東芝の不正会計問題に見る、「まともな目標設定」

世界にも名が知れ渡り、過去に経団連会長を何名も輩出してきた名門ともいえる東芝で発覚した不正会計問題は、世間に大きな衝撃を与えました。

企業ガバナンスや証券業界などの有識者の間では、同社の経営に対して相当に手厳しい批判が出ているようです。同社の体制の立て直しには、今後相当なコミットメント、労力、時間がかかるでしょう。

専門的な意見は他に譲るとして、今回はわたしが気になった同社の「チャレンジ」について述べたいと思います。

同社では「チャレンジ」と称する目標設定制度があったと報じられています。これが、利益目標必達の職場環境形成のきっかけとなり、結果として現場での会計数値の操作につながったとの指摘があります。

この制度に関して(当時の)社長は会見で、「目標を立てること自体に問題があるとは思わない、むしろ良いことだ」という趣旨の発言をしていました。

わたしには、この発言が大変気になりました。

目標を設定する意味は、到達点を明確にし、そこを見据えて適切な行動を進めることにある、というのがわたしの考えです。つまり、ゴール設定するだけでなく、そこに至るルートもまた、デザインする必要があります。この2つのことは、目標設定という活動の中ではセットで考えるべきことです。

簡単にクリアできる目標なら、ルート設定は不要でしょう。プレイヤーの感覚か感性のようなものだけで到達できてしまうだろうと思います。しかし通常、目標はそう簡単には達成できません。クリアすることが難しい目標ほど、その途中のルートをデザインし、中間指標を設けてモニタを行い、行動しながらルートのデザインが正しかったのか検証を行い、間違っていれば修正する。こうした取り組みを繰り返すことが要求されます。

論理的な視点、時には科学的な視点までも取り入れてこのような活動をするから、困難な目標をクリアできるのです。目標に到達できない人に向かって「根性が足りない」「気合を入れろ」「もっとがんばれ」などと言ったところで、達成は覚束ないのです。

つまり、単に目標だけを設定し、それをどのような行動によって実行するかは考えないとしたら、目標設定の意味はほとんどありません。

もし同社が、まともな目標設定を行う環境を整えて「チャレンジ」と称していたのなら、目標に到達するのが困難と分かった時点で、プロセスのどこが問題なのかを謙虚に検証するはずです。言うまでもありませんが、担当者個人の責任論に終始することなどありえません。

そうした組織風土があるのなら、「目標を設定することに何の問題があるのか」といったような、制度設計に対する反省の色のない発言は出ないのではないか。わたしはそのように考えました。

たびたび申し上げることですが、「経営者のシゴトはしくみづくりである」とわたしは考えています。目標だけを下達し、その方法には一切関心を示さず、達成できなければ一方的に批判するようなリーダーは、無責任であるとさえ思います。

もし今回の件で、利益だけを目標として部下に投げかけ、そのためのプロセスをどうするかは関知せず、それは部下の仕事であるから自分で考えろとしていたのであれば、この問題は起こるべくして起こってしまったのかもしれません。