我々一般人は、感染者数の動向などはリアルタイムで報道されていると思っていたわけですが、実態は「だいたいの数字」を見ていた、ということになります。

システムを導入する、デジタル化をする、ということは、要するに何をすることなのか。一度は深く考えてみる必要があると思います。

データが見たいというのなら、まず自らの手でデータを生み出さなければいけません。データは、そこに自然に置いてあるものではありません。自然に湧いて出るものでもありません。ほしいデータは、通常は自分で作り出さなければ存在しません。例えば、いま誰もが当たり前に毎日使っている「温度」や「湿度」でさえ、その昔それが知りたいと考えた学者が生み出した指標です。

そうしてデータを生み出したところで、それは多くの場合、人間の手で「入力」されて初めて実体になります。裏を返せば、それは人間の対応次第で誤ったデータにも、汚れたデータにもなる、ということです。データだから正確、という保証はないのです。では「正確なデータ」をどうやって収集するのか。何をもって「正確」だとするのか。人手を介さず自動でデータを収集できるのが理想ですが、そうしたいなら自動で収集するやり方を、また自ら編み出さなければなりません。

データを収集する、データを加工する、データを集約する、そうして処理したデータを使えるように反映する、等々、一連のデータ処理を実行する「しくみ」もまた、自ら考え出さなければなりません。

世間に売っているソフトウェアやクラウドサービスを採用すれば済むと思っている経営者や経営幹部は多くいますが、それらを導入して「帯に短し襷に長し」な状況に陥った実体験をしたことがないのでしょう。自分のやりたいことが具体的で明確であればあるほど、それに一挙に適合する出来合いのソフトもクラウドサービスも、ますます見つからないのです。逆に自分のやりたいことが曖昧で明確でないほど、今度はソフトウェアやクラウドサービスの都合に振り回されることになります。

そのような、自分がやりたいことを実現する「しくみ」を設計する源泉は、どこから来るのでしょうか。

それは、データが見たい、業務を合理化したい、という課題解決を必要とする「目的」です。なぜそれが重要なのか、それをしないと会社はどうなってしまうのか、いままでのやり方を曲げてでも新しいやり方を採用してデータ入力の仕事を負担する必要がなぜあるのか、それが説明できなければなりません。

新しいやり方を採用しようとしたとき、そのやり方の実践には、一定の「デジタルの素養」が必要な場合もよくあります。その場合は、現場に対するデジタル分野の知識強化のサポートも必要になります。勝手に覚えてシゴトしてくれ、では通用しません。

的確に説明ができなければ、また現場に対する的確な支援が提供できなければ、現場は黙って、データ入力を実行しないか、正確性を追わずいい加減な対応でお茶を濁す行動に出ます。コロナ禍で、感染者数の正確な情報提供が重要であることは十分に理解していたはずの医療現場でも、前記したようなことが発生しているのです。

的確な説明を考え、説得できるのは、その取り組みを主導する経営者や経営幹部以外にいません。デジタル化を進めるとき、全体構想を考案し、実現シナリオを設計すべきなのは、取り組みを主導する経営者や経営幹部です。「ITに詳しい人」ではありません。

よく「経営トップが主導せよ」「経営者の意識が低いのではデジタル化はできない」などと言われているのは、こうしたことが本質なのです。「デジタル化をするぞ」「データを見える化するぞ」と掛け声をかけるのがトップの役割、などと考えていたら、道を誤ります。

デジタル化を進めたい、という思いがふつふつと湧いてきた経営者の方々は、一度立ち止まって、「それ、どういう仕組みで実行するの?」ということから絵に描いてみてください。わたしに聞いていただければ、その絵にいろいろなツッコミを入れさせていただきます。

自分の会社のホームページくらい、魂込めてつくれ

わたしはここ数年、甘党傾向が年々極まってきているところがあります。始めは人様に差し上げるお土産として購入していたのですが、そのうち自前にもついで買いするようになり、拍車がかかってしまいました。最近では、訪問などで外出している際、場所を移動する間にエキナカやデパ地下などを見つけるとフラフラ寄り道し、おいしそうなものを見つけては買い食いする、ということを繰り返しています。

スーパーに売っている廉価品から、一流の名店による高級品まで、かなり舌は肥えてきたような気がしているのですが、それでも見た目でだまされる(といっては申し訳ないのですが、味でがっかりさせられる)こともしばしばあります。一方で、そこまで期待はしていなかったのに、ほおばった瞬間に感動を覚えるようなものに出合うと、かなり強く印象に残ります。

そうして感動を覚えるとまず行うのは、ネットでの検索です。その商品をよく知ったうえで買っているわけでもないので、そもそもどんな店なのか調べに行きます。

ところが、菓子製造の業界ではかなり顕著な傾向に思えるのですが、自社でホームページを構えていない事業者はかなり多いのです。

あっても、文字通り「一枚ぺら」しかページがない、会社の名前と住所程度しか書いていない、というような、情報密度が低レベルのものが少なくありません。それでいて、なぜだがフェイスブックやインスタグラムだけは(形だけ)やっていたりします。

本当に、もったいないことだと思います。これで、顧客のロイヤルティの獲得をほぼ逸することになります。

ホームページは、自社の創業の理念、社会に訴求したいミッション、目指しているビジョンなどを、誰からも制約を受けることなくアピールできる場所です。自分たちは何者で、何にこだわりを持ってシゴトをしているのか、自分たちの仕事から何を感じてほしいのか。見ず知らずの人にはなかなか聞いてはもらえないような思いの丈を世間に向かって存分に訴えかけることができ、それが反社会的でもない限りは誰にも咎められることはありません。そうした主張を読むことで、興味を持った人たちがより興味を深める機会になるわけです。

製造業であれば、自社の商品へのこだわり、商品を製造する過程や苦労、従業員の存在価値や職人技、等々を掲載したら、よりリアルに商品の価値や会社の価値を感じてもらえます。会社に直接コンタクトでもしない限りは知り得ない情報を、外部の人に知ってもらえるのは、かなり有益な機会です。

にもかかわらず、面倒だからか、作り方がわからないからか、ホームページさえ存在しないという会社は、自らの価値をかなり下げていると言えるでしょう。

会社として考えていること、大事だと思っていることを、具体的に言葉で表すのは、大変重要な取り組みだと思います。それが、会社の中での一体感の源泉になります。言葉になっていないのは、経営者が言葉にしていないからにほかなりません。言うまでもない当たり前のことのようでいて、実際にやらせてみるとなかなか言葉にならない会社を、個人的にもこれまでいくつも見てきました。

こと食品業界の場合はよくあることですが、会社が自社でホームページを作らないと、グルメサイトやまとめサイトの類のところが勝手にその会社や商品の紹介ページを作って勝手に公開してしまいます。それは会社のコントロールが利かない、いわゆる勝手サイトです。そこにポジティブなコメントが展開されるだけならよいでしょうが、間違った情報やネガティブなコメントでページが埋められれば、世間の人々はそれを共通理解にすることになります。

いまやホームページの制作に、専門知識は不要です。切り貼りする程度の操作で簡単に作成できるソフトウエアが安価に数多く販売されていますし、クラウドサービスでも制作できます。ホームページ制作の技術的な領域を代行してくれる個人や会社も、探せばいくらでもあることに気付くはずです(当然ですが、「丸投げ」は厳に慎むべきです)。

メンテナンスが面倒だと思うのかもしれませんが、それも知識はほとんど不要で簡単です。メンテナンスすることも見越して制作するようにすれば、間違った方向にはいかないでしょう。

フェイスブックやインスタグラムで十分ではないか、と思っている会社もいるのかもしれませんが、わたしに言わせれば、自社のホームページがないというのは全く不十分です。芸能人やプロスポーツ選手であればインスタだけで問題ないでしょうが、企業は違います。少なくともわたしには、そのような企業は本社住所もないのに事業者を名乗っているようなことと同じに見えます。

これは食品系の会社に限りません。中小の会社ならどの業界でも、特に社歴の長い会社ほど、このような傾向があるのではないでしょうか。小難しいSEO対策などは一切不要です。写真も動画も、手持ちのスマホで簡単に撮れます。自分の会社の存在価値を訴えるホームページくらいは、入魂して自分で作りましょう。

スタートアップや小規模企業に、ビジネスのしくみはムダなのか

ビジネスのしくみ化について、わたしは度々、その重要性を様々な場所で述べています。

一方で、識者と呼ばれる人の中には、スタートアップや小規模企業が仕組み化に拘り過ぎると、ビジネスにおける柔軟性を低下させて成長の足かせになる、ということを主張する人々がいます。

スタートアップや小規模企業は、ビジネスのしくみ化に取り組む必要性は低いのでしょうか。今回はこのことについて(改めて)論じてみたいと思います。このコラムをよく読んでいただいている方々には、わたしがどういう主張をするのかということは読む前からお分かりかもしれませんが。

「ビジネスのしくみ化をするから、ビジネスが柔軟でなくなる」というのは一面的な考え方であると、わたしは考えます。

ビジネスのしくみ化をする意味というのは、その企業が目指すミッションや提供したい価値を実現するための行動シナリオを具体化し、言っている通りの価値を顧客に実際に提供できるようにすることにあります。仕組みというのはつまり、固定的で硬直化した業務プロセスを指すものではありません。つねに管理され、最適化を目指して改善を続けられるものです。

ビジネスの価値をどう提供すべきなのかは、一度決めてしまえばあとは変更しない、変化しない、ということではないはずです。事業環境が変われば、または顧客にとっての価値が増すような提供のしかたが新たに見出されれば、それは当然に考慮され、よりよい提供方法に変えられていくべきです。

スタートアップ段階の企業ならなおさら、価値提供のノウハウが完全に定まってはいないでしょう。より価値提供のあり方を高めるべく改善の余地は多分にあるはずで、改善活動に付随して、ビジネスのしくみも進化していくのが自然です。

また、一定の成長軌道にすでに乗っている小規模企業であっても、顧客の意向や嗜好は変化することを念頭に、常に動向をウォッチし続け、顧客にフィットするように、価値提供のしかたや質をアップデートしつづける努力は欠かせないはずです。その努力をしなければ、競争社会のなかにあってすぐにその提供価値は陳腐化していきます。

逆に、ビジネスに柔軟性がなくなるからと言って、ビジネスのしくみづくりを軽視すればどうなるでしょうか。

ビジネスのコンセプトやミッションとして経営者が掲げるコトバは立派だが、現場の仕事は実のところそれを体現できず、コトバとは裏腹なサービスや購買体験が顧客に向けて展開される、ということに、容易につながるのではないでしょうか。実際、外見や評判はすごそうに見えて、内情は随分混乱しているスタートアップというのは、個人的に観察する範囲では相応な頻度で見られる印象があります。同様に、立ち上がり段階こそ良かったのに、ビジネスが進展していくにつれ、当初の提供価値からは離れていくようなサービスや商品が展開されていくような会社も見かけます。

もちろん、ビジネスのしくみは一気に完成するものではなく、段階的に整備を推進することは大いにあります。ただしそれも、ロードマップは予め描かれ、それに従って進められています。成長シナリオが明確な企業というのは、ある程度の試行錯誤は不可避とはいえ、決してその場の思い付きや偶然の成り行きで事業を進めているのではないのです。

どのレベルまで仕組みづくりが実現できれば、どの程度まで価値提供が実現できることになり、その先はどのようなステップを踏んで、価値提供のレベルを高めていけるのか。そうしたシナリオが描けていてこそ、段階的な推進と言えます。

計画は不確実性がつきものであり、もちろん軌道修正が必要になることもあるでしょう。仮に軌道修正するにしても、予め描いたロードマップがあってそうするのなら、変更すべき個所と到達点に向けた修正ポイントは明確です。計画を立てても変更されるからといって、計画すること、シナリオを構想すること、ロードマップを描くことに、無駄はありません。

こういうことを申し上げると、「仕組みなど考えている時間があるなら、先に売り上げを上げることのほうが優先だ」という趣旨の反論を受けることがあります。

ビジネスで売上を立てることは何より重要だということは、論を待たないと認めますが、仕組みもないところで「なんとなく」上がる売上というのは、往々にして長くは続きません。「一発屋」で終わりたい事業家は、そうたくさんは存在しないだろうとわたしは信じています。

実のところ、(単純に)売上を上げる(だけ)ということは、案外「為せば成る」世界でそんなに難しくはありません。爆発的に売り上げて勢いが増すビジネスの例も聞きます。しかし、一見成功したかに見えて、そのあとで提供価値のクオリティがついてこず、顧客を失望させて一気に冷める、というケースは、案外よく聞かれる衰退事例です。

ビジネスのしくみというのは、誰がオペレーションしても確かな売上さらには利益を継続する裏付けとなる「カラクリ」です。カラクリがない事業は、勘でオペレーションしているということです。それは、くじ引きで運試ししていることに近い。当たればうれしいが、当たらなかったときに原因は一切わかりません。改善しようと対策を考えるときも、同様に勘による「くじ引き」を繰り返すことになります。

仕組みを考えさせると逡巡する経営者、逃げようとする経営者も見かけますが、自ら発想するビジネスアイデアを仕組みに落とし込むこともできないのなら、能力を鍛えてできるようになるまで事業展開はやめるべきです。巻き込まれる人たちが不幸になります。そんな構想を描いていたら多大な時間がかかる、というのなら、そのアイデアは考えが浅いか、視野が狭いか、その両方か、である証拠であり、本格的な事業展開ができるポテンシャルに不足があるということです。

アイデアの創出に論理は不要ですが、論理性のない事業は、経営者の独壇場となり、他の人間が入り込む余地がありません。仮にその事業が先に進んだとしても、誰もその経営者と議論できないし、客観的に語れるブループリントがない事業の経営者は真の相談相手を得られないでしょう。外食業界で活躍する、あるスタートアップ経営者は、そうした創業社長のことを「占い師」と称していました。経営者の勘とセンスで店を開発し、ヒットへと導くが、なぜ売れたかは本人にさえも分からない、そんな会社は占い師以外は活躍できない、ということを皮肉ったものです。くじ引きと占いの違いこそあれ、まったく同感です。

「自分自身でできること」が、限界を決める

昨年中の仕事の活動を振り返ると、結局のところ「自分でできることが自分の限界を決めてしまう」のだという(当たり前の)ことを多く実感させられたように思います。

昨年は、製造業の企業に触れる機会が複数ありました。これまで脈々と広まってきた「現場のカイゼン」に基づくシゴトの仕組みは、どの工場にも一定程度カタチがあるのは確かなようです。ただし現場に至る前の、事業戦略から生産計画を立ててそれを現場に作業展開するまでの「生産管理」については、企業によって相当にレベル差があることを実感しました。その理由は、生産管理をロジカルに仕組み化して実践することは、難易度が高いからです。その会社にとって「できないこと」は放置されがちだということです。

また、営業組織の支援を様々に行ってきて感じたのは、課題があることも、変えなければこの先成長しないことも、頭では理解しているはずなのに、強制力が働かない限り、いつまでも同じ所を堂々巡りしているチームが圧倒的に多いことでした。慣習を変えられない理由は、変えるための具体的な行動を自分たちの力では組み立てられず、目指すべき姿が彼らにとって「できないこと」になるからです。何の実にもならないようなつまらない進捗報告でも、毎回毎日だと、みんな慣れてしまってそれがフツウになっていきます。まるで生活習慣病のようで恐ろしいことです。でも実はその「できないこと」は、ちょっと背伸びすればできてしまうことに、無理やり取り組んでみてようやく気づきます。

従来からの取り組みがうまく行かなくなり方針転換を図ろうとする時、その前に、組織としてのそれまでの取り組みを総括するべきです。しかし、当事者たちの力だけではまともな言語化というのはできないものです。考えてみれば当然なのかもしれませんが、うまくできなかった人たちが、自分の出来なかったことを自分の力だけで分析評価するというのは、無理難題と思われます。解けなかった数学の問題について、解答を見ずに自分で解答をつくろうとしていることと同等です。そうかといって、彼らが第三者による指摘を素直に受け入れるかどうか、受け入れたとしてもその内容を咀嚼し応用できる能力があるか、というのは、また別の「できないこと」かもしれません。こうした課題には、最終的には自ら気づいて自ら腹落ちしないと、本当の意味での課題にはならないのです。

ある時、某社のCIOの話を聞く機会がありました。顧客ではないので書きますが、この方はデジタルマーケティング畑で長く勤めて経験が長く、一方でシステムを作ったことがありません。話の筋はおよそ、デジタルを「使う」観点からくるもので占められ、デジタルで「つくる」発想がないがために、CIOとしては世界観が限定されているように感じられました。残念ながら、CIOという役職は、マーケティングを知っているだけでは務まりません。そのことに、ご本人は気づきがないのかもしれません。要職を務める人たちからよく聞く悩みのひとつは、率直に言ってくれる人が周囲にいなくなること、です。もったいないなという感想を、内心では持ったことが思い出されます。

自戒を込めて言えば、結局のところ、自らが「できること」をできるだけ増やし拡げていく努力を不断につづけなければ、自分の出来ないことに気付くこともできずになおざりにし、最終的には、できないことに飲まれて衰退していくのだろうと思います。

もちろん、ひとりで何でもできるようになることは、当然ながらできません。できる他人に何かを任せることが必要になります。ただし、自分では全くできないことを他人に任せるのは、簡単そうですが実際は容易なことではありません。実際にやってみるとわかることですが、そもそもどのように仕事を頼めばいいのかさえ、わからないはずです。さらに、ある程度はわかっているうえで他人に委ねるのでなければ、他人のアウトプットの良し悪しを判定できません。結果として、相手にコントロール権を奪われることになります。

渡してはならないコントロールを相手に渡してしまうのが最悪の筋書きになりますが、自分にできないことについては、それがクリティカルなのかどうかさえも往々にして判別がつきません。

例えば、英語の読み書きのスキルは、生成AIの登場によって、もう必要ないかもしれません。英語が不得意だった人たちにとっては福音と言えます。ただし、ChatGPTが生成した電子メールの本文を本当にそのまま相手先に送っても問題が起こらないか、ChatGPTが作ったスピーチの原稿をそのまま顧客や社員に向けて流してしまっても本心が伝わるのか。その判断は、自分がある程度は英語ができないと、判別がつかないはずです。日常会話レベルの事務的なやり取りであればどうでもよいかもしれませんが、適用したい場面がクリティカルであるほど、気持ちを漏れなく的確に伝えたいと思う場面ほど、生成AIの言うとおりでよいか否かの判断は重要になります。こうしたこともまた、英語という言語が、日本語と比べるとハイコンテクストな言語的特徴があり、ひとつの言葉の意味の守備範囲が日本語のそれよりも一般的に狭いということを知っていなければ、他人から重要だと言われてもまったくピンとこないかもしれません。

企業におけるデジタルの選択肢は、この先もますます増えていきます。技術の向上に比例して、デジタルがビジネスに発揮できる影響力や破壊力は、さらに増していくでしょう。無数に出てくるデジタルソリューションやツールの中から、自社に相応しいものを探し出して選び取る能力が、利用する企業にますます重要になっていくことになります。

さらに言えば、そうしたソリューションやツールを適材適所で活用するには、会社の仕事のしくみをデザインする能力がますます重要になっていきます。自分でデザインできる会社ほど、デジタルをテコにした独自のしくみを発展させて成果に繋げるでしょう。自分でデザインできる能力を持たない会社ほど、デザインすることの必要性さえ理解ができず、自身で自身を変えることができずに衰退していくでしょう。

自分で考えることが「できない」企業ほど、ITは、丸投げ対象のコスト要因にしか見えないはずです。自分で考えることが「できる」企業ほど、ITは、ビジネスで利益を出して必ず手に入れたい魅力的な道具に見えることでしょう。業界で一流を目指すなら、どちらになりたいですか?

わたしがこれまで見てきた「元気のいい会社」は、総じて健全な危機意識を常に高く持っていて、それでいてメンバーの多くがビジネスへのチャレンジを楽しんでいるように見える組織でした。新しい年の初めに際して、わたしは「自分でできることをさらに増やす」ことを肝に銘じて、新しい提供価値を増やせるように、また仕事を始めていきたいと考える今日この頃です。

中国の気球に思う、判断軸と決断力

最近まで話題だった中国の気球の話で、わたしは心底、日本の防衛におけるインテリジェンスの低さにがっかりさせられました。

ご承知のとおり、この件の話題性がにわかに高まったのは、米国本土上空で正体不明の気球が確認されたときでした。米国政府は間髪を入れずにこれが中国のものであると断定し、しばらく監視したのち、大西洋沖に出たところで戦闘機によって撃墜、残骸を回収しました。そのうえで、気球に実装されていた機器類をくわしく調べたようですが、当然ながら詳細はあまり公表していません。

その話がホットになった直後、実は日本の上空で、3年も前から同様の物体が複数回にわたり目撃され、テレビカメラにも捉えらえていたことが報じられました。いずれの際にも、わたしの知る限りでは当時大きく報じられることもなく、政府が憂慮している様子も問題として認識しているアナウンスも、公式にはなかったように記憶しています。

ところが、今回米国が即座に撃墜したことを知ってなのか、政府は急いで法整備を始めて、同様の飛行物体を場合によっては撃墜可能なようにしたといいます。さらに、中国に対して当時の飛来物を踏まえて、領空侵犯として厳重抗議したとも報じられました。

なんという情けない話かと思ったのは、わたしだけなのでしょうか。どのマスコミも言及しないのが不思議でなりません。万一これが、そもそも自衛隊のレーダーにさえ捉えられておらず防衛上の検知もされていなかった事態だったとしたら、それこそ大問題だと思うのですが。少なくとも、中国には日本の諜報能力はこの程度かと思われたに違いないと思います。

そんなことを思っていたところで、米国のバイデン大統領がウクライナの首都キーウを電撃訪問したというニュースが流れました。

報じられているところによれば、米国政府は数か月前から極秘に訪問を計画し、現在の戦況、および米軍が駐留していないウクライナへの訪問ということを踏まえて、細心の注意を払って渡航を計画したとのことです。同行者は必要最小限、報道記者も限定し、情報漏えいが間違いなく発生しないように対策が徹底されたといいます。そのうえで、米国から19時間かけてキーウまで移動し、ゼレンスキー大統領との会談を果たしました。

世界の要人の中でもその多忙さと安全確保の要求レベルでは群を抜くであろう米国大統領で、かつ80歳という高齢のバイデン氏が、事前にロシアに通告までしたうえで、片道19時間もかけてウクライナに赴くという決断をするのだとしたら、そこには確固たる意図と信念があったに違いないでしょう。

翻って我が国の総理はどうか。先日見たニュースでは、政府は昨年からウクライナへの訪問を模索してきながら、現地の戦況の不安定さや国会日程でタイミングをつかめずに来たといいます。日本の総理大臣も超多忙であると想像しますが、米国大統領より制約が多く忙しいのかとなると何とも言えないところです。行けない理由ならいくらでも出てくるでしょうが、万難を排除してでも行くとしたら、そこには確固たる判断軸と信念が必要なのだと思います。

いつも思うのですが、米国の行動に追随することが多い日本において、彼らの真似をするのならその行動自体ではなく、その判断プロセスや行動に至る考え方、またそれを実現している体制のほうであると、わたしは考えます。

判断軸を自らに持ち合わせていなければ、適時的確な決断はできません。資金を投じて防衛力を高めようとも、自らに判断軸がないのなら、決断し行動をとることはできず、持ち合わせている能力も宝の持ち腐れになります。誰に何を言われようが自分はこうする、何か言われたらこう説明する、そういう行動がとれるには、確立された独自の判断軸が不可欠です。これは、おカネがあるのかどうかは関係がない、意識の問題です。

これはビジネスの世界でも、同じ話が当てはまると思います。タイムマシン経営なのはよいですが、真似をするのなら、ビジネスモデルをそのまま持ってくるのではなく、その考え方や判断軸、彼らの実行体制のあり方など、より本質を見ようとする努力が重要ではないでしょうか。事例が大好きな日本の経営者はたくさんいます。そういう人はたいてい、そっくり同じことをしようとします。何を使っているのか調べて、同じものを買おうとします。しかし、盲目的にマネているだけでは、いつまでも師匠に追いつくことさえできないのです。

小売業のダイナミックプライシングは、悪手でしかない

「ダイナミックプライシング」とは、需要に応じて売り手側が価格を柔軟に変動させる仕組みのことです。

従来は価格の表示が紙で行われていたため、価格を変更することは時間も労力もかかる作業になっていました。これが、近年はITによって価格表示をデジタル化することができるようになり、ダイナミックプライシングは一気に現実味のある取り組みになりました。現在、宿泊業、航空、娯楽施設では一般的に実用されています。

こうした取り組みを、最近真似しようとしている小売業がちらほら見受けられます。しかし、小売業がダイナミックプライシングを実施するのは、先進的どころかむしろ不利益をもたらします。やめたほうがよいと、わたしは思います。

小売業でダイナミックプライシングを採り入れようと考えている企業は、きっと顧客の立場で物事が考えられていません。

例えば、ホテルに宿泊する顧客の場合を考えてみます。その顧客がホテルに宿泊の予約をするとき、先だって予定が決まっているケースも、突然宿泊する必要が出てしまったケースも、いろいろとあるでしょう。ただいずれにしても、その顧客は、特定の日程で特定の場所に宿泊する必要があって、そのホテルに予約をしに来ています。ある意味、選択の余地はほぼありません。

他の例では、野球の試合を観戦したい顧客の場合はどうでしょう。その顧客が試合のチケットを購入するとき、通常なら、特定の日取りで行われる、ひいきの球団の試合を見たいと思って購入するはずです。自分の予定も、連れ立っていく人の予定も、それぞれあるでしょうから、どの日でもいいということにはあまりなりません。つまりその顧客は、特定の日程で特定の試合を見ようとして、チケットを買いに来ます。やはり、選択の余地はほとんどありません。

航空のチケットも、ほぼ同じ論理になります。つまり、こうした顧客は「その時その場で、特定のものを買う必要がある」のです。このようなケースでは、ダイナミックプライシングがうまく適合します。その時その場で利用したいから、その価格が少々高くても選択せざるを得ないし、価格の比較をしたところで他は選択肢になりにくいので、高額な理由が理解できるのなら抗議したくなる余地があまりないわけです。

一方、小売業はどうでしょうか。

小売店に並んでいる商品は、基本的に毎日ほぼ同じです。顧客は、明日に来てもそれを購入できますし、その時その場でどうしても買わないとまずいようなケースはそれほどありません。

さらに、関心のある商品ほど、店に来るたびに買う商品ほど、比較的高額な商品ほど、顧客はその商品の価格を「覚えて」います。

そこに、その小売店がダイナミックプライシングを導入したらどうなるでしょうか。当然、価格が上がれば顧客は買い控えます。

それどころか、「この店は来るたびに値段が変わる、しかも昨日よりも今日のほうが価格が上がっている」と気づきます。それに気づいた顧客は、その店に信頼を置かなくなり、警戒心を持ちます。

ダイナミックプライシングに魅力を感じてやまない小売業者は、消費者は価格が変動していることを知らないと思っているのかもしれませんが、まったく浅はかです。賢い消費者ほど、どの店で何がいくらで売っているのか(場合によっては「いつ」までも)、よく覚えています。同様の話で、食品メーカーはかなり以前から常套手段として、価格を据え置いて内容量を減らすこと(いわゆるステルス値上げ)を頻繁に行っていますが、それも多くの消費者(特に主婦の方々)は気づいています。

さらに言えば、ECの世界ではすでに、特定のサイトの特定の商品が時間経過でどのような価格変動をしているのか、自動的にトラッキングしてくれるサービスまで登場しています。利用者は安くなったところで通知をもらえるように設定しておき、通知が来たところで注文できるというわけです。

そのような自動トラッキングを使わないとしても、その小売業がECサイトを展開しているのなら、顧客はそのサイトに、関心のある商品を ”何度も” 見に来ます。訪問するたびに価格が変わっていれば、それで分かってしまいます。1週間のあいだに何千円や何万円も価格が上がっていることに一度でも気づけば、もう顧客はそのECサイトでは、一見で購入ボタンを押すことはなくなるでしょう。

消費者の信頼をなくしてまで、「最適な価格」で利益追求したいのでしょうか。小売店は正々堂々と、一度決めた価格で勝負すべきだと思います。もし価格をダイナミックに変えたいなら「下げる方向にだけ」にするべきです。上げる方向に変えるなら、きちんと理由を説明すべきだと思います。

実際、現在のような価格高騰のご時世の中、そうした説明は、小規模な小売店ほど危機意識をもって丁寧にやろうとしています。値段を上げたり下げたりを恣意的に行っていることに消費者が気付けば、企業規模に関係なく、小売店は簡単に信頼を失うことを、忘れてはいけません。