クラウドでサービスをつくり込む企業の「責任感」

あまり目立っていないように思えてならないのですが、ここ最近、AWS、Azure、Google Cloudと、いわゆるメガクラウド事業者で相次いで大規模障害が発生しています。

それに伴って、例えば気象庁のホームページが閲覧不可となったり、仮想通貨を取り扱うコインチェックではサービスが全面停止したりなど、多方面での影響が発生しました。

その中で、いわゆる「スマートホーム」の機能を担うデバイスにも、様々な影響が出たという話もあります。例えば、家電の操作をスマート化するデバイスです。エアコンや照明の電源を外出先から操作できたりします。こうしたデバイスを扱うサービスも、パブリッククラウドサービスを基盤にして機能を実装しているケースがかなり多いと見られます。

その場合にクラウドが障害になってスマートデバイスが機能しなくなると、利用者はどうなるか。容易に想像できますが、スマートデバイスに依存した生活をしていれば、オンオフや開け閉めといった操作は一切利かなくなります。かわりに手動で対応できればよいですが、リモコンがないと操作が事実上できないという家電も、最近は少なくありません。スマホでの操作に依存しきっていてリモコンがもはや手元にない、またはそもそもスマホからの操作しか想定されていない、などの場合は、結構つらい状況になることがありえます。

例えば、スマートロックだとどうなるでしょうか。家のカギをスマホで開閉錠できるようになるデバイスです。完全にこれに依存し、物理的な鍵をもう持ち歩いていない人が、外出中にクラウド障害に見舞われてデバイスが機能しなくなったら、家には入れなくなるかもしれません。

高齢者や障がい者が、生活に欠かせないツールとしてこれらのデバイスに頼っていた場合はどうでしょうか。機器などの切替操作などが身体的に困難なために音声認識でそれを実行するようなケースです。もし突然、音声認識が動作しなくなったりしたら、死活問題に陥るリスクもあるかもしれません。

わたしが気になっているのは、こうしたデバイスを供給しているサービス事業者が、どこまでクラウド障害によるサービス影響を「自分のこと」として捉えているだろうか、ということです。

パブリッククラウドを基盤に自社のサービスを構成した以上、クラウドが障害になれば、サービス事業者側ではなすすべはほとんど何もありません。ただ、障害復旧を待つのみです。ですから、「クラウド側が障害のため、復旧までお待ちください」とアナウンスするしかない、というのは正論です。しかし利用する顧客にしてみれば、サービス事業者からサービスを買っているのであって、クラウドを使っているつもりはありません。

クラウド側で何が起ころうとも、サービス事業者側ではコントロールすることはできません。ですから、クラウドが障害で止まるとしたら仕方がない、復旧が遅くてもあれだけの技術を持つすごい企業なのだからそういうものだと捉えるしかない、と考えるのは正論です。しかし、利用する顧客が見ているのはサービス事業者のほうであり、対応がまずくて信頼を失うのもサービス事業者のほうです。クラウド事業者ではありません。

スマートデバイスは、”現時点では” 社会基盤になるほどには普及しているとはいえず、仮に利用が全面的に止まったとしても、社会に大きな影響を与えるには至らないでしょう。サービス事業者の方針や態度が他力本願であったとしても、問題にはあまりならないと思います。

ただし、もし今後生活のスマート化が当前に組み込まれる社会が到来するとしたら、そのときサービス事業者は、より厳しく社会的な責任を問われることになります。そのときになってから、他者に左右されない基盤を自ら開発運用する能力を身につけようと思っても、時すでに遅しだろうと、わたしは想像します。

クラウドファーストだと言われているのに何を後ろ向きなことを、と言う論者もいるかもしれません。しかし、世間は通常、いかなる時でも一定以上のクオリティを要求し、不備を感じれば容赦なく批判します。通勤時間帯に通勤電車が全面ストップし、車内に「クラウド障害の影響で電車が発車できません。復旧までお待ちください。復旧の見込みは不明です。」などというアナウンスが流れたら、利用客はどう思うでしょう?少なくとも翌日のマスコミの記事の見出しは、鉄道会社を擁護するものにはならないと思います。

クラウドを使うのは、イージーです。使うほうがトクです。しかし一方で、牙を抜かれていないか。自らは何を重要な能力として保持し、なにを他者に依存するか。こうしたことは、経営者が考えるべきことです。技術分野だの専門知識だのは関係ありません。エンジニアは往々にして、イージーで見た目格好よさそうなほうを取ります。

その「カルチャー」、どれほど大事ですか?

先日読んだ複数の記事によると、残念ながらというべきかやはりというべきか、日本企業のDXの取り組みはかなり雲行きが怪しいものになっているとのことです。

経済産業省が昨年末に公開した「DXレポート2(中間取りまとめ)」によれば、国内223企業が自社のDX推進状況を自己診断した結果、2020年10月時点で9割以上が未着手や一部での実施にとどまっているとのこと。また、同じ結果を情報処理推進機構(IPA)が分析した結果では、部門横断で持続的にDXに向けた取り組みを実施している企業は全体のわずか8%と報告されました。

別の角度の報告として、日経BP 総合研究所 イノベーションICTラボによる独自調査「デジタル化実態調査2020年版(DXサーベイ2020年版)」では、DXプロジェクトに関する経営トップの姿勢を分析しました。その結果、「(経営トップはDXプロジェクトの)重要性を理解しているものの、現場任せ」が37.5%を占めたといいます。「重要性を理解し、DX戦略をリードしている」は13.7%しかいなかったとのことです。

リーダーの丸投げ体質が幅を利かせ、お題目だけで何も進まない、という、従来型の日本企業の典型像が想像できるような結果だと思います。バズワードくらいでは体質まで変わらない、という、当たり前の結果とも受け取れるかもしれません。

一般論として、平時のリーダーシップと有事のリーダーシップは、あるべき姿が異なると言われます。平時においては、民主的なボトムアップを尊重し、その環境を整え維持するリーダーシップのほうが有効です。一方で、変革を伴う有事においては、強いリーダーが場合によっては強権を発動してでも、ある一定の方向へ集団を導くリーダーシップでないと、組織を窮地から救うことは困難です。

有事というのは、なにもネガティブな危機だけを指すのではありません。社会の進展、業界環境の変化、競合の台頭、顧客の志向変容なども、対象になる企業にとっては有事です。デジタル社会もまた、従来型のビジネスのやり方では立ち行かないという点で、同じ文脈に当てはまります。

有事のリーダーシップの問題という側面では、最近の政府の新型コロナ対応にもその典型がうかがえるように、わたしは感じています。

昨年終わりごろからいわゆる第3波が到来し、各方面でこれまでにない切迫した状況に陥ったところであるのは、周知のとおりです。マスコミに煽られて多くの国民が政府の対応を批判し、内閣支持率が下がっていると聞きますが、そもそも第3波に至った最大の要因は、政府の無策や怠慢ではなく、感染に対する危機意識が大きく緩んだ国民が大勢いることにあります。そうした国民には、政府を批判する資格はありません。

これは、感染拡大の元凶と目される若者層だけではなく、投資してでも出勤の大幅制限を実行しない企業の経営者も同罪だと、わたしは考えます。わたしが現在関わる企業はすべて、出社や出張は厳しく制限し、勤務はおおよそ95%程度は遠隔です。緊急事態宣言後も変わらない通勤風景の映像を見るにつけ、驚きを禁じ得ません。

一方で、こうした危機的状況を目前にしてもなお「皆様のご協力をお願いします」としか呼び掛けず、どれだけの批判と抵抗に遭おうが私権の制限に踏み込んででも絶対に止める、という気迫が見えない政府にも、有事のリーダーシップとして問題があるとの指摘は免れないと、わたしは考えます。

国民も政府もどちらも、あるべき姿を捉えて、それに向かって「自身を変える」行動をしようという意識が十分ではない。そんな状況ではないでしょうか。なんだか企業のDXに対する態度と同じに見えてきます。DXもまた、企業のビジネスそのもの、これまでの常識、従来からの前提、そうしたものを変革する行動なのです。

とかく日本の企業ではリーダーシップが弱いか緩い組織が多いと、個人的にも感じることがあります。階層が深い組織ほどそうです。あるべき姿を提言すると、それに賛同しながら、「理想はそうだね」「うちのカルチャーではなかなか難しいんだよね」などという発言が返ってくることがあります。そうした反応は、リーダーシップを強力に取れる人物がその組織にいないことの現れであると、わたしは捉えています。何事も、変えるのは楽ではありません。リーダーシップの弱い組織で変革を進めるのは、それこそ「カルチャーに合わない」のです。

そのカルチャーを守るのと、顧客や社会にさらに大きな価値を提供して業績を挙げるのと、どちらが組織にとって大事なのか。カルチャーを守ったらこの先利益が上がるのか。そういう問題であるはずです。あるべき姿が自明なのであれば、自身を変える決断と行動は、まずリーダーが、経営者が、率先してとって範を示すべきではないでしょうか。有事であるほどに、気迫をもった行動が示されなければ、メンバーはついて来ないものです。

あなたの会社、「腹筋」ばかり鍛えていないか

身体を鍛えることが好きな経営者は多いようです。泳ぐ、走る、筋トレする。なかには、自宅の地下室に自分専用のジムを構えて、夜な夜な鍛えている方も見かけます。

筋トレに詳しい人に言わせれば、筋肉はおよそ、ペアで対になって連動しており、鍛えるなら両方鍛えなければよろしくないのだとか。例えば、二の腕は上腕二頭筋(いわゆる力こぶ)と上腕三頭筋(力こぶの裏側)がペアになっており、片方が収縮するときもう片方は伸長する。鍛えるなら両方やらないと、バランスが悪い。

身体の表側(おなか)と裏側(背中)も同様だそうです。鍛え上げられた肉体というとすぐに思い浮かぶのは、立派な大胸筋と割れた腹筋ではないでしょうか。目立つからといってそこばかり鍛えているのではまずいのだそうです。ある専門家がこんなことを言っていました。背中が曲がったままのお年寄りがいるが、なぜそうなるのか。

赤ちゃんの時はみんなハイハイをするように、人間の体は、背中の筋肉がないと四つん這いになってしまうようにできている。大人で背中の筋肉が弱ると、おなか側の筋肉によって前に曲がる力が働き続ける状態になる。そこに、老化による脊椎骨の骨粗しょうが加わると、ドーナツ形のパーツがブロックのように積み重なって形成されている脊椎骨が、少しずつつぶれてくる。やがて、脊柱そのものが曲がるように変形して定着する。そうなると、もう筋肉の力では戻せないのだそうです。

この、筋肉の裏表の関係の話を聞いて、わたしは「企業のビジネスシステムも同じだな」と考えました。

DXがバズワード化し、もはやDXを知らない経営者はいない状況の中、いまではITに強くなろうと熱心な経営者も増えてきているようです。なかには、米国や中国の展示会やカンファレンスに自ら出掛けていって見聞を深め、コネクションを得てこようとする方もいると聞きます(もちろんコロナ禍前の行動です)。

そのようにして自ら積極的に情報収集し、知見を拡げるのは重要です。ただしその時、アプリ、AI、クラウド、ロボット、ドローン、RPA、VR、AR、アジャイル、○○テック、そのような「流行りもの」ばかりが、気になってはいないでしょうか。

腹筋、ならぬ見目麗しの流行りのITにばかり目が行って、それこそがIT戦略だと考えるなら、それは違うと思います。

企業のビジネスシステムの背筋とは何か。わたしは「データ」であると考えます。

データ基盤の整備は、素人目には利益に直結するように見えず、その取り組みは地味で面白みがないうえ、とても面倒であることが多いものです。社歴が長く、その間にデータ構造に一切手を入れなかった企業ほど、データ基盤を整えようとすればいろんな意味で相当に苦労します。やりたくない、が本音でしょう。

しかし、どれほど「(見た感じ)先進的なIT」を導入しようとも、データが整っていない企業の取り組みはいつか必ずつまずいて、大きな困難に直面します。

ある企業の話を先日聞きました。その企業はベンダー出身の人物をIT責任者に採用し、その責任者の考えた通りに、モバイルアプリやアジャイル開発等々、「(見た感じ)先進的なIT」をどんどん取り入れているといいます。その結果、便利なアプリをいくつか開発し、顧客にも好評で、業務の効率も向上したそうです。ところが一方で、それらのアプリが参照する大本になっているデータは、その企業が昔から管理に使っているExcelファイルのままだといいます。

それは「ファイル」なのであって、「データベース」ではありません。いわば、背筋が弱いまま腹筋だけ鍛えているのが、この会社の実態と言えます。背筋が弱い会社はどうなるか。将来は、背中が曲がったお年寄りのような身動きに陥る会社になる、ということです。

この企業は近い将来、データで困ることになるだろうと、わたしは予想しています。実は、こんな感じの予想はかれこれ10年来のひそかな楽しみで、正答率もなかなかです。今回も当たるかどうかは、個人的な楽しみにしたいと思っています。

「新聞読んで知った」は、もうやめよう

オリンピック・パラリンピックの開催が東京で予定され、経済の面でも転換点になるかもしれない2020年になりました。

年頭にあたってさまざまに目指すところを思い描いている方も多いだろうと思いますが、僭越ながらわたしのほうからひとつ、経営者のみなさんにぜひ気にしてほしいことを述べさせてください。

それが、今月のコラムのタイトルです。

ITやデジタルのトレンドに関して、経営者の方々のアタマに何らかの「フラグ」が立つきっかけは、わたしが知る限りでは、ほぼ「新聞」であると理解しています。敢えてどことは申し上げませんが、新聞社までほぼ共通しています。

ほとんどの経営者が、○○新聞で記事を読んでから、社内の部下に「これ、うちではどうなんだ」と聞いています。

今年から、それはもうやめましょう、というご提案です。

実はITやデジタルに関して(おそらくほかの分野でも同じなのでしょうが)、メジャーな新聞に記事が載る時点では、その筋の人たちにとってその情報はすでに周知の事項です。もう少し踏み込んで言ってしまうと、「あー今頃その話が出てきたの」という感覚で見ています。

実際、多くの経営者がバイブルにしている○○新聞のIT関連記事は、その新聞社の傘下にある専門誌がすでに報じている内容を再編集して記事にしていることが、非常に多いのが実態です。そのため、すでに専門誌のほうを読んでいる人からすればなおさら、「記事使いまわしてるの?」という感じになるのです。

つまり、経営者の方々は先取りしているつもりかもしれませんが、実はまったく遅いということです。

考えてみれば当然のことかもしれません。そのデジタル技術についてすでに挑戦している組織があるから、すでにそれが顕著な傾向になっているから、大手の新聞がようやく取り上げるのですから。

ITの分野は、そのタイミングで考え始めているのでは、場合によっては周回以上の遅れになります。実行することについては早いのがよいとは限りませんが、考え始めることについては、早いほうが確実に有利です。

今年からは、新聞だけを「頼みの情報源」にするのはやめましょう。その代わり、社内の担当者に、専任のタスクとして情報収集をさせてください。情報収集した内容は経営者との間で頻繁に共有し、そのなかでトレンドや方法論をキャッチアップします。いわば、ミニ・シンクタンクです。

そのようにして、大衆が話題にする前に、社内ですでに話題になっているという状態を目指してください。

この取り組みがうまく軌道に乗れば、その会社の経営者は、○○新聞を見るにつけ、「もうそれは、検討を始めているよ」と反応するようになるでしょう。そんな会社を、ぜひ目指していただきたいと願っています。

 

事例で判断するのは、もうやめませんか

企業の方々と話をしていると、事例を求められることがよくあります。

なにか新しいことに取り組むにあたって、それを採用する前に関連する事例を知れば、実際に採用するとどんな効果があるのかが具体的に想像できるだろう、と考えて要望するのでしょう。

事例を知ることそのものは、悪いことではもちろんありません。ただし、これまで3400ほど企業のシステム事例を収集し分析してきた身からすれば、事例を知ることの目的を誤ってほしくないと考えているところです。

とかく日本の企業は、事例を知ることで第三者保証を得ようとしているように、わたしは感じています。採用に踏み切るにあたって、本当に効果があるのか確信が持てないし、社内を説得もできない。業者の説明だけでは、真に受けていいのか不安がある。そこに事例があれば、第三者が成功していることが裏付けられて、安心して採用ができる。こういう具合です。

わたしが考えるに、このような目的で事例を使うべきではありません。いつまでも他人や他社の後追いしかできない組織になるだろうと思います。

この説明のため、個人的には欧米と日本を比較して「日本は遅れている」とする世間の記事やコメントを嫌っているのですが、ここでは敢えてその比較をしてみましょう。

多くの面で、日本は欧米に対して大抵は後追いになっています。最近では中国の後まで追おうとしています。なぜそうなるのか。私見ですが、文化的にそれにつながる思考パターンが定着しているからではないかと感じています。

わたしの知る限りですが、米国などでは、人間関係において、自分から発言しない人や行動しない人は「いない人」と同じに扱われる傾向があります。無視されるわけではありません。「存在しない」として扱われます。しかし一方で、何らか発言や行動をし、良いパフォーマンスをすることを見せると、途端に仲間として認知してもらえます。それは時に、オーバーなくらいに大手を拡げて行われるような気がします。

日本ではどうか。人間関係において、自分から発言しない人や行動しない人は「従順な人」として扱われます。そこで何らか発言や行動をすると、期待される行動や雰囲気からそれが外れているほど、「お前などたいしたことない」と言わんばかりに上から乗っかって来られます。いわゆる「出る杭は打たれる」というものです。

ところが、関係者ではない他人、リスペクトに値する人物、マスコミなどによって、それにポジティブな評価が与えられると、この対応が一気に変わります。途端に評価され、意見が尊重されるようになります。

この違い、わたし個人は、オープンでフェアな判断軸があるのかないのかの違いではないか、と考えています。

米国の企業やビジネスパーソンを見ていると、どれだけ無名であろうが、よいものはよい、試してみよう、という判断をしているように感じます。逆に悪いとわかると、かなりドライに切り離し固執しません。時にそれは非情とも思えることがあります。いずれにせよ、よい・悪いを判断する軸が(よくも悪くも)はっきりしており、それに基づいて物事を見ているようです。

欧州などでも同様の傾向があると感じています。こと欧州は、ものごとのルールや基準を標準化することが得意です。日本にも欧州由来の多くの社会ルールが入ってきていることからもそれは窺えるでしょう。最近で言えば、個人情報保護にまつわるGDPR、国際会計標準のIFRSなどが思い浮かびます。

日本の企業を見ていると、善し悪しの判断は結局他人の意見(すなわち事例)で行っているように感じます。特に「みんなそうしている」「外国でやっている」には本当に弱い。同じ無名の人物でも、日本人だと信用しないのに、欧米人だと信用するという不思議なところがあります。そして、採用した後にダメだとわかっても、失敗と認めたくないのか愛着があるのかわかりませんが、一度行った判断に執着して継続する傾向があるように思います。

要するに、どのようであればよくて、どうだったら悪いのか、客観的な判断軸を持っていないのです。

判断軸が明確にあるのなら、事例は単なる「良き参考」でしかなく、採用の可否は、あくまで自らの判断軸に適っているかどうかに依るはずです。みんながやっていようが軸に合わなければ採用しないし、みんなやっていなくても軸に合っていれば採用する。シンプルです。

ことITの分野に関して言えば、不安であれば実際に試してみればよいでしょう。現在はクラウドが安価に利用できるなど、試してみたければいくらでも試せる環境が容易に手に入ります。止めたければすぐにやめられます。成功事例がなければ不安だと思う必要などないはずです。

他人、他国、他社の後追いで構わないし、そのほうが安全だ、リスクは負いたくない、というなら、止めはしません。しかし、顧客や有望な人材が積極的に選択する企業は、後追い専門の2番手以降の企業なのか。あの会社すごいねと評価される企業は、ポリシーがあいまいな企業なのか。一度考えてみてほしいと願っています。

「ベンダー丸投げ」と「経営丸投げ」

情報システム開発のお作法で忌み嫌われるもののひとつに、「ベンダー丸投げ」というものがあります。

これは端的に言えば、発注側がIT業者にシステム開発を委託するにあたって、自らは主体的に関与せず、開発方針や要求もあいまいな状態で、自身が本来すべき仕事でさえもIT業者に「丸投げ」してやらせることを意味します。その結果として出来上がる情報システムは、言わずもがなですが、発注側にとって満足のいかないものになります。質の悪い発注者ですと、その原因は自らにあるにもかかわらず、IT業者側の能力不足にしたがります。

わたしは今の仕事を始めるまでは、これはIT業界特有の話かと思っていました。しかし、多くの事例を見るにつけ、経営の分野でも似たようなことがあると知りました。

企業において、経営者は人を雇います。企業が成長し、組織力が必要になれば、人材が必要になることは必然です。経営者が人に任せるというのは、当前に行われる行為です。

ただし、人に任せる際に、任せようとする側に要求されることがあります。それは、任せる側が何を実現したいのかというポリシーの立案能力と、それを周囲が理解できるように伝える伝達力です。冒頭の「ベンダー丸投げ」においても、発注側に欠けている能力は、大きく分けてこの二つです。

経営者にも、丸投げするタイプがいます。自分では能力的に難しい分野のことを、自分の仕事ではないとして、担える人材を採用し、担当させます。もちろん、優秀な人材を採用して任せることに何の問題もありません。積極的にそうすべきです。ただし、自分はわからないからと言って何のポリシーも示さず、結果やプロセスのモニタリングもまともにしないとすれば、それは冒頭の「ベンダー丸投げ」と同質です。

ポリシーを打ち立て、それをうまく表現して伝える力は、経営者やリーダーにとって死活的に必要な能力だとわたしは考えます。これを疎かにしたまま、人を雇って担当させることを続けるとどうなるか。任された人は従うべき指針が曖昧なので、自分の考えを主体に物事を推進しますが、その人は大抵、ビジネスの全体を俯瞰して見られません。従って、組織は部分最適の道へ進んでいきます。

実は、部分最適な組織でも、優秀な人材を抱えられたなら、売上はそこそこ上がります。そのため、何の問題も感じない経営者も多いようです。ただしそういう企業は、経営者の潜在意識にあった売上目標に達したり、マスコミに取り上げられてチヤホヤされるにようなったあたりから、あまり伸びなくなります。そして、伸びていない理由が思い当りません。

一方、目標の基準を、自分が実現したい理想が顧客や社会に認められたのか、というようなことに置いている経営者は、そこそこ売り上げが上がったくらいでは満足しません。そういう経営者は、自分が実現したい商品やサービスが本当に提供できているかにこだわっているからです。どこまで行っても、改善の糸口を思いつきます。

またそういう経営者ほど、任せた他人がやっている仕事を、全体俯瞰の視点で厳しく見極めます。ただし、ブレない軸を持っているので、任されている側は、何をすれば高く評価され、何をしたら怒られるのか、わかりやすいのです。

そういう企業が築き上げるビジネスシステムは、他にはないものになります。

能力のある人材に頼るのはもっともなことです。ただし、際立つ企業のリーダーを見ていると、設けた柵の中で「放牧」はすれども「放任」はしていません。全体のうちのどの部分を切り離し、そこにどのような成果を求めるのか、任せる側がこれを意図的にデザインしないとすれば、やはりそれは、スジのとおった意志のない「丸投げ」なのです。

 

「データは客観的」のウソ

ビッグデータ、ビジネスインテリジェンス、人工知能(AI)と、ここのところデータ活用を軸にした話題に事欠きません。かつて “Data is the new oil.” と謳われ、データが持つ潜在価値と将来性がクローズアップされました。データを持つことは競争力の格差につながると考える企業は、その収集と集約に躍起になっているところです。

データのどこに価値があるのかと言えば、それは人間には見えないもの、感じ取れないものまで含めて、事象をデジタル化して記録するところにあるのでしょう。

事象によっては、すべてを捉えようとすればそのデータ量は膨大になることがあります。または、ものによっては一瞬で完了してしまうような事象もあります。膨大であっても高速であっても、データにすることで利用が容易なかたちで収めることができる。データが事象を説明しているので、観察や分析ができる。結果として、新しい知識の発見につながる。こういうことが価値となるのだろうと思います。

そのように考えると、事象を捉えたデータというのは、きわめて客観性が高いもののように思えてきます。私見では、多くの企業が「データは客観性が高く、正しい」という理解をしているのではないかと感じています。

しかしそれは、大いなる誤解です。データは、実際には「主観の産物」です。

データは、オイルと違って天然に存在する資源ではありません。データは、取得すべくして人間が設計するから、取得できるモノです。どのようにデータ化するかの設計は、人間の主観で行っています。そうである以上、得られるデータも、主観の域を脱することはありません。

例えば、「気温」はどうでしょう。気象庁が公式に各地の気温を発表しています。疑いようのない、正確なデータです。ところで気温はどのように計測されているかご存知でしょうか。日本の気象庁では、地表面から1.5mの高さで測定することが基準とされています。

この ”1.5m” というのは、人間の主観です。そもそも気温は、地表面から成層圏までスペクトル状に分布し、両端では大きく異なります。夏場において、ベビーカーに乗った幼児が感じる「気温」は、気象庁発表の「気温」よりもかなり高い、とはよく聞く話です。それでも気温を1.5mの高さで測定する「主観的」な判断に誰も文句を言わないのは、多くの人にとって生活実用上問題がないからにすぎません。

主観的に設計した結果としてデータが取れるのであって、設計しなかったデータはもちろん取れません。そういえば、もうすぐサッカーのW杯が始まりますが、サッカーにおいてはフォーメーションが重要だと言われます。選手をどのような配置でフィールドに並べ、局面に応じてどのような連動をさせるかが、勝敗に大きく影響するというわけです。

これが理解できているサッカー玄人の分析者なら、効果的な戦術を導こうとするとき、試合中のボールの動きだけでなく、ボールを持っていない選手の動きまでを含めてデータを取得し、分析しようとするでしょう。玄人にとっては何のことはない話です。

一方で、わたしのようなサッカーの素人だったらどうでしょうか。戦いかたを知らない素人に試合をさせると、往々にしてほぼ全員がボールに寄っていく動きをするものです。ボールにしか注目していないのです。そういう素人がサッカーの試合を分析しようとしたら、ボールを持った選手とボールの動きのデータしか取らないかもしれません。仮に玄人が取ったデータを利用して分析するとしても、素人は興味も関心もないので、ボールを持っていない選手の動きなど見ようともしないと思われます。この場合、ボールを持たない選手の動きに関する知見は、どんなに頑張って分析しても得られないでしょう。

こうしたことは、ビジネスの現場でも多数起こっているのではないかと推察します。つまり、設計時点で考えが及んでいないデータは、分析されないどころか存在さえできないということです。それは、データが「主観の産物」だからです。

別の観点でもうひとつ。データは取得が終わった時点で「過去のもの」になり、必ずしも「いま」の分析に有効ではないかもしれません。

例えば、顧客向けに満足度評価のアンケートを継続的に取っているとします。あるとき、アンケートの質問を改善したとします。そうすると、回答する顧客が質問に対して感じることが変わり、結果として回答の傾向に影響が出ます。

こうなると、前のバージョンのアンケートで取得してきたデータとは、単純比較できなくなります。アンケートを変えたいと思うということは、何らかの形で評価したいことが変わったということです。その時点で、蓄積してきたデータはもう使えなくなります。設計を主観的に行っている以上、その主観が変われば、取るデータの意味合いも変わり、どれだけの蓄積があろうとも過去のデータは無用になるのです。

このように、データは「主観の産物」です。あなたが想像できないものは見えません。森羅万象が取れることもありません。他人が取ったデータは、自分が欲しいデータではないかもしれません。自分でよく考えることなく単にかき集めているだけでは「使えるデータ」は手に入らないと認識することが、データ活用の始めの一歩になるのではないかと思います。

ベンダーへの要求でわかる、CIOのマインドセット

みなさんは、「ITベンダーにはこうあってほしい」ということに関して、自社のCIOが以下のように発言していたら、どのように感じるでしょうか。頼もしい人材がもっともなことを述べていると思われるでしょうか。

  • 我々がどこで苦労するかを先回りして知り、我々より先に課題を引き出す提案をしろ
  • 我々の業務の困りごとを解決するために一緒に考えろ
  • 経営視点での価値があるかどうかは、まずベンダーが説明しろ

このような趣旨で、世の中で著名とされる複数の企業のCIOが実際に発言をされているのを、何度も聞いたことがあります。

少ないながらもわたしが支援をした企業においては、このような発言が出ることはほぼありえません。

「我々の苦労を先回りして知ってほしい」という願望は、要するに顧客を理解する努力をしろということでしょう。業者がユーザー側を理解する努力をすることは、もちろん欠かせません。ただし、だからといってユーザー側が自分たちのことを伝える努力が不要になるわけではありません。

業者側がどれだけ努力したとしても、彼らは所詮外部の人間です。顧客の実情を部分的に理解するにすぎません。苦労している点や困りごとを包括的に把握し、それを整理することは、ユーザーにしかできない事柄です。

また、業務上の困りごとの解決手法を考えてほしいときに、ITベンダーに相談しているとすれば、相手を間違えています。相談すべきは、業務プロセスの専門家や業務改善のエキスパートでしょう。

ITベンダーは本来、技術の専門知識を磨く技術エキスパートという立場であるはずです。ITベンダーも最近では、顧客が上記のように要望することから様々な上流機能を兼ね備えようとしているようですが、わたしの知る限り、そうやって手を広げた領域において本当に実力が伴っている業者はほとんどありません。

でも、それでよいと思います。ITベンダーはそもそも、よろず相談が役割なのではありません。

ITソリューションに関する顧客側の経営価値をITベンダーが説明しろなどという考えは、わたしには理解できません。経営上の損得が最も分かっているのは、その会社の人間です。ソリューションが提供する商品価値をITベンダーが説明することはあるでしょう。しかしそれを採用するにあたって、それが自社のビジネスにもたらす価値を説明したり、価値創出のシナリオを描いたりするのは、外部の人間がやることではありません。

ところが現実では、ITベンダーが持ってきた提案書をそのまま経営会議用の資料に張り付けて説明する人が少なくないのが、残念ながら実態のようです。それどころか最近では、例えばクラウドの採用に向けて経営を説得するための説明の仕方を指南するセミナー(しかも経営向け説明資料のテンプレート付き)まで開催されているのですから驚きます。

おそらく、冒頭のような発言をするCIOには、ビジネスと情報システムの間に「業務のしくみ」というレイヤがある、という認識が希薄なのではないでしょうか。業務のしくみとは、その企業が経営上のミッションを達成する手法をプロセス・情報・組織などのかたちで具体化した総合体であり、自らで考え抜いて編み出すものです。そこで問題が出たとしたら、それを解決するのはほかならぬその企業の人間です。

そういう考えのもとにおいては、自分たちがやりたいことや問題の解決策が先にあり、それができるかできないかを外部の業者に相談するマインドセットになります。「ITベンダーはウチをよく理解して、いい提案を持ってこい」という発想は、ありえません。

どちらの考え方のほうが、自社の戦略に沿い、よりパフォーマンスと満足度の高いシステムを実現できるのか。そのご判断は経営者のみなさんに委ねます。

もう「プライベートクラウド」とは呼ぶな(後)

今回のコラムは、前回の続きです。一部で、前回に記した記号(①②③)を使っていますので、前回のコラムからお読みください。

 
わたしは、オンプレにこだわるユーザー企業が、そのような方針を採用する根底にある目的には、自社がシステムの全権をコントロールできるかどうかに対するこだわりがあるだろうと考えています。

つまり、オンプレであるなら、ひとたび障害が発生すれば徹底した原因究明を実行でき、いざとなればデータセンターに乗り込んでハードの入れ替えや電源オフ・オンまで実行できるということ。データの保護を、他社に左右されずに完全な自社裁量で実施できるということ。こうした力を持ちたいから、プライベートであることが有益になるわけです。

クラウド事業者側に(システムの一部またはすべての領域を)完全に委ねるパブリックと対角の位置にあるものとして、プライベートという概念が言われるようになりました。それは上記のような「コントロール」に関するユーザー側の意向があるからだと考えています。

ところが現状では、このことを完全に無視する格好で、「プライベートクラウド」が喧伝されてきているように感じられます。

(前回コラムの)①の場合なら、まだユーザーのコントロールは効くでしょう。②になると徐々に怪しくなっていきます。ベンダーによってはユーザーの裁量を考慮しているかもしれませんが、そうでないところも多分にあるかもしれません。

③に至っては、いざというときのコントロールはほぼ効かないと思うべきです。障害の際、問い合わせれば「原因はわかりません」と返ってきますし、自ら原因究明したくてもできません。ユーザー自身の都合ではないタイミングで、サーバーが一時停止したりもします。「システムを利用する」とは、システムに対する自らのコントロールを手放すということであり、それを納得のうえで、サービスを「使う」ことで得られる価値を求めて利用するのです。

「プライベートとは、あなたの会社だけの空間、という意味ですよ」というのが、クラウドベンダーの論理だろうと推察します。だから、仕切りだけを作って「プライベート」と称しています。表向き、何の違和感もありません。しかしそれは、当初の「プライベートクラウド」からは本質的に思想がずれているのです。にもかかわらず、いまでは何の疑問もなく「プライベートクラウド」と呼ばれるようになってしまった、というのが、個人的な実感です。

しかも、こうした状態のままで、調査会社の統計も取られています。世の中で発表されている「クラウドサービス利用状況」の統計の中には、ほぼ必ずプライベートクラウドも含まれています。しかし、この言葉が登場した当初の意味でプライベートクラウドを捉えた場合、企業は「プライベートクラウド」を「所有」しているのですから、それはその統計が対象外にすべきであろう「オンプレ」なのです。もしそれを調査に含めるのなら、「クラウドサービス」ではなく「仮想化基盤技術の採用状況」の調査とでもすべきでしょう。また③の形態なら、本質的にパブリッククラウドと分類すべきという考え方もできると思います。

「仮想化」と「クラウド」では、意味するところが厳密には異なります。しかしながら、「クラウドを採用する」というトピックにおいて多くの企業関係者が気にするのは、ほかの企業はどの程度、システムを「所有する」ことから「利用する」ことに切り替えたのか。ほかの企業はどの程度、システムを自分で持たずに他人に任せることにしたのか。またその領域は主要システムなのか周辺システムなのか。そういうことではないでしょうか。

それを判断しようとする時に上記のように意味があいまいな状態で「プライベートクラウド」を含めるのでは、重要なポイントを押さえて話が聞ける専門家でないかぎり、他者の話から本質を見極めることは難しいでしょう。すべてを一緒くたにして「みんなクラウドにしているよ」 「時代はクラウドファースト」などと言っているのが、最近のマスコミや業界関係者です。

わたし個人は、誰かが「プライベートクラウド」ということばを使うときは、相当斜めから話を聞くようになってしまっています。ただし、思いはいつも複雑です。

もう「プライベートクラウド」とは呼ぶな(前)

タイトルのようにわたしごときが申し上げたところで、多くの人々が呼ぶのをやめるとは到底思えませんので、システムを利用する側であるユーザー企業におかれては、この言葉を発している人物がどのような意味で使っているのかによくよく気を付けながら、話を聞くべきだろうと思います。

当社を創業する前から十数年以上に渡り、日常的にIT関連の情報を見続け、分析し続けてきていますが、これから述べることはわたし個人の理解と認識に基づくものであり、異論反論のある関係者の方々もおられるだろうことを予め申し添えておきます。

さて、冒頭のように申し上げている理由は、すでに「プライベートクラウド」ということばには、特に提供する側にとって都合がよい意味が、多分に含まれるようになっているからです。

プライベートクラウドという言葉が登場した当初は、少なくともわたしの理解においては、パブリッククラウドの対角にある存在としての意味が込められていました。

クラウドは、仮想化技術をベースにシステム化されています。すなわち、パブリックの対角にあるプライベートクラウドとは、「仮想化技術を活用してユーザー企業が自ら構築する、パブリッククラウドが提供するものと似たようなことが可能なシステム基盤」というものです。要するにこれは、これまでも実践されてきたいわゆるオンプレミスによるシステム構築と、何の変わりもありません。

ちなみに「オンプレミス(略してオンプレとも呼ばれます)」とは、ユーザー企業自前によるシステム基盤の整備運用を意味する言葉です。英語の “on premise”(直訳すれば「敷地内で」)という語から来ています。由来を知らない人がときどき「オンプロミス」などと誤用していますから注意が必要です。

パブリックかプライベートか、という考え方は、クラウドの概念が登場した当時から存在した「パブリックに自社のシステムやデータを丸ごと預けて大丈夫なのか」という懸念から生まれてきたと思われますが、サービス提供者側はこの懸念を払しょくするために、様々な施策を打ち始めます。

まず、あるベンダーは、これまでどおりデータセンターにユーザー企業が自社システムを構築するけれど、そのハードウェア資産はベンダーが持つことにして、ユーザーは利用量に応じた支払いをベンダーに行ってシステムを利用する、という仕組みを打ち出しました。それなら、「プライベート」でありながら資産管理はなくなるので楽になるでしょう、という論理です。この後の議論の便宜上、これを①としておきます。

また別のベンダーは、パブリックとは別に、ユーザーのために物理的に独立したシステム基盤のエリアをベンダー側に用意して、そこでそのユーザー専用のシステムを運用しようという仕組みをつくりました。ただし、運用業務そのものはパブリックとほぼ共通で行われます。これを②とします。

さらに別のベンダーは、パブリッククラウドの中に論理的にプライベートの空間を分割できる仕組みを用意し、そこでユーザー専用のシステムを構築できるようにしました。物理的には同じだが、ソフトウェアの制御によって、そのプライベート空間には部外者がアクセスすることができないようになっている、というものです。もちろん、ベンダーの運用業務そのものはパブリックと完全に同じです。これを③としましょう。

オンプレで構築するもの、それに加えて①②③と、簡単に列挙してみました。さらにいろいろな形態が他にもあるでしょうが、ここではやめておきます。

現状では、これらすべてが「プライベートクラウド」と呼ばれているのです。

それの何が問題なのか、と思われる向きもあるかもしれませんが、今回のコラムは書き始めたら長くなってしまいましたので、2回に分けて公開します。