DXの前に、まずアナログからはじめよ

業務のやり方が固まっていないのなら、DXと言う前に、まずはアナログから始めるのが無難でしょう。

デジタル化を実現するツールやソフトウェアというのは、良くも悪くも「出来上がって」います。いったん使い始めると、そのツールによって仕事のやり方は事実上規定されてしまうところがあります。場合によっては、そうしたツールによって組織に合わないやり方を強制されることもあります。

ツールやソフトウェアの選定が上手くない会社に限って、「ウチには合っていないな」と気付くのは、たいていはそれを使い始めてからです。

情報システムというのはその会社の文化をも決めてしまうもの、と言っても決して大げさではありません。そうした側面があることを念頭に置いて、ツールやソフトウェアの選定は慎重に、かつロジカルに行うべきです。経営者が理解すべきITというのは、技術知識では必ずしもなく、こうした大局的な視点での理解であると考えれば間違いはありません。

アナログとは極端な、と思われるかもしれません。もちろん、アナログのままにしてデジタル化しなくてよい、という意味ではありません。仕事のしかたを固めるために、まずはアナログベースで試行錯誤する、ということを意味しています。

アナログなやり方というのは、大規模化することや複雑な処理をこなすことには向いていません。一方で、小さく取り組むぶんには、むしろアナログのほうが、人間の裁量に任せて自由に試行錯誤ができます。最悪、全部やめて最初からやり直すことも躊躇しなくてよいのです。

どうあるべきなのかをまずアナログベースで追ってみて、自社なりの業務のあり方を固めたところで、デジタルのアイデアや能力を取り入れる。こうした順番のほうが、DXを実現していくにあたっては遠回りなようで確実だろうと思います。

最適な業務のアウトプットを出す方法論というのは、中堅中小企業だけでなく、案外大企業でも部門によっては、考え抜かれていないことがよくあるものです。DXというキーワードを契機にして、今の仕事のやり方そのものを見直すことから始めてはいかがでしょうか。

デジタル化を始める前に、経営者にやめてほしいこと

いざデジタル化を本気で考えようとなった時、その会社の経営者が真っ先に考えやすいのは、ITをリードしてくれる人材を外から採用しようとすることです。

特に中堅以下の企業で、これまでITに “本気で” 取り組んでこなかった場合、社内にそれにふさわしい人材が不在であることが多くあります。育てようにもポテンシャルのある人材はいないし、いたとしても今度は育成ができる人材がいない。それであれば、いわゆるプロ人材か、大手で活躍するなど優秀な経歴を持った即戦力人材を取り込みたい。そう考えるわけです。

無理のないことです。ただし、この際に経営者がやってはいけないことがあります。それは、日本の経営者に顕著にみられる悪しき習性、「丸投げ」です。

「丸投げ」する経営者は、いわゆるプロのIT人材を雇うと、あとはその人物にITは全て任せてしまえばよいと考えます。なんとなくやりたい(が特に本気度が高いわけでもない)と思っていることだけ伝え、「何とかしてもらいたい」程度の指示しかしません。

つまり、経営者が課すITに対する要求は、ほとんどゼロ。ポリシーも指針も特になし。読んでほしいのは空気くらい、と言ったところでしょうか。

そうなると、任されたほうのプロ人材はどうするか。自分の好きなようにデジタル化を進めていきます。

「自分の好きなように」というのは、具体的には人によって異なるわけですが、ひとつ言えるのは、その企業の目指す姿を深掘りしてそれを強化しよう、支援しよう、とは ”考えない” ことです。まず、わかりやすい成果を出すこと、その次に、先進事例で取り上げられそうなネタに取り組むこと、それによってマスコミに取り上げられて有名になること。あわよくば何かの賞でももらえたら最高。およそそんなような方向で物事を進めるでしょう。

そうして出来上がるシステム基盤は、なんだか成果は出たようだけれど、そのプロ人材でしかコントロール不能で、周りにはよくわからないものになります。

このような取り組みを進めて「実績」を挙げた当のプロ人材は、自らの市場価値を高められて満足し、ほかの企業にまた転職していきます。そして残されたシステム基盤を、残った人材でメンテナンスし使いこなしていくことになります。それが難しいこと、会社がそのシステムに何となく引きずられていること、そんな負の側面は、社内で徐々に実感されていきます。

ここまでお話ししたシナリオは、外部人材を採用した場合の典型例のひとつです(ほかにもありますが、明るい話はあまりありません)。元々、経営者はプロ人材を雇ってデジタル化を進めようとしました。そんな経営者にとって、これで何が変革できたと言えるでしょうか。

実は、何も変わっていません。もしかすると、余計な資産を背負ってしまってマイナスかもしれません。しかしその要因は、丸投げした時点でつくられています。IT専門人材の問題なのではなく、経営者の問題なのです。

この「丸投げ」問題は、実はITだけでなく、営業、財務、商品企画、生産、広報など、あらゆる業務分野で起こっていることです。それもそのはずで、同様な考え方でプロ人材に丸投げすれば、他の業務でも同じシナリオになります。それにより、経営は現場のことがよくわからず、現場は自分の持ち場のことしかわからず、それぞれが個別のやり方に固執する部分最適が横行する会社となります。

そういう会社は、デジタル化を考える以前に、経営者が一念発起して社内を変え、全体を俯瞰し統率できる立場を取り戻す必要があります。それができていないなら、どんなプロ人材を入れようが、どんなシステムを導入しようが、ビジネスに永続的な進化をもたらすことはありません。

デジタル化を始めるなら、まず経営者が「丸投げしない」と心に誓うことから始めていただきたいのです。デジタル化について自ら徹底して考え抜き、自らが思うデジタル化を、自分が主導して進める。そういうポリシーを持ってから、人選していただきたいと願っています。

「行政のデジタル化」、すぐできると思っていますか?

先月、新しい内閣が発足しました。急転直下のことで個人的には驚きをもって見ていましたが、まずは良いスタートを切ったように見受けられます。

もちろん、問題は山積、これからが大変です。新内閣が掲げる政策のうち、目玉のひとつとして「行政のデジタル化推進」が掲げられました。早速デジタル担当相を任命し、陣頭指揮を執る体制です。この動きは、個人的にはまったく意外な事でしたが、頼もしいことだと思っています。

行政のデジタル化に関しては、マスコミも識者も一様に、日本は世界に遅れていると指摘しています。新型コロナの対策にまつわる一連の行政の取り組みで、それが露呈したと述べている向きが多く見られます。

その指摘は、間違ってはいないと思います。確かにお世辞にも世界トップとは言えませんし、それを競うようなレベルでもないのは事実です。ただし、日本の行政システムは遅れている、などということを気軽に指摘しても差し支えないほどの大物は、日本には存在しないのではないのかとも、わたしは考えます。

それほどに、日本の行政システムは巨大なのです。このレベルのシステム構築をやりきった経験を持つ人物は、日本にはいないのではないかと思っています。この国の「デジタル化推進」は、誰がリーダーでも簡単に達成できることではありません。

くどいかもしれませんが、このコラムで何度も取り上げている「基礎知識」を押さえておきましょう。デジタル化するとは、その組織の仕事の仕組みを変えること、そのものです。お金をかけて開発者をたくさん雇ってソフトなりシステムなりを開発すればよいことではありません。

つまり行政のデジタル化を推進するとは、この国の行政の仕組みを根本的に変えることを意味します。これは、いち企業が仕事の仕組みを変えることとはまるで比較にならない、超難問です。本当は「超」を5つくらい付けたいくらいです。

日本の行政システムは、明治以降脈々と積み上げられてきたものであり、戦時中を経て現在まで、権力のありかは変われども、その根本的な枠組み自体は変わっていません。百数十年以上にわたり、中央官庁があり、地方自治体が各地域を統括するという体制は不変です。それを前提に、様々な業務プロセスや法的な制約が、長年にわたって積み重ねられ、または部分的な修正を繰り返してきています。

そして現在、中央官庁だけで約58万人が勤務し、そのシステムには約1億2千万の人間が何らかの形で関係を持ちます。これでもスリムになったほうで、いまから20年ほど前は中央官庁に100万人以上の職員がいたとされます。

これよりも歴史と規模を兼ね備える組織体は、日本にはありません(あるなら教えてください)。圧倒的なダントツで「日本最大のシステム」なのです。

新型コロナに対応する過程で日本のITが後進的であることが露呈したと、ほとんどのマスコミや識者は指摘していますが、本質的にはITが後進的なのではなく、業務のしかたが非効率であるという指摘のほうがより妥当でしょう。

ただしその非効率の根源は、慣例やセクショナリズム等を原因とするような、正すべき要因だけではありません。法律や規制の拘束によるもの、民間団体等との間の責任分掌によるもの、過去の裁判の判決によるもの等々、様々なことに端を発している実態があります。国民の個人情報の取り扱いなどは、その最たる例のひとつでしょう。過去の最高裁判決で、国民の個人情報をどこかの機関や主体が一元化して保有することは憲法違反とみなされるという解釈がなされています。

これほどにしがらみの多いシステムが、日本に他にあるでしょうか。

デジタル化担当相が、就任が決まった際にテレビの取材に答えていたのを拝見しました。その際に印象的だったのは、インタビュアーに「デジタル化、できますか?」と問われて、「やるしかない、できると思います」と答えたところです。

自信があって道筋が見えているのなら、「簡単です、すぐやります」とでも回答したでしょう。そう言わなかった(言えなかった)のは、いかに重い任務なのか、よくお分かりだからではないでしょうか。

これほど巨大なシステムを根本から見直すというのは、明らかに短時間では無理です。先日、政府は行政のデジタル化を5年で達成すると明言していましたが、目立つところだけならともかく、完遂となれば5年では無理だろうと、わたしは推察しています。

おそらく多くの国民は「デジタル化なんてすぐやれよ」と思っているに違いないでしょう。わたしは、効果を出しやすいところから「計画的に」手を付けて国民の関心を引き付けながら、全体は長い目で取り組むような流れにすべきだろうと考えています。それが現実です。

そしてこれは、政治による強力なトップダウンでなければ、決して進めることはできません。その意味で、解散風を吹かせる議員やマスコミなど目もくれず、新総理がおっしゃるとおり「仕事をする」ことをぜひ期待したいと思います。

あなたの会社、「腹筋」ばかり鍛えていないか

身体を鍛えることが好きな経営者は多いようです。泳ぐ、走る、筋トレする。なかには、自宅の地下室に自分専用のジムを構えて、夜な夜な鍛えている方も見かけます。

筋トレに詳しい人に言わせれば、筋肉はおよそ、ペアで対になって連動しており、鍛えるなら両方鍛えなければよろしくないのだとか。例えば、二の腕は上腕二頭筋(いわゆる力こぶ)と上腕三頭筋(力こぶの裏側)がペアになっており、片方が収縮するときもう片方は伸長する。鍛えるなら両方やらないと、バランスが悪い。

身体の表側(おなか)と裏側(背中)も同様だそうです。鍛え上げられた肉体というとすぐに思い浮かぶのは、立派な大胸筋と割れた腹筋ではないでしょうか。目立つからといってそこばかり鍛えているのではまずいのだそうです。ある専門家がこんなことを言っていました。背中が曲がったままのお年寄りがいるが、なぜそうなるのか。

赤ちゃんの時はみんなハイハイをするように、人間の体は、背中の筋肉がないと四つん這いになってしまうようにできている。大人で背中の筋肉が弱ると、おなか側の筋肉によって前に曲がる力が働き続ける状態になる。そこに、老化による脊椎骨の骨粗しょうが加わると、ドーナツ形のパーツがブロックのように積み重なって形成されている脊椎骨が、少しずつつぶれてくる。やがて、脊柱そのものが曲がるように変形して定着する。そうなると、もう筋肉の力では戻せないのだそうです。

この、筋肉の裏表の関係の話を聞いて、わたしは「企業のビジネスシステムも同じだな」と考えました。

DXがバズワード化し、もはやDXを知らない経営者はいない状況の中、いまではITに強くなろうと熱心な経営者も増えてきているようです。なかには、米国や中国の展示会やカンファレンスに自ら出掛けていって見聞を深め、コネクションを得てこようとする方もいると聞きます(もちろんコロナ禍前の行動です)。

そのようにして自ら積極的に情報収集し、知見を拡げるのは重要です。ただしその時、アプリ、AI、クラウド、ロボット、ドローン、RPA、VR、AR、アジャイル、○○テック、そのような「流行りもの」ばかりが、気になってはいないでしょうか。

腹筋、ならぬ見目麗しの流行りのITにばかり目が行って、それこそがIT戦略だと考えるなら、それは違うと思います。

企業のビジネスシステムの背筋とは何か。わたしは「データ」であると考えます。

データ基盤の整備は、素人目には利益に直結するように見えず、その取り組みは地味で面白みがないうえ、とても面倒であることが多いものです。社歴が長く、その間にデータ構造に一切手を入れなかった企業ほど、データ基盤を整えようとすればいろんな意味で相当に苦労します。やりたくない、が本音でしょう。

しかし、どれほど「(見た感じ)先進的なIT」を導入しようとも、データが整っていない企業の取り組みはいつか必ずつまずいて、大きな困難に直面します。

ある企業の話を先日聞きました。その企業はベンダー出身の人物をIT責任者に採用し、その責任者の考えた通りに、モバイルアプリやアジャイル開発等々、「(見た感じ)先進的なIT」をどんどん取り入れているといいます。その結果、便利なアプリをいくつか開発し、顧客にも好評で、業務の効率も向上したそうです。ところが一方で、それらのアプリが参照する大本になっているデータは、その企業が昔から管理に使っているExcelファイルのままだといいます。

それは「ファイル」なのであって、「データベース」ではありません。いわば、背筋が弱いまま腹筋だけ鍛えているのが、この会社の実態と言えます。背筋が弱い会社はどうなるか。将来は、背中が曲がったお年寄りのような身動きに陥る会社になる、ということです。

この企業は近い将来、データで困ることになるだろうと、わたしは予想しています。実は、こんな感じの予想はかれこれ10年来のひそかな楽しみで、正答率もなかなかです。今回も当たるかどうかは、個人的な楽しみにしたいと思っています。

アフターコロナでは「ジョブ型雇用」なのか

アフターコロナにおける企業のスタイルとして、ジョブ型雇用も話題になっているようです。複数の大手企業が本格的にジョブ型雇用を実践すると宣言したといいます。

ジョブ型雇用というのは、職務記述書(ジョブディスクリプション)によって職務内容や期待する業務成果を規定し、それに基づいて社員が業務を遂行するという雇用形態で、欧米では一般的なスタイルとされています。そのジョブディスクリプションに基づいて、報酬も決定されます。

労働時間よりも成果によって評価を行おうとする流れにおいて、ジョブ型雇用というのはそれにフィットするように感じられるかもしれません。しかし、6月のコラムで論じた通り、成果主義に基づく制度にするなら的確な業務分解と設計が必要であり、同様のことがジョブ型雇用にも当てはまります。

加えて、ジョブ型雇用には、従来の日本型雇用スタイルでは考えもしなかった負の側面があることも念頭に置いて、その是非を議論すべきです。

例えば、あるITエンジニアをシステム開発要員として採用したとします。この人材をジョブ型雇用で採用した場合、ジョブディスクリプションには、従事してほしい開発分野や職務レベルに関して詳細な記述が盛り込まれ、会社と当人の間で合意が取られます。一種の契約です。

ご承知のとおり、ITの分野はシステム開発以外にも、システム企画・システム運用・技術調査・研究等々と幅広いものがあります。開発の分野だけでも、専門により細かい分解が可能です。

将来は社内のITリーダーになってもらおうと考えた時、日本の会社の管理職層のほとんどは候補の社員に対し、俯瞰できるだけの幅の広い経験を有することを重視するでしょう。会社によっては、技術だけでなく営業も経験してほしい、という意向を持つことも珍しくありません。

日本型の雇用スタイルなら、このような人事異動はなんら問題ありません。ところが、ジョブ型では問題になります。採用した人材は、ジョブディスクリプションの記述に基づいて職務を遂行しますが、それは裏を返せば、規定外の職務には一切対応しないということでもあります。先述のとおり、ジョブディスクリプションは契約です。その人材は、ジョブディスクリプションを盾に、異動を断ることができるのです。外国人社員ですと、実際にそうします。

ジョブ型雇用は、実力と経験を一定以上兼ね備えた、いわばプロ向けの制度です。プロは、成果で評価されます。プロは、成績が悪ければ報酬も減額になりますし、戦力外通告もありえます。その意味では、管理職やビジネスリーダークラスの人材、または特化した専門性を有する職種に対してであれば、機能する制度であるといえます。

一方で、まだ育成段階で安定した成果を企業にもたらすのは困難である若年層の社員に向いている制度ではありません。もし無理やり適用すれば、狭い領域の仕事しか知らない人材しか育成されないうえ、社内ではジョブローテーションがまるで成立しない状態になるでしょう。それはつまり、仕事が人に紐づく属人化の進行を意味します。属人化が進行した業務は、その担当者がいなくなることが経営リスクになります。

また、有能な人材を採用するならジョブ型雇用だ、というような論調も一部で見受けられますが、そういう考えもまた短絡的だと、わたしは思います。

ジョブ型雇用とはひとつの方法論であり、本来は、国籍も経歴も関係なく、社員が実績と努力次第で自ら望むポジションを得られる公平な人事制度を構築することが大きな目的になっています。有能な人材が興味を示してくれるかどうかは、本来その会社の事業や仕事が魅力的かどうかなわけで、ジョブ型雇用であることは2番目以降の理由にしかならないはずです。ましてや、報酬に惹かれて採用を決めるような人材は、数年もすれば報酬をネタにして他の会社に転職していくでしょう。

いかなる場合でも、先立つものは「どうあるべきか」「どうありたいか」という具体的な意志であって、ジョブ型か否かといった方法論やソリューションではありません。方法論など、自らの意志に従って好きなように使い分ければよいことです。

人材は、ビジネスのしくみをドライブする存在です。どれだけ素晴らしいしくみをデザインできても、それをドライブできなければ、仕組みは無用の長物と化します。マスコミに振り回されることなく、まずは人材に対する自らの考えを見える化するところから始めることをお勧めしたいと思います。そのうえでフィットするなら、ジョブ型はあり、ということになるでしょう。

蛇足ですが、去る6月24日に、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が、京都大学における医学研究に個人として総額100億円を寄付すると発表しました。欧米では、大物の事業家や経済人が何億ドルという自己資産を新型コロナ対策に寄付する動きが多くあります。こうしたことなら、素直に欧米のマネをしてほしいと思う次第です。

DXというよりも、JX??

デジタルトランスフォーメーション(DX)という、新たなバズワードが最近世間を賑わせています。DXに取り組まない企業はアフターコロナを生き残れない、とまで言っている人もいるようです。

冷めた目でこれを見ている人たちは、昔から言われていることの焼き直しだろう、というくらいにしか捉えていないことと思います。そのとおりだと、わたしも思います。ただし、この言葉の本質はきちんと認識しておき、今後の行動につなげる必要があろうかと思います。重要なのは、「デジタル」のほうではなく、「トランスフォーメーション」のほうです。

そもそもトランスフォーメーションとはどういう意味でしょうか。もちろん英語の ”transformation” から来ているのですが、英英辞典でこの語の基になっている “transform” を引くと、次のように定義されています。

to change in form, appearance, or structure

出典:Dictionary.com

形・姿・構造を変えること。つまり、表面に留まらずに中身をまったく違うものに変えてしまうこと、を意味します。

定義だけ見ても、何も感じないかもしれません。ただし、注意して見なければならないのは「まったく違うもの」という部分です。いままでとまったく違うものに、自らの手で意図的に転換することが、簡単にできるという人は、なかなかいません。

過去を振り返ってみれば、これが容易でないということ「だけ」は、簡単に理解することができます。

例えば、江戸時代に伊勢参りが大流行したという話は有名です。江戸時代には関所が設けられており、移動は現代の我々が想像する以上に難しいものであったと思われます。それでも流行したということは、余程大きいムーブメントだったのでしょう。

江戸時代ですので、当然ながら伊勢神宮までは歩いて向かうことになります。Wikipediaによれば、江戸からは片道15日、岩手からは100日もかかったそうです。九州からも参拝者がいたといいますから、そういう人は1年がかりだったかもしれません。

では、みなさんがその江戸時代の参拝客であることを、タイムスリップして想像してみてください。歩いて移動するのが常識だったその時代の人たちが、伊勢神宮まで「電車」や「飛行機」を使って移動することが、果たして容易に想像できたでしょうか。

江戸時代の日本において最も高速で移動できる手段は、馬であったと思われます。できるだけ高速で移動することを考えようとした時、常識の域から逃れられない人は、馬を高速にすること、例えばサラブレッドに育て上げるようなことを考えるでしょう。

それは「トランスフォーメーション」ではありません。「トランスフォーメーション」とは、江戸時代に電車や飛行機を考えることを意味します。徒歩という移動手段を「まったく違うもの」に変えるとは、そういうことです。

DXで言及されているトランスフォーメーションとはどういうことなのか。その本質は「自らの常識を転換する」ということに他ならない、とわたしは考えます。人間は、常識やバイアスにまみれています。それを完全に取り払って、常識外のまったく違うことを発想し、それを具体化するというのは、容易ではありません。しかしながら、常識を覆すことが時代を変えることでもあるというのは、歴史が示しています。問わなければならないのは、デジタルの巧拙ではなく、自分の常識を変えられるか、ということではないでしょうか。

ですから、「デジタルトランスフォーメーション」というのは本質を突いた言い方ではなく、むしろ「常識トランスフォーメーション」(JX??)とでも称するようなものだと、わたしは考えます。

デジタルを活用することで、従来の常識を一変させるのが比較的容易になることは、間違いないと思います。大いに活用しましょう。ただし、本質はデジタルを使うことにはありません。デジタルは、常識を変えるシナリオを実現する「手段」にすぎません。ですから、テレワークにしたくらいで、紙をデジタルに変えたくらいで、RPAで仕事を自動化したくらいで、みなさんの常識が変わっていないのなら、それはDXとは言わないのです。

ちなみに、ネーミングのセンスは、放っておいてください。

テレワークは「ニューノーマル」になるのか

新型コロナウイルスの蔓延によって社会が停滞と不自由を余儀なくされるなか、新しい考え方が台頭する動きがあります。それらを「ニューノーマル」と呼んでいるマスコミや識者も見られます。テレワークもまた、新しい働き方としてそこに含まれているようです。

テレワークは「ニューノーマル」として、新型コロナ後の社会の前提になるのでしょうか。わたし個人は、遠隔勤務はひとつのオプションとして、多くの企業で抵抗なく使われるようにはなると思います。ただしいわゆる「ノーマル」になる、つまり第一義的な位置づけで遠隔勤務するようになるには、想像を絶するほどの社会変容が必要だと考えています。紙をデジタルにすればよい、というレベルではありません。

一般的な企業がテレワークを前提とした労働体制にするには、従来から前提としてきた働き方が「壁」となるため、それらを突破しない限り「ノーマル」にはならないと考えられます。

大きな「壁」のひとつが、「時間を基にした労働管理と給与体系」です。既に明らかなとおり、テレワークでは厳密な時間管理はできません。自由に行動できる環境に社員がいる以上、行動を業務のみに拘束することは事実上不可能です。時間外労働を正確に測定するのも、実務上困難です。にもかかわらず労働を時間で管理しようとすればするほど、社員の行動監視を行うことになります。意識のないやり方をすれば、必ずやハラスメントやプライバシーの侵害という問題に直面します。

時間での管理に無理があるのなら、では何で管理するのか。成果での管理となります。ここに、大きなマインドシフトの「壁」があります。「成果」とは何なのか。

この壁の突破は不可能ではありませんが、仕組みを具体的にデザインできる人材が多くの企業にはいません。結果、ほとんどの企業には、この問題が究極の難題に見えるでしょう。

さらに別の「壁」は、「チームでの協働作業による労働生産」です。従来、多くの企業では複数の社員がチームを形成し、協働作業によって労働成果を生み出してきました。特に日本の企業は、チームの協調を伝統的に重視します。ところが、これもまた多くの人が理解済みと思いますが、テレワークは協働作業には向いていません。

テレワークに関しては多くの実態調査が行われています。煽るマスコミをよそに結果を冷静に観察すると、管理職・部下ともにコミュニケーションストレスを増やしていることが見て取れます。あのGoogleやFacebookでさえ、テレワークになるとしても社員の半数程度までだとし、オフィスの拡張計画を継続して進めているそうです。

意思疎通の問題点を技術で克服しようとする向きもありますが、日本人が言うところの「協調」というのは、「阿吽の呼吸」「以心伝心」、そうした無意識なレベルで機能するような話です。アバターがどれほど進化しても、少なくとも近い将来に、技術でこれらと同等の意思疎通を実現するのは困難だろうと、わたしは考えています。

こうした欠点を飲み込んででもテレワークをノーマルとするのなら、チームワークで成果を出すのは諦める業務設計をしなければなりません。つまり、事業を細かく因数分解のうえ、小さい単位で完結する独立した業務にする。独立した業務とは、他人の助けが不要か、何らかの情報をもらえるだけで完了できるか、いずれかの形で処理ができるという意味です。そのような業務を、個人に割り振る。

こうすれば、テレワークでも業務遂行が可能になります。実はこれが実現すると、先ほど挙げた「成果での管理」も可能になります。究極の難題も克服できるわけです。

しかしこの業務分解は、一部の業種(すぐに思いつくところでは、理容美容など専門技術を持った人員が単独で遂行する業種)ではすんなり実現可能ですが、ほとんどの場合ではやはり「業務設計」が難題になるでしょう。また仮に業務設計ができたとして、それによって生まれる相当な数の小業務を、漏れなく管理できるマネジャーが必要、という問題も出てきます。

ここまで2つの壁と、それらをどう突破できるか、という話をしましたが、これはつまり何を意味するかというと、職種を問わずに「裁量労働制を採用する」ということなのです。テレワークと裁量労働制、直観的にフィットするように思えます。しかしあらゆる職種で裁量労働制を適用するというのは、現行の法律では認められていません。

つまり、テレワークを本当にノーマルにするのなら、法律の全面改正も必要になるわけです。これもまた大きな「壁」です。先にホワイトカラーエグゼンプションの是非について国会で激しく対立があった経緯から見ても、法律を変えてでもテレワークをノーマルにするエネルギーがこの国にあるとは考えにくいところです。

3密の回避、非接触の推奨、などをきっかけに、あらゆる業種でデジタルによる自動化・省人化はさらに進むでしょう。一方で働き方の面では、新型コロナの問題が終息するにつれ、大部分のビジネスパーソンはオフィスや現場に戻っていくだろう、とわたしは想像しています。

ただし、それを覆してテレワークがニューノーマルになるだけの社会変容がもし起こるなら、誰もが想像しなかったような「マイクロサービスによる企業社会」がそこに待っていると思います。

もう始まっている「そなえよつねに」

子どものころ、地域のボーイスカウトの団体に所属していました。「そなえよつねに」は、ボーイスカウトのモットーとして知られる言葉です。「いつなん時、いかなる場所で、いかなることが起こった場合でも善処ができるように、常々準備を怠ることなかれ」という意味だと教えられます。子供ですと難しいことはよくわかりませんが、活動のなかで常に言われますし、歌を歌ったりもしますので、子供でもなんとなく覚えてしまうものです。

そうして、今でも思い出すわけです。特に今のような有事の際に。少しネットで検索してみたら、この標語を題材にブログを書いている人たちをたくさん見つけることができました。

大震災も豪雨災害も金融危機も複数回あったのに備えていなかった企業は、いま必死な思いで危機に対応していることだろうと思います。そうであるとしたら、その企業の経営者は、どれほど事前に備えを実行していたかを大いに反省しなければなりません。

テレワークひとつとっても、備えていた企業は円滑に移行し業務を継続できています。備えていた企業はおよそデジタル化に対する意識が高い企業であり、それなりに時間と労力をかけて「備えてきた」と言ったほうが適切かもしれません。本来そうした取り組みであるものを、危機になったので今すぐどうにかしようというのは、所詮無理がある話なのです。

資金繰りもまた同様です。備えていた企業は、いつ何時苦しむか知れないと考えて内部留保しようとし、これもまた時間と労力をかけて行います。例えば、仕事が一切入らなくなっても従業員に1年間は給与を払い続けられるだけの額を目標に内部留保しようとする中小企業がいます。「カネをくれないと休業できない」と発言する経営者を時々見かけますが、国や自治体に事態を招いた直接的な責任があるのではない限り、補助や補償を受ける側は、金融支援してもらうのが当たり前だと思ってはいけないと、わたしは考えます。

現在の医療現場の問題にも、思うところがあります。いま医療従事者の方々は、想像もつかないほどの作業負荷と高い感染リスクという状況下で業務をされていると聞きます。ただし、業務環境がそもそも労働集約的であることに関しては、随分前から誰もが知っていたことです。街のクリニックでさえ、窓口で整理券を取ってから診察になるまで1時間待たされるなど珍しくありません。

日本の医療は、街医者から大規模病院に至るまで全国一律の階層型組織です。その分、全国どの医院にかかってもほとんど同質の医療サービスが受けられるのが利点ですが、一方で組織は硬直化しやすいわけです。そうした組織ほど、トップ層の人々に改善の意識が強くなければ、課題は課題のまま根本的に解決できないのです。

この業界では以前から、草の根レベルの局地的な改善の取り組みしか話が聞かれません。最近の状況下においてオンライン診療、AIによる診断支援、PCR検査拡大の是非などの問題が取りざたされるにつけ、発言を聞いているとこの業界を主導する立場の人たちのアタマの固さがより浮き彫りになっているように感じられてなりません。そのしわ寄せは常に現場の人々と患者に行きます。

経営の話に戻しましょう。至らなかった点は反省するにしても、ではいま、当座をどうにかしのぐ方策を実行できた後、経営者の方々はこれから先について「そなえて」いるでしょうか。

新型コロナウイルスに関しては、まだわかっていないことが多くあります。ウイルスであれば抗体ができるはずのところを、新型コロナは再び陽性になる患者のケースが複数報告されています。理由は明確ではありません。特効薬がいつできるかもまだ不明です。どこかの時点でスッキリ解決はせず、どちら付かずの状態がしばらく継続するだろうと、容易に想像できます。

経済活動や人の動きも、元には戻らないかもしれません。この問題の発生前は顧客にとって価値だったものが、今後は価値ではなくなることもありえます。業務のしかた、サプライチェーン、取引先との関係、業界を取り巻く環境、世界の動き、様々なものが、元には戻らないかもしれません。人々が一斉に遊興に出かけるようにはならないかもしれませんし、海外からの旅行客もそれほど戻らないかもしれません。来年の今頃まで問題が長引けば、東京でのオリンピック・パラリンピックの開催もなくなるかもしれません。

悲観的なことばかりではなく、新たなニーズが発生することもあります。3密にならずに楽しめる方法の提供、自宅にいながら享受できるサービス、遠隔でも人とつながれる仕組み、などは必要性が高まっています。それに伴って、物を運ぶニーズや通信のニーズも高くなっています。ニーズを捉えようとしている会社は、うまく発想を転換して対応を実際に始めています。

ニューノーマル、アフターコロナ、などと呼ぶ向きもあるようですが、事後がどうなるかというよりも、これまでとはまったく異なるやり方や考え方をしなければならない可能性に注目すべきではないでしょうか。意識をシフトし必要な物事を整えるには、前記のように時間も労力もかかります。差し迫ってから考え始めるのでは遅いことを学び、「そなえ」はもう始めなければならないだろうと思います。

こんなときこそBCP(事業継続計画)

新型コロナウイルスによる影響が広がり、収まる気配がまだありません。先が見えない中で、社会全体が活動を縮小する流れになっています。

各企業は、当面この事態が続く、またはさらに悪くなることを念頭に、事業活動を考えていかなければならない状況でしょう。ひとまずは目先のことに考えが行ってしまうのは避けられないかもしれませんが、ここで考えたいのが「事業継続計画(BCP)」のことです。

BCPは、天変地異など不測の事態が発生した場合に、事業をどのような体制にシフトして継続を図るかをまとめた計画です。東日本大震災の直後には相当にクローズアップされましたし、昨年までに頻発した水害の際にも注目されました。災害のたびにBCPの重要性が問われています。

少なくとも日本企業の間では、BCPというと、地震や台風への備えというイメージで捉えている向きが多いのではないかと、個人的には感じています。しかしながら、BCPの想定には元から、パンデミックも含まれています。直近のパンデミックとして思い出されるSARSの蔓延の際は、日本国内では今回ほどの大騒ぎにまではならなかったと記憶していますが、そのせいもあるのか、多くの人々にはあまり実感が持てないケースだったかもしれません。

実は今回の騒動が発生するより前に、関係するある場でBCPが話題になったことがありました。その際にわたしがパンデミックのことを指摘すると、実感がわかない様子でポカンとしている関係者が多かったのを思い出します。なかには「ひねくれた指摘を」と思った人もいたかもしれません。

パンデミックが他の災害と異なることのひとつは、局所性が小さい、つまり場所を問わないという特性でしょう。地震や台風は、直接の被害地域とそうでない地域に分かれますが、パンデミックではそれがほとんど期待できません。つまり、東と西で「冗長」を取っていれば対策できるというものではありません。すべての人が万遍なく影響を受けてしまいます。そのことは、今回の経験を通して多くの人々の記憶に残るでしょう。

BCPを考慮するうえで大事になることは、「問答無用ですべて止まるとしたとき、どうするか」を考えることだと言われます。今回、人の動き、モノの動き、関係各所の動き、経済の動き、あらゆる事業活動の動きがそれこそ問答無用で縮小しました。一方では、それによる新たなニーズも発生しました。そうした経験を通して、改めて自社のBCPを考え直し、明確な計画がないのなら検討し、自社のビジネスシステムのあり方を問い直してはいかがでしょうか。

ところで、世間では今回の騒動をきっかけにテレワークが話題になっていますが、「BCP=テレワーク」では必ずしもありません。この緊急事態下においては選択の余地はほぼないのは間違いありません。ただし、ソリューションありきの考え方は、平時・有事に関わらず、いかなる状況でもやめるべきです。社内に混乱を招きます。先に考えるべきなのは、自社のビジネスシステムのあり方でしょう。

テレワークに関して言えば、本来なら技術の導入と同時に、勤務体系や現場での仕事の管理、メンバー間での情報のやり取りや責任者の承認、勤務評価の仕方、発生する費用の負担の考え方など、多くの面で業務の仕組みを大幅に見直す必要が出てきます。従業員の負担やパフォーマンスも、在宅時の環境によっては大きく変わります。

オフィス勤務では想定しないような仕組みに組み立てなおして、自社のビジネスシステムがより機能性や柔軟性、成果創出能力などが向上するということなのか。そうした判断をするというのが、テレワークを考えるうえでの本来の筋だと考えます。今回、問題なくテレワークに移行できている企業は、平時からその準備ができていた企業です。

もちろん、有事であっても仕事を止めないためにテレワークが必要だ、という判断はあり得ます。そうであるなら、上記のように業務の仕組みをテレワークが馴染む形で的確に組みなおし、平時から常に運用するという覚悟を含めて判断すべきところです。

今回得られている教訓、またこれまでの自然災害から得られた教訓を振り返りながら、目先だけでなくあるべき姿も含めて、自社のビジネスの仕組みを考え直す契機にされることをお勧めしたいと思います。安心したいなら、他社より早く自らで考え備えることで勝ち取ってください。

情報セキュリティの責任を負うのは、誰か

最近も、防衛産業を担う複数の大手企業で、情報漏えいの可能性がある不正アクセスがあったことが公表されました。それらの企業のなかには、防衛産業を担うと同時に、情報セキュリティに関連したソリューションも販売しているところがあります。いわば、情報セキュリティ対策の面ではトップクラスの組織であったはずです。そうした企業でも不正アクセスにもろさがあるという現実を、再び突き付けられたと感じます。

つまり、「攻撃されれば成功されてしまう確率は高い」という前提で、モノを考える必要があります。

そんな中で、気になる記事を見かけました。米国と英国での調査だということですが、企業のCISO(最高情報セキュリティ責任者)は強いストレスにさらされ、休日でも気持ちが休まらず、結果として健康を害する人も少なくなく、平均在任期間は26カ月だった、という内容です。

記事では、CISOの仕事の現実を、次のように表現しています。

(記事からの引用)
現在のCISOの仕事は、低予算で、労働時間は長く、経営陣に対する発言力も小さく、雇用できる訓練された専門家は減る一方で、しかもサイバー攻撃に対抗できるインフラを十分に整えられないストレスに恒常的に晒され、常に新たな脅威のプレッシャーを受けている。そして、よい仕事をしても褒められることがない一方で、何かが起これば全責任を負わされるという過酷なものだ。

日本の中堅中小企業で、CISOを置いているところは、ほとんどないだろうと推察します。ということは、上記のような役割を担うのは社長自身であると言えます。その場合、平時は上記のような窮屈さもストレスもプレッシャーも感じないでしょうが、いざ情報セキュリティに関する問題が明るみに出れば、途端に「全責任を負わされる」という状況になるでしょう。

だからといって、「では責任を負ってもらえる専門人材を雇えばよい」という発想もまた、問題があるわけです。情報セキュリティの問題を、特定の責任者が全責任を負う問題に帰結させるべきではありません。わたしは2014年に、ベネッセコーポレーションで大規模な個人情報漏えい事件が発覚した際に、この点について当コラムで指摘をしました。同社でもこの事件の際、当時のCIOが責任を取って辞任しています。

先に申しあげたとおり、「攻撃されれば成功されてしまう確率は高い、という前提で、モノを考える必要がある」のです。どんなに実績がある優秀な情報セキュリティ人材を採用しようが、これは同じです。

情報セキュリティ対策を整備するなら、その体制や各種の具体策は、社長以下「組織」の総意で立案し合意するように検討を推進するべきだろうと思います。

具体的な対策を立案するにあたって、それをリードする専門人材は必要でしょう。ただし、立案する対策に責任を持つのはあくまで組織であって特定の責任者に帰属させない、例えば委員会組織をつくってそこで議論と承認を行い、責任は委員会組織で持つようにする、という体制にするべきです。そしてそれを明確に社内に示し、関係者には無用なストレスを感じることなく従事してもらいます。

一方で、「攻撃されれば成功されてしまう確率は高い、という前提で、モノを考える」とすれば、どのレベルまで対策を高度に整備すれば必要十分なのか、も課題になりやすいかもしれません。

この点についてわたしは、その会社なりに徹底的に考えたことが対外的に説明できるならそれで十分、と考えます。何らかの攻撃をされ、何らかのリスクが現実のものとなり、対外的に公表や謝罪をする必要が発生した時、会社は説明責任を求められます。このときに対策の努力を認めてもらえるだけの説明ができるかどうか、という判断基準です。

事故が起こった以上は、批判は免れないでしょう。しかしその際に、「無策で穴だらけだった」と思われるか、「できることはすべてやっていたが不十分な点があった」と思われるかでは、雲泥の差があります。また、考え抜かれた対策がすでにあるのなら、その問題点を認識して補う行動もしやすいものです。逆に、たいして考え抜かれていないなら、有事の際に素早い対応はできず、傷口はさらに広がります。

大事故になればなるほど、社会的な影響が大きな事故であるほど、CISOがいようがいまいが、説明責任は社長自身が果たさなければなりません。それは、過去の大企業での情報セキュリティ事故における、記者会見の報道などを見てもわかることでしょう。そのとき、言いよどむことのない説明を行うことができるのか。経営者の方々には、このような視点で自社の情報セキュリティの体制と対策を、見つめていただければと思います。