ITを「ツール」にしている会社のザンネンな誤解

ここ最近は、中小規模の企業でも、ITを一切使っていないという企業に出会うことはほぼなくなりました。どの企業でも、何らかのソフトウェアやデジタル機器が使われています。

ただし、典型的な誤解のもとにITがうまく使えていない企業も、いまだ多いように感じられます。

例えば、バックオフィス周りは結構IT化しました、勤怠管理、会計処理、給与等々。でもその程度で、会社の中でITの存在感は特に大きくありません、というケース。

別の例で、ウチは結構ITは使っている、いろんなツールを入れて使ってきた、でもこれでいいのか、なんだかモヤモヤしながら使っているんだよね、というケース。

ITはずいぶんその適用範囲のすそ野が広がり、安価で手軽に使えるようになりました。それはとてもよいことなのですが、企業が自らの事業の強化のためにITを使おうとするのなら、素人考えでの使い方から脱しないと、なかなか「強化」するには至りません。

ITがうまく事業の強化につなげられていない会社というのは、ITが「便利なツール」程度にしかなっていません。

例えば、あるA社では、外回りしなければならない営業担当者が、会社に戻らないと客先に電話連絡できなかったところに、会社がひとり一台のスマホを支給したところ、出先からでも顧客に電話ができるようになった、という話をしているとします。

一方で、同様にスマホが営業担当者に支給されているB社では、客先に定期的に送っている情報は頃合いを自動的に見計らってメールで送信されるようにしていて、もしそれに反応があった場合には担当者に通知が自動でスマホに届くので、その時に初めて客先に連絡を入れる。直接の訪問先は厳選されるので、そもそも外回りの頻度自体は多くない、と言っているとします。

A社とB社では、同じ外回り営業のことでも、全然質の異なる話をしています。あくまでわかりやすく丸めた例ですが、概ねこんな雰囲気の違いが見られるのです。

どこで、こうした違いが生まれるのでしょうか。

たしかに、どこででも自由に電話ができるようなったのは、ひとつの効率化でしょう。しかしA社は、そもそも出先で電話のやり取りが必要になるのはなぜか、という疑いは持っていません。B社は、その根本要因を問うことから始めているから、A社とは根本的に異なる営業プロセスの発想が生まれるわけです。

A社のITの使い方は、素人の域を脱していません。フツウの人が、電気屋で家電を買ってきて使う、カーディーラーで車を購入して運転する、といったレベルと同じです。

こうした使い方では、ITは単なるツールです。もちろん、それで満足できるケースもあるでしょう。しかし、その程度の適用なら、他の会社でもできます。事業の強化になっているようで、実はその程度の活用は世間的には平均レベル、当たり前の活用でしかありません。

一方でB社の場合、ITを使うことによって「システム」にしている、と言えます。

システムというものの意味は、実はけっこう誤解・曲解されています。「システム」という語は当然ながら英語から来ているのですが、辞書を引くとこんな定義が書いてあります。

a group of related parts that work together as a whole for a particular purpose

出典:Longman Dictionary of Contemporary English

つまり、「特定の目的のもとで」「一体となって連動する」「関連した部品の」「集まり」、ということです。

何らかの目的を定め、それを達成するための仕組みを設計し、仕組みに必要な部品を集め、連動するように組み立てる。そのための基盤やパーツとして、ITを使っているのです。

これが、本来の「システム」です。

単にITという「ツール」を使っているだけなのに、「ウチはシステムを入れている」と主張する企業が結構いるのですが、まったく誤解しています。「システムは設計しないとできない」という事実が抜け落ちているのです。

いわゆる ”DX” に必要なこととは、これまで行ってきた習慣ややり方が本当に必要なことなのかを疑い、自社のあり方をデザインし、それを実装できる、組織としての能力です。

大正時代ならクルマを持っているだけで強力なアドバンテージだったのが、いまやクルマの所有はたいして感心はされないフツウのこととなっています。ITもまた、単なるツールで使っているだけなら何のアドバンテージにもならないフツウのことであると、改めて認識して、その先へ早く進みましょう。

「行政のデジタル化」、すぐできると思っていますか?

先月、新しい内閣が発足しました。急転直下のことで個人的には驚きをもって見ていましたが、まずは良いスタートを切ったように見受けられます。

もちろん、問題は山積、これからが大変です。新内閣が掲げる政策のうち、目玉のひとつとして「行政のデジタル化推進」が掲げられました。早速デジタル担当相を任命し、陣頭指揮を執る体制です。この動きは、個人的にはまったく意外な事でしたが、頼もしいことだと思っています。

行政のデジタル化に関しては、マスコミも識者も一様に、日本は世界に遅れていると指摘しています。新型コロナの対策にまつわる一連の行政の取り組みで、それが露呈したと述べている向きが多く見られます。

その指摘は、間違ってはいないと思います。確かにお世辞にも世界トップとは言えませんし、それを競うようなレベルでもないのは事実です。ただし、日本の行政システムは遅れている、などということを気軽に指摘しても差し支えないほどの大物は、日本には存在しないのではないのかとも、わたしは考えます。

それほどに、日本の行政システムは巨大なのです。このレベルのシステム構築をやりきった経験を持つ人物は、日本にはいないのではないかと思っています。この国の「デジタル化推進」は、誰がリーダーでも簡単に達成できることではありません。

くどいかもしれませんが、このコラムで何度も取り上げている「基礎知識」を押さえておきましょう。デジタル化するとは、その組織の仕事の仕組みを変えること、そのものです。お金をかけて開発者をたくさん雇ってソフトなりシステムなりを開発すればよいことではありません。

つまり行政のデジタル化を推進するとは、この国の行政の仕組みを根本的に変えることを意味します。これは、いち企業が仕事の仕組みを変えることとはまるで比較にならない、超難問です。本当は「超」を5つくらい付けたいくらいです。

日本の行政システムは、明治以降脈々と積み上げられてきたものであり、戦時中を経て現在まで、権力のありかは変われども、その根本的な枠組み自体は変わっていません。百数十年以上にわたり、中央官庁があり、地方自治体が各地域を統括するという体制は不変です。それを前提に、様々な業務プロセスや法的な制約が、長年にわたって積み重ねられ、または部分的な修正を繰り返してきています。

そして現在、中央官庁だけで約58万人が勤務し、そのシステムには約1億2千万の人間が何らかの形で関係を持ちます。これでもスリムになったほうで、いまから20年ほど前は中央官庁に100万人以上の職員がいたとされます。

これよりも歴史と規模を兼ね備える組織体は、日本にはありません(あるなら教えてください)。圧倒的なダントツで「日本最大のシステム」なのです。

新型コロナに対応する過程で日本のITが後進的であることが露呈したと、ほとんどのマスコミや識者は指摘していますが、本質的にはITが後進的なのではなく、業務のしかたが非効率であるという指摘のほうがより妥当でしょう。

ただしその非効率の根源は、慣例やセクショナリズム等を原因とするような、正すべき要因だけではありません。法律や規制の拘束によるもの、民間団体等との間の責任分掌によるもの、過去の裁判の判決によるもの等々、様々なことに端を発している実態があります。国民の個人情報の取り扱いなどは、その最たる例のひとつでしょう。過去の最高裁判決で、国民の個人情報をどこかの機関や主体が一元化して保有することは憲法違反とみなされるという解釈がなされています。

これほどにしがらみの多いシステムが、日本に他にあるでしょうか。

デジタル化担当相が、就任が決まった際にテレビの取材に答えていたのを拝見しました。その際に印象的だったのは、インタビュアーに「デジタル化、できますか?」と問われて、「やるしかない、できると思います」と答えたところです。

自信があって道筋が見えているのなら、「簡単です、すぐやります」とでも回答したでしょう。そう言わなかった(言えなかった)のは、いかに重い任務なのか、よくお分かりだからではないでしょうか。

これほど巨大なシステムを根本から見直すというのは、明らかに短時間では無理です。先日、政府は行政のデジタル化を5年で達成すると明言していましたが、目立つところだけならともかく、完遂となれば5年では無理だろうと、わたしは推察しています。

おそらく多くの国民は「デジタル化なんてすぐやれよ」と思っているに違いないでしょう。わたしは、効果を出しやすいところから「計画的に」手を付けて国民の関心を引き付けながら、全体は長い目で取り組むような流れにすべきだろうと考えています。それが現実です。

そしてこれは、政治による強力なトップダウンでなければ、決して進めることはできません。その意味で、解散風を吹かせる議員やマスコミなど目もくれず、新総理がおっしゃるとおり「仕事をする」ことをぜひ期待したいと思います。

あなたの会社、「腹筋」ばかり鍛えていないか

身体を鍛えることが好きな経営者は多いようです。泳ぐ、走る、筋トレする。なかには、自宅の地下室に自分専用のジムを構えて、夜な夜な鍛えている方も見かけます。

筋トレに詳しい人に言わせれば、筋肉はおよそ、ペアで対になって連動しており、鍛えるなら両方鍛えなければよろしくないのだとか。例えば、二の腕は上腕二頭筋(いわゆる力こぶ)と上腕三頭筋(力こぶの裏側)がペアになっており、片方が収縮するときもう片方は伸長する。鍛えるなら両方やらないと、バランスが悪い。

身体の表側(おなか)と裏側(背中)も同様だそうです。鍛え上げられた肉体というとすぐに思い浮かぶのは、立派な大胸筋と割れた腹筋ではないでしょうか。目立つからといってそこばかり鍛えているのではまずいのだそうです。ある専門家がこんなことを言っていました。背中が曲がったままのお年寄りがいるが、なぜそうなるのか。

赤ちゃんの時はみんなハイハイをするように、人間の体は、背中の筋肉がないと四つん這いになってしまうようにできている。大人で背中の筋肉が弱ると、おなか側の筋肉によって前に曲がる力が働き続ける状態になる。そこに、老化による脊椎骨の骨粗しょうが加わると、ドーナツ形のパーツがブロックのように積み重なって形成されている脊椎骨が、少しずつつぶれてくる。やがて、脊柱そのものが曲がるように変形して定着する。そうなると、もう筋肉の力では戻せないのだそうです。

この、筋肉の裏表の関係の話を聞いて、わたしは「企業のビジネスシステムも同じだな」と考えました。

DXがバズワード化し、もはやDXを知らない経営者はいない状況の中、いまではITに強くなろうと熱心な経営者も増えてきているようです。なかには、米国や中国の展示会やカンファレンスに自ら出掛けていって見聞を深め、コネクションを得てこようとする方もいると聞きます(もちろんコロナ禍前の行動です)。

そのようにして自ら積極的に情報収集し、知見を拡げるのは重要です。ただしその時、アプリ、AI、クラウド、ロボット、ドローン、RPA、VR、AR、アジャイル、○○テック、そのような「流行りもの」ばかりが、気になってはいないでしょうか。

腹筋、ならぬ見目麗しの流行りのITにばかり目が行って、それこそがIT戦略だと考えるなら、それは違うと思います。

企業のビジネスシステムの背筋とは何か。わたしは「データ」であると考えます。

データ基盤の整備は、素人目には利益に直結するように見えず、その取り組みは地味で面白みがないうえ、とても面倒であることが多いものです。社歴が長く、その間にデータ構造に一切手を入れなかった企業ほど、データ基盤を整えようとすればいろんな意味で相当に苦労します。やりたくない、が本音でしょう。

しかし、どれほど「(見た感じ)先進的なIT」を導入しようとも、データが整っていない企業の取り組みはいつか必ずつまずいて、大きな困難に直面します。

ある企業の話を先日聞きました。その企業はベンダー出身の人物をIT責任者に採用し、その責任者の考えた通りに、モバイルアプリやアジャイル開発等々、「(見た感じ)先進的なIT」をどんどん取り入れているといいます。その結果、便利なアプリをいくつか開発し、顧客にも好評で、業務の効率も向上したそうです。ところが一方で、それらのアプリが参照する大本になっているデータは、その企業が昔から管理に使っているExcelファイルのままだといいます。

それは「ファイル」なのであって、「データベース」ではありません。いわば、背筋が弱いまま腹筋だけ鍛えているのが、この会社の実態と言えます。背筋が弱い会社はどうなるか。将来は、背中が曲がったお年寄りのような身動きに陥る会社になる、ということです。

この企業は近い将来、データで困ることになるだろうと、わたしは予想しています。実は、こんな感じの予想はかれこれ10年来のひそかな楽しみで、正答率もなかなかです。今回も当たるかどうかは、個人的な楽しみにしたいと思っています。

DXというよりも、JX??

デジタルトランスフォーメーション(DX)という、新たなバズワードが最近世間を賑わせています。DXに取り組まない企業はアフターコロナを生き残れない、とまで言っている人もいるようです。

冷めた目でこれを見ている人たちは、昔から言われていることの焼き直しだろう、というくらいにしか捉えていないことと思います。そのとおりだと、わたしも思います。ただし、この言葉の本質はきちんと認識しておき、今後の行動につなげる必要があろうかと思います。重要なのは、「デジタル」のほうではなく、「トランスフォーメーション」のほうです。

そもそもトランスフォーメーションとはどういう意味でしょうか。もちろん英語の ”transformation” から来ているのですが、英英辞典でこの語の基になっている “transform” を引くと、次のように定義されています。

to change in form, appearance, or structure

出典:Dictionary.com

形・姿・構造を変えること。つまり、表面に留まらずに中身をまったく違うものに変えてしまうこと、を意味します。

定義だけ見ても、何も感じないかもしれません。ただし、注意して見なければならないのは「まったく違うもの」という部分です。いままでとまったく違うものに、自らの手で意図的に転換することが、簡単にできるという人は、なかなかいません。

過去を振り返ってみれば、これが容易でないということ「だけ」は、簡単に理解することができます。

例えば、江戸時代に伊勢参りが大流行したという話は有名です。江戸時代には関所が設けられており、移動は現代の我々が想像する以上に難しいものであったと思われます。それでも流行したということは、余程大きいムーブメントだったのでしょう。

江戸時代ですので、当然ながら伊勢神宮までは歩いて向かうことになります。Wikipediaによれば、江戸からは片道15日、岩手からは100日もかかったそうです。九州からも参拝者がいたといいますから、そういう人は1年がかりだったかもしれません。

では、みなさんがその江戸時代の参拝客であることを、タイムスリップして想像してみてください。歩いて移動するのが常識だったその時代の人たちが、伊勢神宮まで「電車」や「飛行機」を使って移動することが、果たして容易に想像できたでしょうか。

江戸時代の日本において最も高速で移動できる手段は、馬であったと思われます。できるだけ高速で移動することを考えようとした時、常識の域から逃れられない人は、馬を高速にすること、例えばサラブレッドに育て上げるようなことを考えるでしょう。

それは「トランスフォーメーション」ではありません。「トランスフォーメーション」とは、江戸時代に電車や飛行機を考えることを意味します。徒歩という移動手段を「まったく違うもの」に変えるとは、そういうことです。

DXで言及されているトランスフォーメーションとはどういうことなのか。その本質は「自らの常識を転換する」ということに他ならない、とわたしは考えます。人間は、常識やバイアスにまみれています。それを完全に取り払って、常識外のまったく違うことを発想し、それを具体化するというのは、容易ではありません。しかしながら、常識を覆すことが時代を変えることでもあるというのは、歴史が示しています。問わなければならないのは、デジタルの巧拙ではなく、自分の常識を変えられるか、ということではないでしょうか。

ですから、「デジタルトランスフォーメーション」というのは本質を突いた言い方ではなく、むしろ「常識トランスフォーメーション」(JX??)とでも称するようなものだと、わたしは考えます。

デジタルを活用することで、従来の常識を一変させるのが比較的容易になることは、間違いないと思います。大いに活用しましょう。ただし、本質はデジタルを使うことにはありません。デジタルは、常識を変えるシナリオを実現する「手段」にすぎません。ですから、テレワークにしたくらいで、紙をデジタルに変えたくらいで、RPAで仕事を自動化したくらいで、みなさんの常識が変わっていないのなら、それはDXとは言わないのです。

ちなみに、ネーミングのセンスは、放っておいてください。

「しくみ」と「マニュアル」、全然ちがいます

わたしはよく、ビジネスのしくみをデザインすることの意義を強調するのですが、時として、仕組み化することとマニュアル化することを同一のものと捉えている方を見かけることがあります。

これらはまったく異質のものであるばかりか、危険な誤解とさえ感じます。

ビジネスのしくみは、単純化すると、「インプット」「プロセス」「アウトプット」のまとまりが、連鎖してつながっている構造をしています。

ビジネスのしくみをデザインすることとは、つまり、その事業を実行する一連の流れを要素に分解し、要素ごとにどのような「インプット」をもって「プロセス」を実行し、どのような「アウトプット」を出して終了するかを決め、その要素の連続をどのように組み合わせて、最終的な価値を創出するのか、を考えることです。

そのデザインを司るのは、その事業を全体俯瞰する立場にある経営者や事業責任者です。デザインにあたっては、要素を分解し、要素に対して「インプット」「アウトプット」を決めながら、「プロセス」にはその実行の目的を定義します。こうして決めた一連の要素の連鎖を、全体俯瞰しながら管理していくことで、出したい事業価値を生み出すしくみを確実にするのです。

全体俯瞰して事業をリードすることが重要なのは言うまでもありませんが、そうするには、事業の全体が見えるようにデザインしなければなりません。それもせずに、全体が見えている気になって采配を振るうリーダーの下では、危険な失敗を犯しかねません。

一方、現場の実務のうえでは、誰でも正確にまたは迅速に「プロセス」を実施するために、「プロセス」を手順化して整理しておくことがあります。これが、いわゆる「マニュアル化する」ということです。

このように、仕組み化することとマニュアル化することは、次元が異なる行為です。

マニュアル化が求められるケースは、現実には大いにあるでしょう。ただし、マニュアル化に関して留意すべきことがあります。例えば、マニュアルがあることによって従業員が思考停止しやすくなること、また、マニュアルから外れた行動をしたときの危険性を従業員が考えなくなること、などが挙げられます。

認識しておかなければならないのは、「プロセス」の目的に適う行動であって「アウトプット」を確かに出せるならば、「プロセス」のやり方は一つではない、ということです。技術の進化で変わるかもしれないし、時代の変化で替える必要が出るかもしれません。もっと良いやり方があるなら進化させなければならない、という発想を、常に現場が持っていることが重要です。そうでなければマニュアルは「考えない現場」を生むリスクがあります。

一方で、いくらその意識を持っていたとしても、一般に事業全体が見えていない現場の従業員によって、局所にしか適していない方向で進化させようとしてしまう問題が起こります。また別の問題として、マニュアルに従業員が慣れてしまうと、今度は「少しくらいは大丈夫だろう」と手間を省いたり手を抜いたりするケースが出てきます。始めは些細なことであっても、そのうちに、慣れがいつしか怠慢に変わり、失敗や事故につながるわけです。

事業に責任を持つ者が「プロセス」に目的を設定するのは、それらを抑止するためでもあります。

「プロセス」に目的が設定してあれば、もし従業員がマニュアルから外れた行動をしようとした時、目的に照らして自分の行動が正しいのか顧みる材料にもなります。これは逆に、「プロセス」を現場で変更したくなった場合にも言えることです。

「プロセス」に目的が設定されていないと、時間が経つにつれて、その作業を実施している意義が意識されなくなっていきます。信じがたいかもしれませんが、自分のビジネスであるにもかかわらず、「なんでこれ、やってるんだっけ?」と忘れるのです。

そこに例えばコスト削減のニーズが発生した場合、削ってはいけない領域まで削減対象として、事業責任者でさえそれに気づかないということが起こります。結果、現場にミス回避のしわ寄せが行き、人によるケアが余計に増え、それがクオリティの低下や事故につながる、というわけです。

このコラムでは「さわり」の話しかできませんが、ここではぜひ、全体俯瞰でデザインして価値創出を担保する「ビジネスのしくみ」と、現場レベルで仕事の実効性を担保すべく作る「マニュアル」は、まったく質が異なるものである、ということをご理解いただきたいと思います。

事例で判断するのは、もうやめませんか

企業の方々と話をしていると、事例を求められることがよくあります。

なにか新しいことに取り組むにあたって、それを採用する前に関連する事例を知れば、実際に採用するとどんな効果があるのかが具体的に想像できるだろう、と考えて要望するのでしょう。

事例を知ることそのものは、悪いことではもちろんありません。ただし、これまで3400ほど企業のシステム事例を収集し分析してきた身からすれば、事例を知ることの目的を誤ってほしくないと考えているところです。

とかく日本の企業は、事例を知ることで第三者保証を得ようとしているように、わたしは感じています。採用に踏み切るにあたって、本当に効果があるのか確信が持てないし、社内を説得もできない。業者の説明だけでは、真に受けていいのか不安がある。そこに事例があれば、第三者が成功していることが裏付けられて、安心して採用ができる。こういう具合です。

わたしが考えるに、このような目的で事例を使うべきではありません。いつまでも他人や他社の後追いしかできない組織になるだろうと思います。

この説明のため、個人的には欧米と日本を比較して「日本は遅れている」とする世間の記事やコメントを嫌っているのですが、ここでは敢えてその比較をしてみましょう。

多くの面で、日本は欧米に対して大抵は後追いになっています。最近では中国の後まで追おうとしています。なぜそうなるのか。私見ですが、文化的にそれにつながる思考パターンが定着しているからではないかと感じています。

わたしの知る限りですが、米国などでは、人間関係において、自分から発言しない人や行動しない人は「いない人」と同じに扱われる傾向があります。無視されるわけではありません。「存在しない」として扱われます。しかし一方で、何らか発言や行動をし、良いパフォーマンスをすることを見せると、途端に仲間として認知してもらえます。それは時に、オーバーなくらいに大手を拡げて行われるような気がします。

日本ではどうか。人間関係において、自分から発言しない人や行動しない人は「従順な人」として扱われます。そこで何らか発言や行動をすると、期待される行動や雰囲気からそれが外れているほど、「お前などたいしたことない」と言わんばかりに上から乗っかって来られます。いわゆる「出る杭は打たれる」というものです。

ところが、関係者ではない他人、リスペクトに値する人物、マスコミなどによって、それにポジティブな評価が与えられると、この対応が一気に変わります。途端に評価され、意見が尊重されるようになります。

この違い、わたし個人は、オープンでフェアな判断軸があるのかないのかの違いではないか、と考えています。

米国の企業やビジネスパーソンを見ていると、どれだけ無名であろうが、よいものはよい、試してみよう、という判断をしているように感じます。逆に悪いとわかると、かなりドライに切り離し固執しません。時にそれは非情とも思えることがあります。いずれにせよ、よい・悪いを判断する軸が(よくも悪くも)はっきりしており、それに基づいて物事を見ているようです。

欧州などでも同様の傾向があると感じています。こと欧州は、ものごとのルールや基準を標準化することが得意です。日本にも欧州由来の多くの社会ルールが入ってきていることからもそれは窺えるでしょう。最近で言えば、個人情報保護にまつわるGDPR、国際会計標準のIFRSなどが思い浮かびます。

日本の企業を見ていると、善し悪しの判断は結局他人の意見(すなわち事例)で行っているように感じます。特に「みんなそうしている」「外国でやっている」には本当に弱い。同じ無名の人物でも、日本人だと信用しないのに、欧米人だと信用するという不思議なところがあります。そして、採用した後にダメだとわかっても、失敗と認めたくないのか愛着があるのかわかりませんが、一度行った判断に執着して継続する傾向があるように思います。

要するに、どのようであればよくて、どうだったら悪いのか、客観的な判断軸を持っていないのです。

判断軸が明確にあるのなら、事例は単なる「良き参考」でしかなく、採用の可否は、あくまで自らの判断軸に適っているかどうかに依るはずです。みんながやっていようが軸に合わなければ採用しないし、みんなやっていなくても軸に合っていれば採用する。シンプルです。

ことITの分野に関して言えば、不安であれば実際に試してみればよいでしょう。現在はクラウドが安価に利用できるなど、試してみたければいくらでも試せる環境が容易に手に入ります。止めたければすぐにやめられます。成功事例がなければ不安だと思う必要などないはずです。

他人、他国、他社の後追いで構わないし、そのほうが安全だ、リスクは負いたくない、というなら、止めはしません。しかし、顧客や有望な人材が積極的に選択する企業は、後追い専門の2番手以降の企業なのか。あの会社すごいねと評価される企業は、ポリシーがあいまいな企業なのか。一度考えてみてほしいと願っています。

「見える化」と「見え過ぎる化」

よくある企業のシステム化事例に、「見える化で成功」というものがあります。

これまで曖昧だった社内の状態、顧客の状況、問題や異常、施策の成果などを、経営者や責任者または現場の人々が「見える」形に整え、確認したり評価したりできるようにする。「見える化」そのものは、大変に意義も効果もある取り組みです。

ただし、見えればよいというものでもありません。見え過ぎることで弊害が生じることもあります。

ある製造業の企業で、それまで見えていなかったサプライチェーンの動きを徹頭徹尾「見える化」して成果を挙げたという事例がありました。当時、この事例は大々的にマスコミに取り上げられ、仕掛け人だった当時の社長は「経営とITのどちらにも精通する人物」としてもてはやされていました。

ところがその社長が退任し、次の社長がその会社に就任すると、新社長はその「見える化」のほとんどを、ことごとく廃止していきました。なんと、見えなくてよいと宣言したのです。

現場の仕事ぶりと成果がすべてデータで挙がってくる「見える化」が、就任時点から労することなく整備されていたにもかかわらず、新社長はなぜ止めるように指示したのか。その理由は、現場にありました。

「見える化」を実現するためには、各業務の動きや流れをどこかでデータに変換しなければなりません。そのデータをどこかで入力し、どこかに集約して集計し、どこかから出力して、表示しなければなりません。実はこの会社では、こうしたデータ処理のプロセスのほとんどが、人力だったのです。現場の社員の多くはデータ処理に相当の工数を強いられ、実はお疲れ気味だったのだとか。

しかも社長向けに出力されてくるデータはかなり細かく、経営判断にはそこまで必要がないというものだったそうです。

「見える化」するのはよかったけれど、見えるようにしすぎて処理が重くなりすぎ、本来の業務に支障をきたすという、本末転倒な状況でした。もうやめるように指示するのも、無理はありません。

世間の事例をマネして単に「見える化」を目指そうとすると、リーダーの性格によってはこうしたことになりがちです。無用な細かさは、ITツールの技術的なスペックにも影響して無用な投資にもなりかねません。こうしたことを避けて「足るを知る」ためにも、まずはシナリオのデザインが必要です。見えるようにする前に、データを見ることによって何がしたいのか。見えるようになったデータから何をどのように達成して成果にするのか。

現実味のあるシナリオが的確に描かれていれば、必要十分な「見える化」となって、末永く自社のビジネスの仕組みに活かされるはずです。

当然ですが、「見える化」の受益者が経営者であるなら、システム要求の整理には主体となって参加すべきでしょう。

有価証券報告書は、ロボットに作らせる?

日産自動車前会長による有価証券報告書の虚偽申告の事件は、世間に大きな衝撃を与えました。報酬を過少に見せるという、経営者として、組織のトップとして、決してしてはいけないことを常態化させていたようだと伝えられています。日本を代表する自動車メーカーのひとつである同社の大変な危機を救い、ブランドを守った功績のあるカリスマ経営者であることはいささかも疑いの余地がありませんが、欲望を端に発するような不祥事は栄光も善行も帳消しにしてしまいます。

非難されるべきこと以外のことまで持ち出して一緒くたにする、こういう時のマスコミの批判のしかたのイヤらしさはともかく、わたしは報道を見ながら「こういうものこそロボットにやらせればいいのに」と考えていました。

ロボットによる自動化の使いどころには、いくつかの考え方があると思います。それを考えるのも、しくみのデザインです。その切り口のひとつが、人間による不正や犯行の抑止です。

機械には、感情がありません。意志がありません。空気も読めません。この特性は、人間の気持ちに配慮するような対応を実現しようとする場合にはマイナスに働きますが、不正の抑止という側面ではプラスに働きます。機械が自らの欲望に負けて不正を行うことはありません。

以前、アマゾンの物流センターの話を聞いたことがあります。そこで使われているオレンジ色をした箱形の搬送ロボットの話は有名ですが、実はこのロボットが動作する商品棚のエリアには、人間が立ち入ることはできないのだそうです。なぜなら、商品棚のある場所に人間が自由に立ち入れるようになっていると、商品を盗む作業員が出てくるリスクがあるから。また、配送する段ボール箱に出荷ラベルを貼る作業も、ロボットが自動で行い、人間の介入は許さないのだそうです。なぜなら、そのラベルに書いてある宛先は個人情報であり、プライバシー情報を持ち出す作業員が出てくるリスクがあるから。

人間による不正が行われるリスクがある業務プロセスを見極めるという考え方は、欧米ではよくあるアプローチとはいえ、さすがアマゾン、よく考えていると感じました。

そんなことを思い出しながら、有価証券報告書もロボットがつくればいいのにと思いつつ、同時に、たぶん誰もやろうとしないだろうなとも考えました。ロボットに仕事を奪われる経理部門の人たちが拒絶反応を示して、購入を許容しないかもしれません。自ら積極的に導入を考える経営者がいるかといえば、そんなふうにリスクヘッジをしようとする経営者はそもそも、不正を働こうなどという欲求は持ちえないでしょう。

そのデジタル化、動機は何か

わたしがかつて勤めていた会社は稲盛和夫氏と深いかかわりがあり、社内では稲盛氏の哲学を語る言葉が多く交わされていました。もう何十年も前の話なので内容はほとんど忘れてしまっていますが、そのなかでなぜか、「動機善なりや 私心なかりしか」という言葉だけ、いまでもよく思い起こされます。

私見ですが、エンジニアというのは典型的に、技術的にやれること、技術的に可能なこと、技術的にやりたいことは、やってみたいと考えるものだと思っています。およそそのときに念頭を占めるのは「技術」、すなわち「私心」です。顧客がほしいものは何なのかという視点が抜けがちなのです。顧客はドリルが欲しいのではなく、穴が欲しい。わたしもエンジニア上がりですので、「動機善なりや 私心なかりしか」という言葉を自戒をもって心に留めようとしていたのかもしれません。

最近、決済を完全キャッシュレス化する店舗をオープンすると、某外食企業が発表しました。注文をセルフ式にし、決済で現金を取り扱わないことによって、従業員の間接業務を軽減するとしています。また取り組みが成功すれば、ほかの店舗にも広げるとしています。

人手不足が深刻など事情はあるでしょう。しかし、少額の場合は特に現金決済するケースが現在では主流である日本において、現金決済を一切断るレストランというのは果たして「動機善なりや」なのか、わたしには疑問です。

こういう取り組みではほとんどの場合、浮いた労働力を顧客満足度向上につながる作業に充てる、などと企業は主張するのですが、本当にそのシナリオまで描いて取り組んでいるのでしょうか。

わたしが先日不意に入ったある食堂は、テーブルにタブレット端末が置いてありセルフ注文する形式でした。これもまた従業員の間接業務の軽減策なのでしょうが、その従業員たちが店内で何をしていたかといえば、フロアで接客するでもなく、全員が厨房近くにただ立っているような状態でした。客に呼ばれないので、あまりやることがないのでしょう。

わたしはキャッシュレス決済に反対しているわけではありません。「動機善なる」取り組みとしては、スポーツの公式試合を行うスタジアムの例があります。先進的なスタジアムの取り組みで、チケットからグッズ販売、飲食店での購買など、あらゆる体験を電子化しようという構想が進められています。

スタジアムでの観戦は、人気の高い試合である場合は特に、売店での行列は時に集中して激しくなることがあります。この状況で現金決済していれば、行列に拍車をかける可能性が高くなります。もし電子決済できればレジでの混雑緩和に大きく貢献し、顧客は確実に喜びます。

また、スタジアムはたいてい広いので、どの店で何を売っているかをきちんと把握するのは顧客にとってなかなか面倒です。席を立てる時間に限りがある状況であるほど、座席の近くで用事を済ませるのが普通でしょう。そこでもし、利用者の属性と顧客の決済情報を結び付けて商品や売店のレコメンドなどができれば、店を探す時間の短縮につながって顧客はうれしいはずです。

同じキャッシュレス決済の話ですが、どちらのほうが期待を持てるビジネスに感じられるかは、言うまでもないと思います。

デジタル化という取り組みは、エンジニア的発想に取りつかれるほどに、つまりデジタルそのものが目的になるほどに、「私心」満載になりやすくなると感じます。これは、顧客に関連したデータ取得や分析などでも同じです。そういう「先進」事例を、マスコミがあたり構わず好事例であるかのように報道していることが少なくないように見えるのが、個人的に最近気になっているところです。

サービスは、イノベーションより「見せかた」がむずかしい

最近、製造業の企業が事業をサービスやソリューションの提供にシフトしているとして、話題に上ることが多くなっています。

例えば、トヨタ自動車は先日、「自動車を作る会社から、“モビリティカンパニー”にモデルチェンジをする」と、社長自ら宣言しました。また、今月開催される国内最大の家電・IT見本市「CEATECジャパン」では、コマツやファナックといった”機械メーカーの雄”ともいえる企業が、「製品」ではなく、自らが仕掛ける「サービス」について基調講演するということで、話題になっています。

この背景には、あらゆるものが「つながる」ようになっているという傾向、そして、つなげる部分を担うプレーヤーが業界を制する立場になりやすいという実情があると思います。モノづくりに高度な技術は相変わらず必要であるものの、モノを作っているだけでは価値提供として足りない時代になってきたということでしょう。

実は、トヨタ自動車がこのような「宣言」をしたというのは、個人的には内心ほくそ笑んでいるところがあります。わたしは2012年1月の当コラムで、同社を話題にして、『自動車会社は今後自動車を「端末」として扱い、ケータイなどの「端末」と同列化しながら、それらをつないでサービスを展開する「プラットフォーム事業者」を目指したらどうか』と書き記していました。まさに、趣旨を同じくするような「宣言」をしたわけです。

ここしばらくの間は、多くの企業で「サービス化」の動きが加速していくだろうと見込まれます。ただ同時に、おそらく相当の企業がまず壁にあたるのではないかとも思っています。

サービスを作るには、顧客にそのサービスを「どうやって見せるか」という観点が重要であると、わたしは考えます。例えば、同じ飲食店をやるにしても、店をどう見せるか次第で、顧客に映る魅力がまったく変わってしまい、差がついてしまうということです。

このように言うと、ブランドプロデュースのようなことを想像されてしまうかもしれませんが、そうではありません。「どうやって見せるか」とは、顧客にサービスをどうやって使ってもらうのかであり、どう利用してもらえれば顧客が喜ぶかということです。ブランド価値があるのかどうか以前に、それはサービスを提供する企業自身が、こだわりを持って作り込むことです。

サービス提供に失敗する企業は往々にして、この部分をうまく作り込めていないか、そもそもよく考えていない傾向があるように感じています。結果として、魅力を感じない「フツウ」のサービスに顧客には映り、積極的に選ばれないわけです。

見せかたをよく考えなくても、ブランドやブームを前面に出してマーケティングすれば、それでもビジネス的に成功はするでしょう。しかし、だいたいの場合それは一時的です。そのうち中身の本質を顧客に見抜かれるようになり、飽きられて「フツウ」になっていきます。大事なのは、華々しくマスコミに取り上げられることよりも、永く顧客に支持されることではないでしょうか。

特に技術を活用したサービスの場合、こうしたことを真剣にデザインしていないと、単なる技術のつなぎ合わせのようなサービスになります。そういうものはすぐに真似ができ、すぐにそれを超えるサービスを出されてしまいがちです。

技術競争は、価格競争に似て、リソースの消耗戦になっていきます。資金や人材が潤沢な大手企業には決して勝てません。また大手企業にとっても、そうした競争の先に「イノベーションのジレンマ」が待ち受けているということは、すでに過去の歴史が証明しています。

もしサービス提供を本格的に考えるのなら、流行に駆られて先走る前に、まずはしっかり「どうやって見せるのか」を考えることをお勧めしたいと思います。デジタルなどは、その仕組みやロジックを考えた後の話です。