テレワークは「ニューノーマル」になるのか

新型コロナウイルスの蔓延によって社会が停滞と不自由を余儀なくされるなか、新しい考え方が台頭する動きがあります。それらを「ニューノーマル」と呼んでいるマスコミや識者も見られます。テレワークもまた、新しい働き方としてそこに含まれているようです。

テレワークは「ニューノーマル」として、新型コロナ後の社会の前提になるのでしょうか。わたし個人は、遠隔勤務はひとつのオプションとして、多くの企業で抵抗なく使われるようにはなると思います。ただしいわゆる「ノーマル」になる、つまり第一義的な位置づけで遠隔勤務するようになるには、想像を絶するほどの社会変容が必要だと考えています。紙をデジタルにすればよい、というレベルではありません。

一般的な企業がテレワークを前提とした労働体制にするには、従来から前提としてきた働き方が「壁」となるため、それらを突破しない限り「ノーマル」にはならないと考えられます。

大きな「壁」のひとつが、「時間を基にした労働管理と給与体系」です。既に明らかなとおり、テレワークでは厳密な時間管理はできません。自由に行動できる環境に社員がいる以上、行動を業務のみに拘束することは事実上不可能です。時間外労働を正確に測定するのも、実務上困難です。にもかかわらず労働を時間で管理しようとすればするほど、社員の行動監視を行うことになります。意識のないやり方をすれば、必ずやハラスメントやプライバシーの侵害という問題に直面します。

時間での管理に無理があるのなら、では何で管理するのか。成果での管理となります。ここに、大きなマインドシフトの「壁」があります。「成果」とは何なのか。

この壁の突破は不可能ではありませんが、仕組みを具体的にデザインできる人材が多くの企業にはいません。結果、ほとんどの企業には、この問題が究極の難題に見えるでしょう。

さらに別の「壁」は、「チームでの協働作業による労働生産」です。従来、多くの企業では複数の社員がチームを形成し、協働作業によって労働成果を生み出してきました。特に日本の企業は、チームの協調を伝統的に重視します。ところが、これもまた多くの人が理解済みと思いますが、テレワークは協働作業には向いていません。

テレワークに関しては多くの実態調査が行われています。煽るマスコミをよそに結果を冷静に観察すると、管理職・部下ともにコミュニケーションストレスを増やしていることが見て取れます。あのGoogleやFacebookでさえ、テレワークになるとしても社員の半数程度までだとし、オフィスの拡張計画を継続して進めているそうです。

意思疎通の問題点を技術で克服しようとする向きもありますが、日本人が言うところの「協調」というのは、「阿吽の呼吸」「以心伝心」、そうした無意識なレベルで機能するような話です。アバターがどれほど進化しても、少なくとも近い将来に、技術でこれらと同等の意思疎通を実現するのは困難だろうと、わたしは考えています。

こうした欠点を飲み込んででもテレワークをノーマルとするのなら、チームワークで成果を出すのは諦める業務設計をしなければなりません。つまり、事業を細かく因数分解のうえ、小さい単位で完結する独立した業務にする。独立した業務とは、他人の助けが不要か、何らかの情報をもらえるだけで完了できるか、いずれかの形で処理ができるという意味です。そのような業務を、個人に割り振る。

こうすれば、テレワークでも業務遂行が可能になります。実はこれが実現すると、先ほど挙げた「成果での管理」も可能になります。究極の難題も克服できるわけです。

しかしこの業務分解は、一部の業種(すぐに思いつくところでは、理容美容など専門技術を持った人員が単独で遂行する業種)ではすんなり実現可能ですが、ほとんどの場合ではやはり「業務設計」が難題になるでしょう。また仮に業務設計ができたとして、それによって生まれる相当な数の小業務を、漏れなく管理できるマネジャーが必要、という問題も出てきます。

ここまで2つの壁と、それらをどう突破できるか、という話をしましたが、これはつまり何を意味するかというと、職種を問わずに「裁量労働制を採用する」ということなのです。テレワークと裁量労働制、直観的にフィットするように思えます。しかしあらゆる職種で裁量労働制を適用するというのは、現行の法律では認められていません。

つまり、テレワークを本当にノーマルにするのなら、法律の全面改正も必要になるわけです。これもまた大きな「壁」です。先にホワイトカラーエグゼンプションの是非について国会で激しく対立があった経緯から見ても、法律を変えてでもテレワークをノーマルにするエネルギーがこの国にあるとは考えにくいところです。

3密の回避、非接触の推奨、などをきっかけに、あらゆる業種でデジタルによる自動化・省人化はさらに進むでしょう。一方で働き方の面では、新型コロナの問題が終息するにつれ、大部分のビジネスパーソンはオフィスや現場に戻っていくだろう、とわたしは想像しています。

ただし、それを覆してテレワークがニューノーマルになるだけの社会変容がもし起こるなら、誰もが想像しなかったような「マイクロサービスによる企業社会」がそこに待っていると思います。

もう始まっている「そなえよつねに」

子どものころ、地域のボーイスカウトの団体に所属していました。「そなえよつねに」は、ボーイスカウトのモットーとして知られる言葉です。「いつなん時、いかなる場所で、いかなることが起こった場合でも善処ができるように、常々準備を怠ることなかれ」という意味だと教えられます。子供ですと難しいことはよくわかりませんが、活動のなかで常に言われますし、歌を歌ったりもしますので、子供でもなんとなく覚えてしまうものです。

そうして、今でも思い出すわけです。特に今のような有事の際に。少しネットで検索してみたら、この標語を題材にブログを書いている人たちをたくさん見つけることができました。

大震災も豪雨災害も金融危機も複数回あったのに備えていなかった企業は、いま必死な思いで危機に対応していることだろうと思います。そうであるとしたら、その企業の経営者は、どれほど事前に備えを実行していたかを大いに反省しなければなりません。

テレワークひとつとっても、備えていた企業は円滑に移行し業務を継続できています。備えていた企業はおよそデジタル化に対する意識が高い企業であり、それなりに時間と労力をかけて「備えてきた」と言ったほうが適切かもしれません。本来そうした取り組みであるものを、危機になったので今すぐどうにかしようというのは、所詮無理がある話なのです。

資金繰りもまた同様です。備えていた企業は、いつ何時苦しむか知れないと考えて内部留保しようとし、これもまた時間と労力をかけて行います。例えば、仕事が一切入らなくなっても従業員に1年間は給与を払い続けられるだけの額を目標に内部留保しようとする中小企業がいます。「カネをくれないと休業できない」と発言する経営者を時々見かけますが、国や自治体に事態を招いた直接的な責任があるのではない限り、補助や補償を受ける側は、金融支援してもらうのが当たり前だと思ってはいけないと、わたしは考えます。

現在の医療現場の問題にも、思うところがあります。いま医療従事者の方々は、想像もつかないほどの作業負荷と高い感染リスクという状況下で業務をされていると聞きます。ただし、業務環境がそもそも労働集約的であることに関しては、随分前から誰もが知っていたことです。街のクリニックでさえ、窓口で整理券を取ってから診察になるまで1時間待たされるなど珍しくありません。

日本の医療は、街医者から大規模病院に至るまで全国一律の階層型組織です。その分、全国どの医院にかかってもほとんど同質の医療サービスが受けられるのが利点ですが、一方で組織は硬直化しやすいわけです。そうした組織ほど、トップ層の人々に改善の意識が強くなければ、課題は課題のまま根本的に解決できないのです。

この業界では以前から、草の根レベルの局地的な改善の取り組みしか話が聞かれません。最近の状況下においてオンライン診療、AIによる診断支援、PCR検査拡大の是非などの問題が取りざたされるにつけ、発言を聞いているとこの業界を主導する立場の人たちのアタマの固さがより浮き彫りになっているように感じられてなりません。そのしわ寄せは常に現場の人々と患者に行きます。

経営の話に戻しましょう。至らなかった点は反省するにしても、ではいま、当座をどうにかしのぐ方策を実行できた後、経営者の方々はこれから先について「そなえて」いるでしょうか。

新型コロナウイルスに関しては、まだわかっていないことが多くあります。ウイルスであれば抗体ができるはずのところを、新型コロナは再び陽性になる患者のケースが複数報告されています。理由は明確ではありません。特効薬がいつできるかもまだ不明です。どこかの時点でスッキリ解決はせず、どちら付かずの状態がしばらく継続するだろうと、容易に想像できます。

経済活動や人の動きも、元には戻らないかもしれません。この問題の発生前は顧客にとって価値だったものが、今後は価値ではなくなることもありえます。業務のしかた、サプライチェーン、取引先との関係、業界を取り巻く環境、世界の動き、様々なものが、元には戻らないかもしれません。人々が一斉に遊興に出かけるようにはならないかもしれませんし、海外からの旅行客もそれほど戻らないかもしれません。来年の今頃まで問題が長引けば、東京でのオリンピック・パラリンピックの開催もなくなるかもしれません。

悲観的なことばかりではなく、新たなニーズが発生することもあります。3密にならずに楽しめる方法の提供、自宅にいながら享受できるサービス、遠隔でも人とつながれる仕組み、などは必要性が高まっています。それに伴って、物を運ぶニーズや通信のニーズも高くなっています。ニーズを捉えようとしている会社は、うまく発想を転換して対応を実際に始めています。

ニューノーマル、アフターコロナ、などと呼ぶ向きもあるようですが、事後がどうなるかというよりも、これまでとはまったく異なるやり方や考え方をしなければならない可能性に注目すべきではないでしょうか。意識をシフトし必要な物事を整えるには、前記のように時間も労力もかかります。差し迫ってから考え始めるのでは遅いことを学び、「そなえ」はもう始めなければならないだろうと思います。

「しくみ」と「マニュアル」、全然ちがいます

わたしはよく、ビジネスのしくみをデザインすることの意義を強調するのですが、時として、仕組み化することとマニュアル化することを同一のものと捉えている方を見かけることがあります。

これらはまったく異質のものであるばかりか、危険な誤解とさえ感じます。

ビジネスのしくみは、単純化すると、「インプット」「プロセス」「アウトプット」のまとまりが、連鎖してつながっている構造をしています。

ビジネスのしくみをデザインすることとは、つまり、その事業を実行する一連の流れを要素に分解し、要素ごとにどのような「インプット」をもって「プロセス」を実行し、どのような「アウトプット」を出して終了するかを決め、その要素の連続をどのように組み合わせて、最終的な価値を創出するのか、を考えることです。

そのデザインを司るのは、その事業を全体俯瞰する立場にある経営者や事業責任者です。デザインにあたっては、要素を分解し、要素に対して「インプット」「アウトプット」を決めながら、「プロセス」にはその実行の目的を定義します。こうして決めた一連の要素の連鎖を、全体俯瞰しながら管理していくことで、出したい事業価値を生み出すしくみを確実にするのです。

全体俯瞰して事業をリードすることが重要なのは言うまでもありませんが、そうするには、事業の全体が見えるようにデザインしなければなりません。それもせずに、全体が見えている気になって采配を振るうリーダーの下では、危険な失敗を犯しかねません。

一方、現場の実務のうえでは、誰でも正確にまたは迅速に「プロセス」を実施するために、「プロセス」を手順化して整理しておくことがあります。これが、いわゆる「マニュアル化する」ということです。

このように、仕組み化することとマニュアル化することは、次元が異なる行為です。

マニュアル化が求められるケースは、現実には大いにあるでしょう。ただし、マニュアル化に関して留意すべきことがあります。例えば、マニュアルがあることによって従業員が思考停止しやすくなること、また、マニュアルから外れた行動をしたときの危険性を従業員が考えなくなること、などが挙げられます。

認識しておかなければならないのは、「プロセス」の目的に適う行動であって「アウトプット」を確かに出せるならば、「プロセス」のやり方は一つではない、ということです。技術の進化で変わるかもしれないし、時代の変化で替える必要が出るかもしれません。もっと良いやり方があるなら進化させなければならない、という発想を、常に現場が持っていることが重要です。そうでなければマニュアルは「考えない現場」を生むリスクがあります。

一方で、いくらその意識を持っていたとしても、一般に事業全体が見えていない現場の従業員によって、局所にしか適していない方向で進化させようとしてしまう問題が起こります。また別の問題として、マニュアルに従業員が慣れてしまうと、今度は「少しくらいは大丈夫だろう」と手間を省いたり手を抜いたりするケースが出てきます。始めは些細なことであっても、そのうちに、慣れがいつしか怠慢に変わり、失敗や事故につながるわけです。

事業に責任を持つ者が「プロセス」に目的を設定するのは、それらを抑止するためでもあります。

「プロセス」に目的が設定してあれば、もし従業員がマニュアルから外れた行動をしようとした時、目的に照らして自分の行動が正しいのか顧みる材料にもなります。これは逆に、「プロセス」を現場で変更したくなった場合にも言えることです。

「プロセス」に目的が設定されていないと、時間が経つにつれて、その作業を実施している意義が意識されなくなっていきます。信じがたいかもしれませんが、自分のビジネスであるにもかかわらず、「なんでこれ、やってるんだっけ?」と忘れるのです。

そこに例えばコスト削減のニーズが発生した場合、削ってはいけない領域まで削減対象として、事業責任者でさえそれに気づかないということが起こります。結果、現場にミス回避のしわ寄せが行き、人によるケアが余計に増え、それがクオリティの低下や事故につながる、というわけです。

このコラムでは「さわり」の話しかできませんが、ここではぜひ、全体俯瞰でデザインして価値創出を担保する「ビジネスのしくみ」と、現場レベルで仕事の実効性を担保すべく作る「マニュアル」は、まったく質が異なるものである、ということをご理解いただきたいと思います。

お客さまの話なのに半分くらいしか信用しない理由

わたしのような、業務分析を行うスキルを持つコンサルタントは、企業の支援に入る際に、その前段として「監査」と呼ばれる行為を行うことがあります。なにぶん言葉が威圧的ですので、お客さまに直接「監査します」と申し上げることはほぼありません。そう言わずに、そういう調査活動をしています。

これは、初めて関わる顧客について深く知るということが主目的ですが、この「深く知る」にはいろんな意味が含まれます。

例えば、訪問先の企業において経営者やリーダーの方々からお話をうかがいます。すると、出てくるのは9割がた「素晴らしく優秀な話」です。素晴らしい実績、優秀な人材、機動的な体制、クオリティの高い仕事、高度な技術、興味深い取り組み、獲得した褒賞資格認証、等々。

感心しながらお聞きしていますが、その時点では内心、話半分で聞いています。本当にすごいのかは、客観的に検証する必要があるためです。

見下すような気持ちは毛頭ないのですが、話を聞いただけでは、コンサルタントはまだ疑っているのです。これは個人的な性格の問題でもありません。一応、理由があります。次のエピソードを例に説明したいと思います。

ことしの2月、産業総合研究所(産総研)は、標的型攻撃により外部から不正アクセスを受けたことを明らかにしました。その後、去る7月にその詳細と対応方針をまとめた報告書を公表しています。

A4用紙50枚にわたるその報告書によれば、不正アクセスは昨年10月末から今年2月にかけて継続的に実行され、研究所管内のあらゆる業務システムに不正にアクセスをされたとのことです。犯人は、4カ月間かけて不正なログインを次々と成功させていったようです。

不正アクセスを許すに至った大きな要因としては、脆弱なパスワード設定をしていたアカウントの存在、サーバー設定の甘さ、などと結論付けています。

産総研といえば、著名なセキュリティ研究者が在籍するなど、国を代表する研究機関のひとつです。従前から、世間並み以上の情報セキュリティマネジメント体制がありました。CISO(最高情報セキュリティ責任者)もいて、委員会組織もあり、各部門にも情報セキュリティ責任者がいました。外部委託して運用監視もしていましたし、パスワード設定の所内規定もきちんとありました。

このインシデントが起こる前に、産総研の情報セキュリティ対策について(単に)話を聞けば、(専門家を含めて)ほとんどの人が「十分な体制だ」と評価したに違いありません。おそらくその気になれば、情報セキュリティ分野で国際的に価値が認められている「ISMS(ISO27001)」認証が取れるくらいのマネジメント体制だったと思われます。だからこそ、おそらく犯人の最大の目的であったであろう、機密情報の漏えいには至らなかったのでしょう。

しかしながら現実は、標的型攻撃には少なくとも4カ月間気づかず、気づいたきっかけは監視の結果ではなくまったくの偶然、不正を許した最大の要因は(報告書曰く)「キーボード配列をなぞっただけの安易な」パスワードやサーバー設定の甘さでした。

このエピソードから教訓として得られるのは、シゴトの仕組みというのは「実際に実行されて初めてその意味を成す」ということです。体制がある、ルールがある、機能がある、手順がある、だけでは不十分で、組織が完全に実行しなければ(または実行できないならば)、決めていることのすべてが無意味になりかねないのです。

産総研でも今回、その点に大きな反省を示しています。報告書には今後の対策が整理されていますが、その多くは管理体制の見直しと強化です。

わたしのようなコンサルタントが、話を聞いただけでは信じない理由が、ご理解いただけたでしょうか。話を聞いた後、それを裏付ける行動が実際に示されるかどうかを、必ず確認しに行きます。「監査」とは、かみ砕いて言い換えれば、「言っていることとやっていることが一致しているかを確認する」調査活動のことです。一致していない場合、そこに克服すべき問題があることが多いのです。

「ウチはそこそこイケてる」という認識は、だいたい甘い

自分の会社の実力について、一流とまでは思わないが少なくとも平均以上ではあるだろう、と思っている人は多いようです。

わたしは仕事柄、少なくない企業の業務の実態を観察していますので、拝見すればどの程度のレベルなのかは判断がつきますが、過去には「ウチはそれほどレベルが低いとは思っていない」とはっきりおっしゃる方もいました。

しかしながら、私見では多くの方々の自己評価はおおむね「甘い」と言わざるを得ません。世の中の会社の半分は「平均以下」であるという真理を、一度認識することが必要だと思います。

何らかの根拠をもって「ウチは十分イケている」とおっしゃるなら、問題はありません。もし根拠になるものを持ち合わせていないなら、ほかの会社の仕事ぶりを積極的に観察しに行くことをお勧めします。

経営者であれば、いろいろなツテをお持ちだろうと思います。訪問したいと思えば多くの機会があるでしょう。業種業態をえり好みせずに、多くの企業の業務をご覧になるとよいと思います。

会社訪問のほかにも、経営者がほかの会社を観察する方法はあるでしょう。自分が動きさえすれば、あらゆる機会において、ほかの会社の実力をうかがい知ることができるはずです。

たとえば、株主総会などもそうです。

株主総会では、その会社のトップが議長を務めて議事を進行していきますが、その会社の実力がうかがい知れるのは、質疑応答の時間です。多くの株主から、様々な関心ごとについて質問が投げかけられます。

その会社の実力が見えるのは、その受け答えです。質問の内容によって誰が回答者として登壇してくるか。想定問答に従って通り一遍の言葉をいわば「読上げ」しているだけなのか。的確な理解のもとにわかりやすい言葉で回答しているのか。厳しい質問にどう答えるか。議長は補足説明などにどう対応するか。

優れた企業は、延々と投資家の質問を受け続け、どの回答もレベルが高い。それに加えて議長が的確な補足をすると、トップの実力が高いことまで理解できます。

ある金融系の企業では、ブロックチェーンに関する質問を受けて、担当役員が回答した後、議長であるCEOが補足で、事業面と技術面から極めて的確な説明を行いました(もちろんカンペなどありません)。表面的な理解では決してできない説明をしたのは、すぐにわかりました。そういう受け答えを聞くと、この会社はしばらく問題ないなと納得するものです。

会社訪問に行ったとしても、ただ案内されたものを見て感心しておしまい、では何も見抜けません。その会社の業務について、またその会社を支える仕組みについて、どれだけ関心があるかが問われます。関心があれば、ほかの会社の実力、さらには自社の真の実力も、見えてくると思います。

「提供する価値を見直す」ことの先にあるもの

当社の支援ポリシーについて説明をする時、必ず強調することがあります。それは、「顧客に対する価値の提供を軸にしてビジネスを考える」ということです。自社を使ってもらいたい顧客は誰なのか、その顧客にどのように価値を感じてもらいたいのか。そして実際そういう業務になっているのか。ビジネスのしくみは価値提供のありかたで決まるし、そこに信念がないのでは競争力のあるしくみにはならない。こういうことを申し上げています。

そういう話をすると、既存事業に課題意識をもって話を聞いてくださっている経営者の中から、「それは考える必要がある」という反応をいただくことがあります。

お察しするに、自社のビジネスが提供する価値を問い直すという試みは、場合によっては現状の否定につながるかもしれない、という想像が浮かんでくるからなのかもしれません。自信があるのなら問い直しても何の問題もないはずですが、寝た子を起こすような怖さや混乱を感じる向きもあるのでしょう。

価値を見直すことで必ずしも現状が否定されるわけではありませんが、そのようなケースも実際に経験があります。ただし、それが起こったのは必然とも思えます。

そもそも競争力とは何でしょうか。端的には、ライバル企業が存在してもなお自社が選ばれる力のことです。競争障壁については経営学的にテクニカルに語られるものもありますが、結局のところ、何らかの理由によって顧客に選ばれる会社が強いと言われる、ということです。

ただし、すべての顧客に好まれる商品やサービスを生み出すことは不可能と言ってよいと思います。そうだとすれば、買ってもらいたい顧客は提供する側が「特定」しなければなりません。特定の人たちに向けて作り込まなければ、好きになってもらいにくいからです。価値の提供スタイルがはっきりしている会社は、顧客のペルソナが実に明快です。

一方で、求められるサービスを何でも提供しようとする会社があります。表向きは、顧客に応える充実したサービスを幅広く提供したいと考えての行動なのでしょうが、実は深層心理で、顧客を特定して絞ってしまうことを怖がっているのだと思います。

企業規模に比例して、投下できるリソースは決まります。資本力のある大企業ならいざ知らず、限定された能力であれば、何でもやりますと商品やサービスを展開して、そのすべてにおいて他社より優れたものにするのは無理があります。結果として、どの商品やサービスも他社並みかそれ以下になり、顧客はそれに価値を感じないのです。価値を感じなければ、顧客は買いません。

何でも提供しようとする企業ほど、価値を見なおすことに恐怖を感じることでしょう。しかし、見直しをかけたその先にあるものを見据えて敢えて火中の栗を拾うだけの価値は、十分にあると考えます。

そうして、会社が提供すべき価値のありかたを見直すことで競争力を高め、成長軌道に乗った事例は、いくらでもあります。というより、わたしはそれしか知りません。顧客に強く支持されている企業はみな「提供する価値」にこだわっているから、分析結果としてそのようにお伝えしているわけです。

最近も、こんな中小企業の事例を知りました。自社はどうありたいのかを見直し、苦労しながらその仕組みを構築して、ブームにも乗って売上は約6倍、今では会社訪問されるような会社になったそうです。

競争力とは価値提供のありかたで決まると、わたしは考えています。小難しい戦略の話の前にまずはそこにこだわり、顧客のことを徹底的に考え抜きましょう。

ビジネスのしくみがダメだとこうなる、格好の事例

日経ビジネスが、去る5月29日発行の特集で、ヤマト運輸のビジネスの実情について取材した記事を掲載しました。

タイトルは「ヤマトの誤算 本当に人手不足のせいなのか」。世間では、アマゾンをはじめとしたECビジネスの急速な拡大に応じてきた宅配業界の人手不足が深刻化したことで、同業界の企業の勤務環境が悪化した、という同情的な向きで報じられていました。日経ビジネスの記事は、こうした風潮が本当なのか考察しよう、という趣旨でした。

実はわたしは、再配達が問題になっているなどの話が出始めた段階から、「本当に人手不足のせいなのか」と考えていました。それだけに、これまでのマスコミの報道には違和感をもっていたので、日経ビジネスの同特集は大変興味深く拝見しました。

わたしの考えていたことは、単純なことです。大変僭越ですが、これは経営の方針選択の誤りだと考えていました。

いかなる事業でも、その目的の中心は「顧客に対する価値の提供」です。提供したい価値を具体的に据えたなら、その価値をいかにして顧客に体験してもらい、実際に価値を感じてもらうかをデザインします。それに合わせて、顧客から自然なかたちで利益を回収するしくみを織り込みます。

わたしはこれらの仕組みをそれぞれ、サービス・プレゼンテーションと利益ロジックと呼んでいますが、この2つは表裏一体で作り込むべき仕組みです。

これらがうまくデザインできている事業は、価値を評価してくれる顧客が増えれば増えるほど、利益を上げていくことになります。当然ですが、顧客が増加の一途をたどれば、それを受け入れる組織も規模を拡大させる必要があります。それもまた、デザインの一部(組織体制のデザイン)です。

ではヤマト運輸はどうでしょうか。同社の宅配便取扱個数は、ここ何十年もの間、右肩上がりで増加してきました。一方で、同社の営業利益は2005年頃から頭打ちになっています。

よく聞いてみると、アマゾンなどの大口顧客に対して割引を適用していたそうです。そもそも大口割引というのは、まとめて取り扱えば業務面で効率化できるから割引が可能という、利益ロジックのからくりがあります。例えば製造業なら、ある製品をまとめて発注してくれれば、生産ラインを切り替えずにまとめて製造できるから、作る側が楽できる、部材もまとめて購入できるからコストが下がる、だから価格を下げますよ、という話です。

では宅配便はどうか。ちょっと想像しただけでも、そのような業務ではないと思いつきます。小口業者なら、まとめて同じ配送先に出してくれれば効率化になるかもしれません。当然、ヤマトはそれに当てはまらないほどの大企業です。一定の取り扱い規模以上になると、荷物が増えただけ面倒が増えるシナリオにしかならないはずです。それなのに大口割引とは、まともなビジネスのしくみが成立するとは思えません。

わたしはこんなことを考えて、ビジネスのしくみが破たんしていることをほぼ確信していました。

業界の事情、競争環境など、わたしが知らないいろいろな内情はあるのだろうと推察します。しかし、いかなる理由があっても、ビジネスのしくみがまともでない状態では、独自の価値は提供できません。経営が追うべきは、シェアでも取扱数量でもなく、顧客への提供価値だと思います。そこから外れた途端、ビジネスのしくみが崩れ、事業が崩れるという事例になってしまったように、わたしは感じています。

顧客への提供価値を追おうとすれば、ビジネスのしかたに「譲れない一線」が生まれるものです。一方、売上・利益・シェアを追おうとすると、およそそのビジネスには偏りが生まれ、結果として疲弊する方向に進むものだと、わたしは考えています。業界トップでなく、価値を認めてくれるコアな顧客を追い求めようとするのは、経営として甘いでしょうか。

経営者が考える「ITの使いどころ」を疑う

IDC Japanが去る5月8日に発表した、経営層を対象にした調査の結果から、感じたことを述べたいと思います。

具体的な調査の内容は、ITを購入する側のユーザー企業の経営層と情報システム部門をそれぞれ対象にして、経営課題の共有やテクノロジーの活用に関する認識などを調べた、というものです。

これによれば、経営層が示した「最優先の経営課題」の上位3つは、「新規ビジネスの創出」「営業力の強化」「ビジネスモデル変革」で、特に「新規ビジネスの創出」が突出して高いという結果でした。一方で、経営層が「ITによって解決したい経営課題」はというと、「業務プロセスの改善/再構築」の突出が目立ち、以下「新規ビジネスの創出」「リアルタイム経営」とのことです。

データを見る限り、多くの経営層はITの使いどころとして「業務プロセスの改善」を発想しやすいが、それ以外の課題に対する期待度はそれほど高くはない、そしてそれは経営の優先課題と異なる、よってITに対する経営の期待は高くない、という傾向が読み取れます。

この傾向は長年にわたって指摘されてきたことですが、いまでもそれは変わらないことが示された、ということでしょうか。

しかしながら、これはよくわからない考え方です。

新規に企画するビジネス、強い営業、変革させたビジネスモデル。これらが、関心の高い経営上のお題目ということですが、これらはすべて、何によって成り立っているでしょうか?

まさしく、業務プロセスです。

新規に企画するビジネス、強い営業、変革させたビジネスモデル。これらはつまり、従来型ではない斬新な、または洗練さを増したビジネスのやり方を編み出す、ということであるはずです。それは、最終的には業務プロセスによって表現されます。

業務プロセスの改善がITでできると思うのであれば、こうした課題もすべて、ITをテコにして対応できるはずではないでしょうか。

ITを活用する、と言われると、多くの経営者のアタマには何となく「自動化」「効率化」というキーワードが浮かんでいるのではないかと推察されますが、自動化するにも効率化するにも、自動で効率的にコンピューターにやらせるためのロジックが必要です。これは人間が考えて授けてあげなければなりません。そのロジックは実際のところ業務プロセスの一部であって、それを人間からコンピューターに肩代わりさせるだけのことです。

業務プロセスの改善であっても、新規ビジネスの企画であっても、業務のやり方をデザインすることに変わりはないのです。

業務プロセスが美しくデザインできて、一方でITで何ができるのかを知る。そうして、合理的な組合せを発想できます。IT活用とは、そういうものです。

そう考えれば、業務プロセスが美しくデザインできるのなら、どんな経営課題であってもITのチカラで突破する発想はできるはずではないでしょうか。

ただし、実はこの「デザイン」が難しい。そういう認識をしている経営者であれば、おそらく上記の調査結果の傾向とは異なる回答をしたのではないか、と感じます。

一流の企業と「あいまい」

わたしは、企業が「ビジネスのしくみ」を構築し洗練化する取り組みを、当社が持つノウハウを駆使して支援しています。

こうした取り組みは、往々にして面倒な作業を伴うことが多いものです。時に、コンサルタントという存在に対して即効性のある処方箋だけを求める企業もあります。そうした対策が一時的には重要であることは否定しませんが、それしか要求しない企業と当社は、ほとんど水と油のような関係ですので、残念ながらご縁がありません。

「自分の会社の仕事は、自分たちがよくわかっている」と言う企業の関係者は、多くいらっしゃいます。しかしながら、わたしの個人的経験から申し上げれば、会社のビジネスのしくみをあぶりだそうと取り組んでいくにつれ、実はあいまいな基準のまま処理していたこと、なぜそのような処理をするのか理由をだれも知らなかったこと、ある人と別の人では実は基準が異なる判断をしていたこと等々、さまざまな「知らなかった」が浮かび上がってくるものです。

そして実は、ビジネス上の問題が発生する要因の多くは、こうした奥底に隠れた「あいまい」な部分にあることが多いものです。

見かたを変えて言えば、ビジネス上の問題が発生した場合、表面的な手続きや担当者の問題を追うだけでは、本質をつかめない可能性が高いということにもなります。問題というものは、なんらかのメカニズムに基づいて発生しています。ビジネスのしくみに切り込み、業務構造のすべてを大局的かつ詳細に把握できない限り、問題要因の構造は見えてこないものなのです。

最近、VW社による排ガス試験の不正問題が大きく報道されています。この要因について、ただ表面だけを見れば、不正なソフトウェアを導入した担当部門と、その管理責任者がクローズアップされるだけでしょう。

おそらく問題の本質は、もっと奥深く、幅広い部分にあるのかもしれません。本気で是正しようと取り組むなら、その企業のビジネスのしくみがそもそもどうだったのか、という問題に及んでいかなければなりません。本質に迫らなければ、似たような問題が別の形でまた起こってしまうでしょう。

どんな分野においても、一流と呼ばれる人や組織は、所作が洗練されています。その所作についてなぜそうなのかと質問すると、どんなことを問いかけても明確な回答が即座にかえってくるものです。考え尽くされた動きには、あいまいさがないのです。

一流が常に根拠を求めるのは、人間とは弱い存在であるということをよく認識しているからではないかと思います。根拠のないあいまいさは、甘えを生みます。その場の気分に流され、「このくらい別にいいだろう」「なんとかなるだろう」という甘えが生じるのは、常に根拠が希薄な部分です。だからこそ、一流は所作に根拠を求め、根拠を基に自らを制約するルールを課し、それを厳格に守るのだろうと思います。

どんなビジネスにおいても、顧客は二流や三流ではなく、一流のものを購入したいと思うはずです。面倒がらずにビジネスのしくみを磨くことで、どんな企業にも一流を目指していただきたいものです。

東芝の不正会計問題に見る、「まともな目標設定」

世界にも名が知れ渡り、過去に経団連会長を何名も輩出してきた名門ともいえる東芝で発覚した不正会計問題は、世間に大きな衝撃を与えました。

企業ガバナンスや証券業界などの有識者の間では、同社の経営に対して相当に手厳しい批判が出ているようです。同社の体制の立て直しには、今後相当なコミットメント、労力、時間がかかるでしょう。

専門的な意見は他に譲るとして、今回はわたしが気になった同社の「チャレンジ」について述べたいと思います。

同社では「チャレンジ」と称する目標設定制度があったと報じられています。これが、利益目標必達の職場環境形成のきっかけとなり、結果として現場での会計数値の操作につながったとの指摘があります。

この制度に関して(当時の)社長は会見で、「目標を立てること自体に問題があるとは思わない、むしろ良いことだ」という趣旨の発言をしていました。

わたしには、この発言が大変気になりました。

目標を設定する意味は、到達点を明確にし、そこを見据えて適切な行動を進めることにある、というのがわたしの考えです。つまり、ゴール設定するだけでなく、そこに至るルートもまた、デザインする必要があります。この2つのことは、目標設定という活動の中ではセットで考えるべきことです。

簡単にクリアできる目標なら、ルート設定は不要でしょう。プレイヤーの感覚か感性のようなものだけで到達できてしまうだろうと思います。しかし通常、目標はそう簡単には達成できません。クリアすることが難しい目標ほど、その途中のルートをデザインし、中間指標を設けてモニタを行い、行動しながらルートのデザインが正しかったのか検証を行い、間違っていれば修正する。こうした取り組みを繰り返すことが要求されます。

論理的な視点、時には科学的な視点までも取り入れてこのような活動をするから、困難な目標をクリアできるのです。目標に到達できない人に向かって「根性が足りない」「気合を入れろ」「もっとがんばれ」などと言ったところで、達成は覚束ないのです。

つまり、単に目標だけを設定し、それをどのような行動によって実行するかは考えないとしたら、目標設定の意味はほとんどありません。

もし同社が、まともな目標設定を行う環境を整えて「チャレンジ」と称していたのなら、目標に到達するのが困難と分かった時点で、プロセスのどこが問題なのかを謙虚に検証するはずです。言うまでもありませんが、担当者個人の責任論に終始することなどありえません。

そうした組織風土があるのなら、「目標を設定することに何の問題があるのか」といったような、制度設計に対する反省の色のない発言は出ないのではないか。わたしはそのように考えました。

たびたび申し上げることですが、「経営者のシゴトはしくみづくりである」とわたしは考えています。目標だけを下達し、その方法には一切関心を示さず、達成できなければ一方的に批判するようなリーダーは、無責任であるとさえ思います。

もし今回の件で、利益だけを目標として部下に投げかけ、そのためのプロセスをどうするかは関知せず、それは部下の仕事であるから自分で考えろとしていたのであれば、この問題は起こるべくして起こってしまったのかもしれません。