データがある会社とない会社の、大きすぎる差

おおよそそうではないかと思っているのですが、ビジネスの仕組みが明らかではない会社には、使えるデータもありません。

使えるデータをたくさん持っているのにビジネスの仕組みはいまいちだという会社を、わたしは寡聞にして知りません。逆に、ビジネスの仕組みづくりに長けている企業には、たいていは多くの使えるデータが存在しています。

そういう傾向になるのは、データに次のような特性があるからです。

まずデータは、使おうとする人が自分で「取ろう」と思わなければ、存在すらしません。自然にそこにあるように思われがちですが、そうではありません。自然にそこにあるデータも見つけることはできますが、それは誰かほかの人が取ろうと意図して取得したデータに違いありません。そしてそういうデータは大抵、自分にとって使えるデータにはなっていません。

次に、データは何らかの目的をもって取らなければ、そもそも意味を成しません。意味をなさないのなら、使えないデータです。何かの情報システムやソフトウェアを入れたりすると、それが勝手に内部でデータを取っていたりします。しかしそのデータ取得が自分が持つ目的に合ったものでないなら、きっとそのデータが参照されることはありません。見たところで意味がないからです。漫然とデータが取られているだけならば、自分に見えてくるものは何もありません。

さらに、データというのは、使わないのなら持っていないのと同じです。出してくれと言われれば多くのデータを揃えて提出できる会社はたくさんあります。しかし、それらのデータを普段から自分で使っていないのだとしたら、実はそれらのデータを出力できない会社とあまり変わりはありません。

最近、AIを適用して業務能力を向上させる事例が、業種を問わず出てきています。ただ一方で、AIを使える企業と使えない企業の差が、かなり顕著になってきている側面もあります。その要因は、技術力の差というよりも、つまるところデータの差です。AIはデータを食べさせることで育成されます。自社内に使えるデータがない会社は、そもそもスタートラインに立てないのです。

データというのはまた、過去から現在までの蓄積の賜物という側面もあります。ある企業では、職人技の調整を要する業務にAIを適用して判断精度の向上を図ろうとした際、数十年にわたって記録してきた作業日報を活用したそうです。そこには、調整のノウハウと、成功失敗の履歴が詰まっていました。

おそらくこの会社では、「どう調整したらうまく行くのか」を長年追究し続けてきた結果、一定の「仕組み」が出来上がっていたのではないでしょうか。その蓄積が、作業日報でした。もちろん紙の情報でしたが、これをデジタル化してAIに学習させたのです。

職人技に依存する多くの企業は、その技を言葉にしようとする努力を欠いています。実際、言葉にしようとすると大変な労力を要します。それでもなお言葉で表現しようとする取り組みは、つまり属人的な仕事を仕組み化しようとするものにほかなりません。仕組みを構築するマインドがある会社はおよそ、データ化する取り組みは自然に実行しているものなのです。