もう始まっている「そなえよつねに」

子どものころ、地域のボーイスカウトの団体に所属していました。「そなえよつねに」は、ボーイスカウトのモットーとして知られる言葉です。「いつなん時、いかなる場所で、いかなることが起こった場合でも善処ができるように、常々準備を怠ることなかれ」という意味だと教えられます。子供ですと難しいことはよくわかりませんが、活動のなかで常に言われますし、歌を歌ったりもしますので、子供でもなんとなく覚えてしまうものです。

そうして、今でも思い出すわけです。特に今のような有事の際に。少しネットで検索してみたら、この標語を題材にブログを書いている人たちをたくさん見つけることができました。

大震災も豪雨災害も金融危機も複数回あったのに備えていなかった企業は、いま必死な思いで危機に対応していることだろうと思います。そうであるとしたら、その企業の経営者は、どれほど事前に備えを実行していたかを大いに反省しなければなりません。

テレワークひとつとっても、備えていた企業は円滑に移行し業務を継続できています。備えていた企業はおよそデジタル化に対する意識が高い企業であり、それなりに時間と労力をかけて「備えてきた」と言ったほうが適切かもしれません。本来そうした取り組みであるものを、危機になったので今すぐどうにかしようというのは、所詮無理がある話なのです。

資金繰りもまた同様です。備えていた企業は、いつ何時苦しむか知れないと考えて内部留保しようとし、これもまた時間と労力をかけて行います。例えば、仕事が一切入らなくなっても従業員に1年間は給与を払い続けられるだけの額を目標に内部留保しようとする中小企業がいます。「カネをくれないと休業できない」と発言する経営者を時々見かけますが、国や自治体に事態を招いた直接的な責任があるのではない限り、補助や補償を受ける側は、金融支援してもらうのが当たり前だと思ってはいけないと、わたしは考えます。

現在の医療現場の問題にも、思うところがあります。いま医療従事者の方々は、想像もつかないほどの作業負荷と高い感染リスクという状況下で業務をされていると聞きます。ただし、業務環境がそもそも労働集約的であることに関しては、随分前から誰もが知っていたことです。街のクリニックでさえ、窓口で整理券を取ってから診察になるまで1時間待たされるなど珍しくありません。

日本の医療は、街医者から大規模病院に至るまで全国一律の階層型組織です。その分、全国どの医院にかかってもほとんど同質の医療サービスが受けられるのが利点ですが、一方で組織は硬直化しやすいわけです。そうした組織ほど、トップ層の人々に改善の意識が強くなければ、課題は課題のまま根本的に解決できないのです。

この業界では以前から、草の根レベルの局地的な改善の取り組みしか話が聞かれません。最近の状況下においてオンライン診療、AIによる診断支援、PCR検査拡大の是非などの問題が取りざたされるにつけ、発言を聞いているとこの業界を主導する立場の人たちのアタマの固さがより浮き彫りになっているように感じられてなりません。そのしわ寄せは常に現場の人々と患者に行きます。

経営の話に戻しましょう。至らなかった点は反省するにしても、ではいま、当座をどうにかしのぐ方策を実行できた後、経営者の方々はこれから先について「そなえて」いるでしょうか。

新型コロナウイルスに関しては、まだわかっていないことが多くあります。ウイルスであれば抗体ができるはずのところを、新型コロナは再び陽性になる患者のケースが複数報告されています。理由は明確ではありません。特効薬がいつできるかもまだ不明です。どこかの時点でスッキリ解決はせず、どちら付かずの状態がしばらく継続するだろうと、容易に想像できます。

経済活動や人の動きも、元には戻らないかもしれません。この問題の発生前は顧客にとって価値だったものが、今後は価値ではなくなることもありえます。業務のしかた、サプライチェーン、取引先との関係、業界を取り巻く環境、世界の動き、様々なものが、元には戻らないかもしれません。人々が一斉に遊興に出かけるようにはならないかもしれませんし、海外からの旅行客もそれほど戻らないかもしれません。来年の今頃まで問題が長引けば、東京でのオリンピック・パラリンピックの開催もなくなるかもしれません。

悲観的なことばかりではなく、新たなニーズが発生することもあります。3密にならずに楽しめる方法の提供、自宅にいながら享受できるサービス、遠隔でも人とつながれる仕組み、などは必要性が高まっています。それに伴って、物を運ぶニーズや通信のニーズも高くなっています。ニーズを捉えようとしている会社は、うまく発想を転換して対応を実際に始めています。

ニューノーマル、アフターコロナ、などと呼ぶ向きもあるようですが、事後がどうなるかというよりも、これまでとはまったく異なるやり方や考え方をしなければならない可能性に注目すべきではないでしょうか。意識をシフトし必要な物事を整えるには、前記のように時間も労力もかかります。差し迫ってから考え始めるのでは遅いことを学び、「そなえ」はもう始めなければならないだろうと思います。

こんなときこそBCP(事業継続計画)

新型コロナウイルスによる影響が広がり、収まる気配がまだありません。先が見えない中で、社会全体が活動を縮小する流れになっています。

各企業は、当面この事態が続く、またはさらに悪くなることを念頭に、事業活動を考えていかなければならない状況でしょう。ひとまずは目先のことに考えが行ってしまうのは避けられないかもしれませんが、ここで考えたいのが「事業継続計画(BCP)」のことです。

BCPは、天変地異など不測の事態が発生した場合に、事業をどのような体制にシフトして継続を図るかをまとめた計画です。東日本大震災の直後には相当にクローズアップされましたし、昨年までに頻発した水害の際にも注目されました。災害のたびにBCPの重要性が問われています。

少なくとも日本企業の間では、BCPというと、地震や台風への備えというイメージで捉えている向きが多いのではないかと、個人的には感じています。しかしながら、BCPの想定には元から、パンデミックも含まれています。直近のパンデミックとして思い出されるSARSの蔓延の際は、日本国内では今回ほどの大騒ぎにまではならなかったと記憶していますが、そのせいもあるのか、多くの人々にはあまり実感が持てないケースだったかもしれません。

実は今回の騒動が発生するより前に、関係するある場でBCPが話題になったことがありました。その際にわたしがパンデミックのことを指摘すると、実感がわかない様子でポカンとしている関係者が多かったのを思い出します。なかには「ひねくれた指摘を」と思った人もいたかもしれません。

パンデミックが他の災害と異なることのひとつは、局所性が小さい、つまり場所を問わないという特性でしょう。地震や台風は、直接の被害地域とそうでない地域に分かれますが、パンデミックではそれがほとんど期待できません。つまり、東と西で「冗長」を取っていれば対策できるというものではありません。すべての人が万遍なく影響を受けてしまいます。そのことは、今回の経験を通して多くの人々の記憶に残るでしょう。

BCPを考慮するうえで大事になることは、「問答無用ですべて止まるとしたとき、どうするか」を考えることだと言われます。今回、人の動き、モノの動き、関係各所の動き、経済の動き、あらゆる事業活動の動きがそれこそ問答無用で縮小しました。一方では、それによる新たなニーズも発生しました。そうした経験を通して、改めて自社のBCPを考え直し、明確な計画がないのなら検討し、自社のビジネスシステムのあり方を問い直してはいかがでしょうか。

ところで、世間では今回の騒動をきっかけにテレワークが話題になっていますが、「BCP=テレワーク」では必ずしもありません。この緊急事態下においては選択の余地はほぼないのは間違いありません。ただし、ソリューションありきの考え方は、平時・有事に関わらず、いかなる状況でもやめるべきです。社内に混乱を招きます。先に考えるべきなのは、自社のビジネスシステムのあり方でしょう。

テレワークに関して言えば、本来なら技術の導入と同時に、勤務体系や現場での仕事の管理、メンバー間での情報のやり取りや責任者の承認、勤務評価の仕方、発生する費用の負担の考え方など、多くの面で業務の仕組みを大幅に見直す必要が出てきます。従業員の負担やパフォーマンスも、在宅時の環境によっては大きく変わります。

オフィス勤務では想定しないような仕組みに組み立てなおして、自社のビジネスシステムがより機能性や柔軟性、成果創出能力などが向上するということなのか。そうした判断をするというのが、テレワークを考えるうえでの本来の筋だと考えます。今回、問題なくテレワークに移行できている企業は、平時からその準備ができていた企業です。

もちろん、有事であっても仕事を止めないためにテレワークが必要だ、という判断はあり得ます。そうであるなら、上記のように業務の仕組みをテレワークが馴染む形で的確に組みなおし、平時から常に運用するという覚悟を含めて判断すべきところです。

今回得られている教訓、またこれまでの自然災害から得られた教訓を振り返りながら、目先だけでなくあるべき姿も含めて、自社のビジネスの仕組みを考え直す契機にされることをお勧めしたいと思います。安心したいなら、他社より早く自らで考え備えることで勝ち取ってください。

「新聞読んで知った」は、もうやめよう

オリンピック・パラリンピックの開催が東京で予定され、経済の面でも転換点になるかもしれない2020年になりました。

年頭にあたってさまざまに目指すところを思い描いている方も多いだろうと思いますが、僭越ながらわたしのほうからひとつ、経営者のみなさんにぜひ気にしてほしいことを述べさせてください。

それが、今月のコラムのタイトルです。

ITやデジタルのトレンドに関して、経営者の方々のアタマに何らかの「フラグ」が立つきっかけは、わたしが知る限りでは、ほぼ「新聞」であると理解しています。敢えてどことは申し上げませんが、新聞社までほぼ共通しています。

ほとんどの経営者が、○○新聞で記事を読んでから、社内の部下に「これ、うちではどうなんだ」と聞いています。

今年から、それはもうやめましょう、というご提案です。

実はITやデジタルに関して(おそらくほかの分野でも同じなのでしょうが)、メジャーな新聞に記事が載る時点では、その筋の人たちにとってその情報はすでに周知の事項です。もう少し踏み込んで言ってしまうと、「あー今頃その話が出てきたの」という感覚で見ています。

実際、多くの経営者がバイブルにしている○○新聞のIT関連記事は、その新聞社の傘下にある専門誌がすでに報じている内容を再編集して記事にしていることが、非常に多いのが実態です。そのため、すでに専門誌のほうを読んでいる人からすればなおさら、「記事使いまわしてるの?」という感じになるのです。

つまり、経営者の方々は先取りしているつもりかもしれませんが、実はまったく遅いということです。

考えてみれば当然のことかもしれません。そのデジタル技術についてすでに挑戦している組織があるから、すでにそれが顕著な傾向になっているから、大手の新聞がようやく取り上げるのですから。

ITの分野は、そのタイミングで考え始めているのでは、場合によっては周回以上の遅れになります。実行することについては早いのがよいとは限りませんが、考え始めることについては、早いほうが確実に有利です。

今年からは、新聞だけを「頼みの情報源」にするのはやめましょう。その代わり、社内の担当者に、専任のタスクとして情報収集をさせてください。情報収集した内容は経営者との間で頻繁に共有し、そのなかでトレンドや方法論をキャッチアップします。いわば、ミニ・シンクタンクです。

そのようにして、大衆が話題にする前に、社内ですでに話題になっているという状態を目指してください。

この取り組みがうまく軌道に乗れば、その会社の経営者は、○○新聞を見るにつけ、「もうそれは、検討を始めているよ」と反応するようになるでしょう。そんな会社を、ぜひ目指していただきたいと願っています。

 

ROI による IT 投資判断を、もうやめる方法

IT導入を企画する際に、組織の中で必ずと言っていいほど取り沙汰されるのが、「ROIを明確にせよ」という話です。

投資を伴うのですから、それに見合う効果があるのかがはっきりしないといけない。見合わないなら投資するに値しないと判断しても致し方ない。まったく理にかなった考え方です。

しかし現実を見れば、IT投資のなかには投資効果を必ずしも容易に測定できないものがあります。

例えば、システム基盤やネットワークなどのインフラに対する投資、または情報セキュリティに対する投資などは典型です。こうしたものは、投資効果が測れないからと言って投資しないわけにはいかないことが、多くあります。

また、日本企業におけるIT投資の典型ともいえる業務効率化投資も、実はよく考えると、望むような投資効果を本当に獲得できるのか怪しい点があります。

投資効果の算定で典型的なものに、「時間の削減」があります。IT導入により削減を見込める業務時間に、時間当たり人件費を掛け合わせて削減コストを算出し、それが投資額より多ければ、投資効果があると判断する、というものです。

しかし実際は、担当者の業務時間を削減したところで実は人件費が減るわけではないという、よく言われる問題に直面します。そこで、余剰人員をほかの業務にシフトするなどと言ってみるのですが、本当にそうしているケースがどれだけあるのか、本当にシフトしたとして異動させられた担当者のモチベーションには影響がないのか、シフトすることによって発生する新たなコストがないのか等々、怪しいところがあります。

そして時間削減効果のように、ROIの評価では往々にして、リアルにキャッシュを生み出す効果ではなく、実際にはキャッシュを得られるわけではないバーチャルな効果が語られることが多くはないでしょうか。

場合によっては、実際にコスト削減や売り上げの増加が算定できるケースもあるかもしれません。例えば、利用しているITサービスのコストが単純に下がるのであれば、投資判断は容易です。しかし多くのケースでは、投資した直後には効果が見えるけれど継続するわけではないという、一時的な効果であることを見ていない場合があります。または、IT導入によって別の運用コストが上がる、会社として背負うリスク要素が増加するなど、新しく発生するコストには目をつぶっているということも、よくあります。

結局、ROIによる評価は、案件を通したい担当者による、辻褄合わせの数字遊びになりやすいのです。

おそらくほとんどの経営者はこのことが直観的に分かっていると思うのですが、ROIを問うのをやめたという話は、個人的には聞いたことがありません。おそらく、他にアイデアがないからではないかと推察します。

そこで提案なのですが、ROIの代わりに「改善効果の創出を約束してもらう」というのはどうでしょうか。

ITを導入することで、ITが適用された業務には何らかの「ゆとり」が生まれるはずです。ゆとりがあるのなら、そのゆとりを使って、ビジネスにかかる改善策を発案し、会社に貢献することができるはずです。

一般論として、仕事が忙しく目の前の業務をさばくのに精いっぱいの職場で、改善のアイデアは決して生まれません。アイデアの創出に不可欠なのが「ゆとり」なのです。そこで、ITの導入によって「ゆとり」を与える代わりに、そのゆとりによって創出できる改善とその効果を明確化せよ、と要求するわけです。このとき、企画する改善アイデアとIT投資は、必ずしも直接リンクしていなくても構わないとします。

創出できる改善効果を担保にしてIT投資が行われるとしたら、それを自ら謳った責任部門にしてみれば、相応なプレッシャーがかかるはずです。約束する効果を出すべく、企画段階から導入後の活用のシーンを必死に考えるだろうと見込めます。経営側としては、提案してくる改善アイデアがIT投資に比して獲得効果が高いと見るか否か、という判断をするわけです。

実は、ROIによる投資判断の問題として、事後評価が甘くなるというものもあります。投資の時点でしか議論されずに導入後に実証の測定を行っていない、または行ったとしてもやはり数合わせを行ってお茶を濁している、ということがよくあるのです。これに対し、具体的な改善を問うならば、その取り組みと効果を自然にキャッチアップすることが可能で、事後評価が甘くなる問題を解決しやすいのです。

改善を軸にした投資判断にすると、ROIでは投資判断がしにくかった案件であっても検討対象に挙げやすくなります。その分、稟議を通しやすい分野に偏ることなく適切でタイムリーな投資が可能になると期待できます。

経営レベルでは感じていないかもしれませんが、現場からしてみれば、稟議を通しにくい分野は案件化を敬遠しがちなのです。そのことで、例えば情報セキュリティ対策が後手に回りリスクが発現して被害に遭うとしたら、それは悲劇なわけです。

それにも増して、こうした方法によって組織に「継続して改善を試みる文化」が定着すれば、組織の強さにつながるのではないでしょうか。

 

「買い物体験」、なんだか怪しい

最近、小売業ではデジタルを活かして新しい価値を顧客に提供しようという動きが活発です。

スマホアプリを顧客に使ってもらってクーポンを提供したりおススメを紹介したりするのは、さほど珍しい取り組みではなくなってきました。どの企業も、実店舗での買い物とECでの買い物を結び付けた、いわゆるオムニチャネルを何とか成功させようと、あの手この手を凝らしています。

このときによく出てくるキーワードが、「買い物体験」ということばです。買い物という行為を顧客体験として捉え、顧客に斬新な体験価値を提供しようとし、そのカギとしてデジタルをフルに活かそうという考え方をしているようです。

こうした事例もいつも興味深く見つめているのですが、実のところ個人的には、斜めから見ているようなケースも少なくありません。

怪しいなと感じる理由のひとつは、「買い物」と「体験」は本来別のものであって両方を追おうとするならそれは案外難しい、ということです。

ビジネスにおける提供価値は大きく2つの分野に分けられます。ひとつは「困りごとの解決」、もうひとつは「心地よい体験の提供」です。世の中のビジネスで提供されている価値は、およそこの2つのどちらかに当てはまります。

なかには両方に当てはまるビジネスがありますが、これまでわたしが観察してきた限りでは、「困りごとの解決」を提供しようと価値を追求してきたところ、次第に「心地よい体験の提供」による差別化を図るようになってきた、というのがほとんどです。そうした企業の場合、主たる価値提供は後者に転換されています。つまり普通は、2つの提供価値のうちどちらか一方が主であったり根本であったりするものだと、わたしは考えています。

そのような考えのもとで先ほどの話に戻ると、「買い物」は困りごとの解決、「体験」は心地よい体験の提供、とそれぞれ分野が異なります。

にもかかわらず、「買い物体験」を掲げる小売業は両方とも追いかけようとしているように、わたしには見えてならないのです。「買い物」なら徹底して買い物の利便性を上げる。「体験」ならまるで温泉やアミューズメントパークに来たかのように楽しんでもらう。どちらに注力するのかを意識し、どちらかを徹底的に追及して作り込まなければ、顧客からはどちら付かずの中途半端なモノに見えてしまう可能性が高いです。

少なくとも、片方を追求した会社にはその分野で負けます。「買い物体験」を追求した企業が、心地よい体験の提供を追求するアミューズメントパーク、例えばディズニーランドに、そのうち勝てるのか、という話です。

怪しいなと感じる理由をもうひとつあげると、デジタル化を図る企業の下心がものすごくうかがえる点です。

顧客の買い物をデジタル化することで、顧客の動きを逐一データ化し、顧客の志向や考えをつまびらかにしようと狙っている企業ほど、こうした取り組みを積極推進しているように見受けられます。

そうした分析を純粋に提供価値の向上につなげようとする企業もあるでしょうから、その取り組み自体を否定はしません。ただし、どういう考えでその企業がデータを扱い、使おうとしているのかは、そのビジネス行動に現れます。顧客はそれを見て、度が過ぎると感じれは気持ち悪さを覚えます。それは言うまでもなく、その企業への信頼につながります。

顧客が買い物に店舗を訪れ、ふと天井を見上げると、おびただしい数のカメラや通信機器がこちらを捉えているのを見つける。場合によっては商品棚にまでセンサーが仕掛けられている。このような店舗で買い物していて、果たして顧客は気分がよいものなのでしょうか。

実際、例えばECサイトのレコメンドに対しても、後から追いかけてきて推薦されることにいやらしさや気味悪さを感じていると回答する人が多いことが、各種の調査からも明らかになっています。

こうしたことがどうあるべきなのかは、経営者が打ち立てるべき、企業としての倫理観の問題です。法に則っていれば何をしてもよいという考えには、およそ洗練された矜持のようなものは見受けられません。

先日も、利用者の同意なく個人データを外部に提供して行政から是正勧告を受けた企業がありました。この企業の経営者は、問題のサービスを提供することを部下から知らされたとき、問題を何も感じなかったと述べています。個人情報の取扱いについて、経営者としてそれを重視するポリシーやセンスは不在だった実態が明らかになった。わたしはそう理解しています。

特に技術者は、分析したい、取れるデータはなんでも欲しい、知ることができるなら何でも知りたい、と追究する気質であるのが(良いか悪いかはともかく)自然でしょう。リーダーがあるべき姿を何も示さなければデジタル担当者はそのまま突っ走るという、他山の石として捉えるべきではないでしょうか。

個人的には、「買い物体験」を追う試みはおそらくなかなか成功しないだろうと思いながら、観察しています。

 

「強み」は、道を誤りやすい

経営が立ちいかなくなった企業の話を記事などで読んでいると、「○○というかつての強みが、時代の変化(または新興勢力の台頭など)で通用しなくなった」などと評しているのをよく見かけます。わたし個人は、こうした表現を見るたび違和感を覚えます。

企業の特色や得意領域を考える際に、わたしは「強み」という言葉を使うことはありません。必ず「こだわり」と言うようにしています。理由は2つあります。

ひとつは、「強み」は誰もが持ち得るものではなく、また「強み」がないことは事業の失敗要因では必ずしもないからです。

少し考えてみればわかることですが、中堅以下の企業がどれだけ頑張っても、大企業にも必ず勝てる「強み」はほぼ持てません。顧客基盤、営業能力、高度な技術、優秀な人材… なにに絞ったとしても、「ウチは大企業を含めてどの企業にも負けません」と確信を持って言えるというのは、中堅以下の企業にはほとんど無理です。しかし、だからといって、中堅以下の企業の事業がうまく行っていないわけではありません。

これを説明しようとするなら、その企業には「強み」があるのではなく「こだわり」があると位置づけたほうが妥当だ、というのがわたしの考えです。「こだわり」を持っている領域というのは、たいていはその会社にとってプライドを感じている領域です。「こだわり」であれば、どんな零細企業でも持つことができます。

一方で、たいした「こだわり」もないのに「強み」はある、ということはほぼありえません。そのような「強み」は、維持のしかたはわからない偶然の産物か、およそたいした強みではないでしょう。

もうひとつの理由は、「強み」という言葉を使うと、間違った方向の「強み」でもしっくり当てはまってしまう感覚になることが多いからです。

事業の成功につながっているとして誇れるものを企業が持つとしたら、それは顧客に対する提供価値に直結するものでなければなりません。顧客が価値を感じて買ってくれるから、収益が上がり、事業はうまく行く。当然のことです。

ただし、「強み」という言葉を使うと、顧客に対する提供価値に直結しないものも「強み」として表現ができてしまい、しかもそれに違和感を覚えない、ということが往々にしてあります。

例えば最近聞いた事業再生の話では、その企業の(かつての)強みは「都市郊外に中規模の店舗を多数展開する」と謳われていました。これは、顧客に対する提供価値と直結するものでしょうか?ネット通販がまだ一般的でなかった頃、近所に大きめの店ができれば嬉しかったかもしれません。しかしそれは、ネット通販でなくても、別の「大きめの店」が近所にできれば失われてしまうような程度の価値です。

よく「強み」に取り上げられるものとして、店舗数、店舗の立地、顧客規模、売上高No.1などを見かけることがありますが、そうした「強み」には、顧客はたいした価値を感じていないことが多いものです。しかしそうした要素であっても、「強み」と表現してしまうとしっくり来てしまうのです。

だからわたしは「強み」ではなく「こだわり」と表現します。「強み」という言葉にはポジティブなニュアンスしかありません。一方で、「こだわり」という言葉は、ポジティブとネガティブ両方のニュアンスで使われます。「変なこだわり」という言葉は自然に使われますが、「変な強み」という言い方はあまりしません。

つまり、おかしな方向に「こだわり」を持つと気づきやすい一方、おかしな方向に「強み」を持ってもあまり気づかない、ということです。ある要素について、「それってウチの強みなのか?」と自問すると問題がないと思ってしまいやすいですが、「それってウチのこだわりなのか?」と自問すると、おかしなものには引っ掛かりを覚えます。「それにこだわるのって、意味あるの?」と。

そして、顧客に対する提供価値に根差した「こだわり」であれば、いったん顧客の支持を得たのに時代の変化で通用しなくなるということは、実はほとんどありません。

「強み」という言葉自体を否定はしません。ただし「強み」と言うのなら、それは顧客に対する提供価値に直結するものでなければなりません。その「強み」は、事業のあり方に大きく関わります。トップレベルでの少しの方向の狂いが、現場レベルでは方向の大きな間違いにつながります。だからわたしは、こだわって「こだわり」という言葉を使っています。

 

「見える化」と「見え過ぎる化」

よくある企業のシステム化事例に、「見える化で成功」というものがあります。

これまで曖昧だった社内の状態、顧客の状況、問題や異常、施策の成果などを、経営者や責任者または現場の人々が「見える」形に整え、確認したり評価したりできるようにする。「見える化」そのものは、大変に意義も効果もある取り組みです。

ただし、見えればよいというものでもありません。見え過ぎることで弊害が生じることもあります。

ある製造業の企業で、それまで見えていなかったサプライチェーンの動きを徹頭徹尾「見える化」して成果を挙げたという事例がありました。当時、この事例は大々的にマスコミに取り上げられ、仕掛け人だった当時の社長は「経営とITのどちらにも精通する人物」としてもてはやされていました。

ところがその社長が退任し、次の社長がその会社に就任すると、新社長はその「見える化」のほとんどを、ことごとく廃止していきました。なんと、見えなくてよいと宣言したのです。

現場の仕事ぶりと成果がすべてデータで挙がってくる「見える化」が、就任時点から労することなく整備されていたにもかかわらず、新社長はなぜ止めるように指示したのか。その理由は、現場にありました。

「見える化」を実現するためには、各業務の動きや流れをどこかでデータに変換しなければなりません。そのデータをどこかで入力し、どこかに集約して集計し、どこかから出力して、表示しなければなりません。実はこの会社では、こうしたデータ処理のプロセスのほとんどが、人力だったのです。現場の社員の多くはデータ処理に相当の工数を強いられ、実はお疲れ気味だったのだとか。

しかも社長向けに出力されてくるデータはかなり細かく、経営判断にはそこまで必要がないというものだったそうです。

「見える化」するのはよかったけれど、見えるようにしすぎて処理が重くなりすぎ、本来の業務に支障をきたすという、本末転倒な状況でした。もうやめるように指示するのも、無理はありません。

世間の事例をマネして単に「見える化」を目指そうとすると、リーダーの性格によってはこうしたことになりがちです。無用な細かさは、ITツールの技術的なスペックにも影響して無用な投資にもなりかねません。こうしたことを避けて「足るを知る」ためにも、まずはシナリオのデザインが必要です。見えるようにする前に、データを見ることによって何がしたいのか。見えるようになったデータから何をどのように達成して成果にするのか。

現実味のあるシナリオが的確に描かれていれば、必要十分な「見える化」となって、末永く自社のビジネスの仕組みに活かされるはずです。

当然ですが、「見える化」の受益者が経営者であるなら、システム要求の整理には主体となって参加すべきでしょう。

デカい会社よりも、ハヤい会社を

今から25年ほど前、大学の研究室で初めてMosaicなるものをコンピュータ画面で目にしたとき、それがいったい何の役に立つものなのか皆目見当がつかなかったことを、よく覚えています。

“Mosaic” とは、現在のWebブラウザーの原型となったソフトウェアです。その後どうなったかは、みなさんご承知のとおりでしょう。このように、わたしにはあまり先見の明がないのですが、年頭くらいはボヤキよりも前向きなことを書きたいと思い、少々慣れない将来予測をしてみたいと思います。

私見では、ビジネスを成功に導くために、当面は「ちょうどよい規模の驚速企業」を目指すのがよいのではないかと考えています。

ここでいう「ちょうどよい規模」とは、大きくてもダメ、小さくてもダメ、いわゆる「足るを知る」ということです。

まず、当面は大きなものを作ってはいけないと思います。大きなものは、全体制御も微調整も難しい。全体で信頼性を維持するのが困難であり、一部でも壊れればその影響が大きくなりかねない傾向があります。それに、柔軟性も通常はありません。何か課題を抱えた時、すぐに課題のある部分だけ直したくなりますが、たいていそれは理想的な解ではありません。そうわかっていながら、全体を考えようとすると複雑で面倒なので、部分的に直してしまいます。つぎはぎを継続するうちに無理が出るようになり、いつしか仕組みの効果や効率が落ちていきます。そしてそれが破たん寸前になるまで、当事者たちは問題にしません。

大きなものの末路とは、およそこうしたものです。

だからと言って、小さいものであればいいわけでもないと思います。小さいものにフォーカスすると、必ずそのうち、小さいもの同士を連携させたくなります。それが不幸の始まりです。始めのうちは繋いで幸せですが、徐々に調子に乗っていくと、構造が複雑化していきます。複雑化したものは、大きなものと同じです。しかも厄介なことに、人間は、複雑が極まってコントロールできなくなって初めて、それが複雑であることに気付く生き物なのです。

ちょうどよい規模であることがなぜ必要なのか。その理由は「驚速」にあります。これからの時代、企業は「常に速い」ことが要求されるだろうと思うからです。

その要因は、ITがもたらすスピードと処理能力です。資本がなくてもITのパワーを享受できる時代になったいま、これに対応できる人間や組織であるかどうかが問われます。ニーズに対して驚速でアウトプットを出せる企業が勝ち、遅かった企業は、場合によっては秒単位の遅れでも、淘汰されてしまうかもしれません。

ただし、速ければよいというわけでもありません。精度も問われます。速くアウトプットできたとしても、すぐにもろさが露呈する企業は、やはり淘汰されるでしょう。ITと、それを駆使する組織、安定した質を実現できる仕組み、すべてが問われます。これが、「常に速い」という意味です。

これからビジネスに要求される「驚速」を実現するための現実解が、現時点では「ちょうどよい規模」であることだろう、ということで、目指すべきは「ちょうどよい規模の驚速企業」と考えました。

ところで、「ちょうどよい規模の驚速企業」という目標のうち、「ちょうどよい規模」というのは「当面」に限られる話です。「ちょうどよい」時代の後には、「デカいのに速い」企業が主役になるだろうと思います。

そういう企業はしばらく出てこないだろうと思いますが、冒頭に申しあげたとおり、わたしには先見の明がありませんので、悪しからずご了承ください。

「ビジネスのデジタル化」も、いつか来た道

「デジタルビジネス」やら「ビジネスのデジタル化」やら、そんなフレーズが様々なかたちで耳に入ってきていることと思います。マスコミが連呼し始めるにつれ、急に焦りを感じ始める経営者の方もいるかもしれません。

ここで短絡的に「デジタル化を何かやれ」と社内で言い出す前に、デジタルビジネスとはどういうことなのか、まず考えを深めてみてください。

会社や事業にデジタルを取り込むとは、どういうことでしょうか。いま流行りのAIだとか、IoTだとか、RPAだとか、そういった技術を導入すればデジタル化は成就するのでしょうか。

デジタル化とは言いますが、新しい話なようでいて、行われることの実態は昔からある「機械化」と何も変わりません。人の作業が機械で実行できる、それによってビジネスのあり様まで変わる、というのが本質です。

機械化は、これまでも人間の働き方に大きな変化をもたらしてきました。

18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命では、産業機械や動力技術の発達により、従来の手作業ではありえない生産性を実現することになりました。大量生産と大量流通の実現により労働者の働きかたも大幅に変わることとなり、それが「仕事を奪われる」恐れを生み、労働者の暴動に発展することもありました。

もう少し最近で言えば、かつて電話が贅沢な通信手段であったころ、電話回線の接続は交換手という労働者たちの人力で行われていました。この仕事のしかたでは加入者の収容に限度がありましたが、自動交換機が発明されて以降、従来とは比較にならないほどの数の加入者を安価に収容することができるようになりました。電話が一般に普及する一方で、交換手という職業は姿を消しました。

つまり、デジタル化もまた機械化と同様に、会社のアウトプットのしかた、業務のしかたを大幅に変革する取り組みになるということです。歴史が示すとおり、デジタルにしてお手軽に完了する話ではないのです。そして、現代のコンピュータがもたらす技術的インパクトは、過去の機械のそれと比較にはなりません。そう考えれば、過去よりもより高度で複雑な成り行きを想像しなければならない状況にあるはずです。

従ってデジタル化に取り組むのであれば、会社としてそもそもどういう未来を追求するのか。そのアウトプットは世間に役立つものなのか。そのアウトプットのために自社のビジネスのどの部分に何を適用すればよいのか。どこまでデジタルを追求すれば目指すものに適うのか。それによって仕事のしかたをどう変えるのか。その変更に自社はどう適応できるか。そのような思考のもとで、自社のビジネスのしくみをまず考え直す。それが、デジタルよりも先にやることであるはずです。

その考えが浅いうちに世間のバズワードに踊らされると、その「デジタル化」は、コストはかかっても大した意味は出せない、むしろ混乱しか招かない、よくある悪しきIT導入と同様に終わることでしょう。

見かたを変えれば、普段からビジネスのしくみを意識し、シゴトのしかたをつくり上げてきている企業にとっては、デジタル化は結構ラクに対応できるトピックなのです。いま「デジタル化」で顕著な成果を挙げている企業は、およそそういう企業です。

話題の技術に踊らされる会社 踊らされない会社

AI(人工知能)が巷で話題になると、「ウチも AI を使ってなにかやれ」と部下に指示する経営者。

信じたくはありませんが、本当にいるのだそうです。

「ウチの商品・サービスにAIを適用したら、○○が●●になって、これまでにない新しい価値が出せるのではないか」というような話をするのなら、ひとまず許容範囲です。そうではなく、「なにかやれ」とだけ言うということは、どう使うとよいと思っているのかについてはノーアイデア・ノープランであるのは明らかです。

経営者がそんな技術的なことに専門家並みに詳しいなど無理だ。こんな反論がすぐに返ってきそうですが、うまく技術を取り込む会社では、そんな言い訳は聞かれません。それでいて、経営者は技術の専門家では必ずしもありませんし、目指してもいません。ただ一点、的確に方向性を伝えなければ「まずいシナリオ」に嵌ることだけは、熟知しています。

まずいシナリオとはどういうことか。冒頭のようなかたちで指示すると、技術にフォーカスが置かれ、その検討がうまく行ったとしても、結果はビジネスに対してあまりインパクトをもたらさない「小粒なもの」になりやすい、ということです。

つまり、こういうシナリオです。特定の技術を自社に適用することが目的になると、およそ発想の方向は「その技術はウチの業務のどこに使えるだろうか」となっていきます。そしてその検討の結論は、「~の業務のうちの…の部分に適用できるかもしれない」となります。そして実際に実証試験を行って、たしかにうまくハマりそうだ、となるわけですが、それは所詮「ある業務のいち部分」でしかありません。

たしかにその業務だけで見れば、自動化なり効率化なりを実現しますから、現場としてはうれしいかもしれません。それがマスコミにおいて話題になっている技術だと、先進事例だとして取材に来られて世間に知られることになり、担当者は得意な気分になるかもしれません。

しかし、経営レベルから見れば、そのインパクトは「ある業務のいち部分」でしかありません。通常、「ある業務のいち部分」がビジネス全体に及ぼす影響は、大したことがありません。従って改善のインパクトも、大したことはないことになります。おそらくその会社の経営者は内心、「新聞で言われるほどすごくはないな」「まあそんな程度のものか」というような感想を持つでしょう。

そのような感想を持ってしまうのは、このシナリオを辿るなら、厳しい言い方ですが自業自得です。なるべくして「まあそんな程度」になっています。

ただし、このシナリオにおいて注意すべき例外があります。こと IT の場合、ある技術の採用が会社の業務基盤を根底から変えてしまう影響力を持っているケースが、時としてあります。その技術を採用することで、仕事のしかたがごっそり替わる、問題発生時に解決の仕方がこれまでと変わる、業務のやり方が縛られる、などということが起こりえます。

経営者が、技術の採用によりこうしたインパクトがあることに疎い(そういう類の技術に限って、そのインパクトが素人には分かりにくいのです)と、以前と違う状況になっているとはっきり気づいたときに、小さくないショックを受けることになるでしょう。そして、そこから元に戻すことは、もうできなくなっています。

マスコミはほとんど取り上げませんが、新しい技術を使ってポジティブな成果を挙げる企業は、その技術の適用を考える前に、自社のビジネスのグランドデザインがきちんとできています。事例を「きちんと」分析すれば、その会社がきちんとグランドデザインを描き、それを下敷きにして技術適用の検討を進めてきたのかどうかは、感じ取れることが多いものです。

グランドデザインがあるということは、その会社が実現したいことが明確に決まっている、ということです。ですから、新しい技術がその役に立つ可能性について、容易に判断がつくのです。

そういう会社の経営者は、「ウチも AI を使ってなにかやれ」などとは決して言わないでしょう。そんなこと言わずとも、社内で勝手に検討が進んでいるはずです。それが、グランドデザインを考えている会社とそうでない会社の差です。