ネットの間違いは許しながら、AI の間違いは許容しない人へ

先日街を歩いていて、前にいた学生風の若い女の子のグループを追い越していったら、彼女らが ChatGPT を話題にして盛り上がっているのが聞こえてきました。人工知能(AI)も、そんなところでネタになるほど世間に浸透したんだなと実感した次第です。

学生の人たちが AI を意識するのは、もしかすると「ChatGPT を使って宿題をやるな」という文脈なのかもしれませんが、企業においてはそうした制約は特にありません。しかし、ビジネスの領域ではむしろ、AI がもつリスクのほうがより意識されやすいような気がしています。

かの ChatGPT も、回答する内容は時に不正確、誤解を招く、偏見に満ちている、という場合があると、事前に断っています。また ChatGPT に対抗して先ごろ Google が一般公開した対話型 AI「Bard」も、同様の注記を掲げています。

それを真正面から受けて、不正確であることを AI を使わない理由にする企業やビジネスパーソンをよく見かけますが、それはいささかもったいない判断です。

AI が人間から見て不正確であることは、おそらくこの先も不変であろうと思います。AI にまつわる誤認識や誤判断のリスクは、これからもずっと付きまとうでしょう。しかしながら、100点を取れなくても70点程度正解してくれれば十分な改善になるムダが、世間にはたくさんあるはずです。AI が活かせる領域とは、そうしたところではないでしょうか。

もちろん、予測するだけ無駄なことを対象にして AI の予測モデルを作ろうと努力してしまうことは、やるべきではありません。開発のコストメリットを上回るだけの効果がないのなら、予測モデルをつくるだけ無駄です。そんなこと当たり前だと思う方は多いでしょうが、現実は、そういうつもりはもちろんないのに無駄な予測モデルを作ってしまって成果が出せないでいる例がたくさんあると聞きます。そもそもその予測の精度が向上すればどのくらい「効果」が得られるのか、本格的に取り組むより早い段階で評価することが重要です。

また、許容可能な予測をするには相当高い的中精度を要求されてしまう課題に取り組んでしまうことも、やるべきではないことです。例えば、AI が行う判定が人の人生や生命に関わるような場合、適用には慎重にならざるを得ません。

一方で、現状うまく予測ができていない、予測はしてみるけれどいい加減で根拠に欠ける、予測しようにも相当な工数や労力が取られている、という領域がいろいろあるはずであり、それらは AI に適した領域かもしれません。例えば、あるスーパーでは生鮮品の需要が上手く予測できておらず、毎日相当数の商品を値引き販売し、最終的に廃棄されるものも少なくないとしたら、そこに AI による予測を適用して、値引きや廃棄を 100% なくすことはできないにしても、7 割減でも実現できれば、メリットは大きいと思われます。

また、認識精度がある程度に留まるのは承知で、間違いは後で人間がカバーする考え方でも、大幅な省力化が見込めるケースがいろいろあるでしょう。注文書などビジネス文書の文字認識などではこの考え方を応用し、AI-OCR と人間のオペレーターのハイブリッドによる文書のデジタル化サービスを提供する業者が増えています。

つまるところ、AI は「業務のムダ取り」に新しい方向性を与える選択肢だ、と考えれば、いろいろな適用領域が浮かんでくるのではないでしょうか。

「ウチはデジタル化は別に必要がない」と主張する会社の業務の現場を見ると、時々、端から見れば無駄が多い手作業にしか見えない仕事を、その労働にあまりに慣れ過ぎ、まるで職人のライフワークであるかのように一心不乱にこなしていて、終わった時にはやり切った達成感に浸っているような場面に遭遇することがあります。少なくともそんな状況には、陥りたくないものです。

成果を出すビジネスリーダーは「4つの力」を発揮する

年の初めに目標を設定しようと思う経営者やビジネスパーソンは、案外多いかもしれません。

個人的に目指すところを目標設定する場合は、個人の好みでまったく結構でしょう。一方、ビジネスの目標、ことリーダークラスの方々が設定する目標となると、周囲を巻き込む必要がありますから、自分の好みでよいとは行きません。

昨年中、様々な支援先で、経営者のみならず部門レベルの方々などにも、「目標を設定して」という働きかけをしました。そうすると、言葉を絞り出して何か出てくるのですが、こちらが見た瞬間に「これは目標になっていない」と思うものが多くあったのには、いささか驚きました。そう指摘すると、さらに悩みだしてしまう。そんなケースが想像以上にたくさんありました。

リーダーが設定する目標は、言うまでもなく重要です。それで部下全員が動くわけです。下手な目標を設定すれば、そもそも理解してもらえず面従腹背になるか、なんとなく達成したようで達成感は感じられないか、達成できても意味を成したように思えないか、そんなふうになります。

目標を設定しようとするとき、リーダーが発揮しなければならない能力がいくつかあると、わたしは思います。それらがないと、周囲がついてきてくれるような目標設定は難しいでしょう。

まずは、予見する力。社内および社外の環境を的確に感じ取り、自分が責任を持つビジネスドメインの全体感が俯瞰して把握できていること、そのうえでこのまま行ったらどうなるかを想像できることです。それができて始めて、的確に課題を認識できます。課題認識がないなら、もっとこうしたい、もっと良くしたい、という発想も浮かぶはずがありません。

次に、構想する力。どうすればよくなるのか、どのように課題を解決してよい方向に持っていけるのか、というシナリオを描けることです。シナリオを描く重要性は、このコラムでたびたび申し上げています。こうすれば成功できるというシナリオと、それに加えてどこにリスクがありどう回避できるかというシナリオ。それらがなければ、混とんとした状況の中で目標に向かう適切な行動を示すことができません。目標だけ示してシナリオがないというリーダーをよく見かけますが、まるで山の頂上だけ示して登山ルートを設定せず、さあ勝手に登れ、と指令しているようなものです。

もうひとつは、共感を生み出す力。その目標を示して、目指す意義をわかってもらえる説得力を示すことです。こと経営者なら、大きな会社にしたいなら余程、その目標は社会的に意義を成すような、公明正大な目標でないと、現実に成功はしないと思います。また、周囲を説得するにあたり、自らの言葉を文字に起こし、それを語れることは必須です。演説が巧みなことと、文字や図式で表現することは、別の能力です。しかし、両方ともないとまずいです。見ていると、口は達者だけれど文字や図にはできないリーダーが相当に多いように思います。

そして当然ながら、最終的には実践する力。目標だけ語って、あとは現場に投げっぱなしはいけません。実行責任と権限は現場に与えるが、その結果は確実に追う。現場に問題があるなら道を示して支援する。そうすれば、自ずと目標達成に近づきます。

こうしたことは、どれだけリーダー研修を受けようが、本を読んで勉強しようが、身に付くことではないように思われます。下手でもいいからまずやってみて、だんだん磨かれる能力ではないでしょうか。面倒でもまずは型をまねてやってみる、板につくまで粘って続ける、という態度が重要かと思います。

かくいうわたしも、上記のようなことを創業時に思い立ち、考えを文字に起こす練習として自ら毎月コラムを書くことを義務にしてから、かれこれ今年で17年になります。上手くなった気はしていませんが。

新卒社員が味わう「タイムスリップショック」

デジタルの素養を持つ人材不足が叫ばれるなか、学校教育でもそうした分野が拡充されてきているのは、周知のとおりです。

今年の4月から、高校では情報科目が必修化されると聞きました。情報科目自体は2003年度からあるそうですが、これまでは選択必修だったといいます。

最近の子供たちは小学校からプログラミングに触れ始め、中学高校と情報の取り扱いを継続的に学習し、大学では当然のようにコンピューターを使って課題をこなすようになりました。

2025年度からは大学入学共通テストに「情報」が追加され、入試でも学力が問われるそうです。サンプル問題が出ていましたので、実際に問題を解いてみたのですが、一見では数学の問題のように思えるものの、わたしが学生の頃にはありそうでなかった問題で、デジタル的に物事を考える「素養」を問うにはいい問題だなと感じました。

こうした環境で育った若者が、近い将来、企業に就職してくることになるわけです。こうなると、むしろ心配なのは、企業のほうだと思います。

データを見て物事をとらえ、手続きはデジタル環境でほとんどすべてをこなし、多くのやりとりをデジタル端末で済ませる生活が当たり前に思っている人材が、企業に就職した途端、タイムスリップしたかのような時代遅れの業務環境に直面する。業務上の判断をするにも、そもそも材料になるようなデータが社内に存在しない。ファクトに乏しいまま、上司や先輩は直感やら過去の経緯やら前例やらに基づいて判断を進めていく。そんなシナリオが目に浮かびます。

思い返してみれば、わたしが何十年前に就職した時にも、時代をさかのぼるようなことを体験したのを覚えています。わたしが就職した頃はインターネットが一般に広がる直前の時期でしたが、理系の大学研究室では電子メールがフツウに使われていました。電子メールでのやりとりなど、世間に名の知れた有名企業なら当然あるだろう、と思って就職したのです。ところが入社して新人研修中に先輩社員に聞いてみたところ、返ってきた答えは「いや、そんなのないですね」。就職先が通信会社だっただけに、驚愕したのを思い出します。

ちなみに、会社に電子メールが全社で導入されたのは、現場に配属された後の、その年度中のことでした。それでも、日本企業の中では早かったほうだと思います。

想像するに、わたしが当時受けたショックとは比較にならないような衝撃を、新卒の新入社員たちが就職先で受けるのではないだろうかと、いまから気をもんでいます。みなさんの会社では、そうならない自信がありますか?

顧客は「目指しているもの」を見ている

先日、十年超ぶりくらいでしょうか、あるファミレスに入りました。

店に入ると、店員が出迎えにきません。わたしが知る昔の経験では、店に入るとすかさず店員が気付いて「何名様ですか?」と聞かれるという認識でした。ところが、なかなか出てきません。待っているべきなのか、勝手に座っていいのか、判断がつかずに立ち尽くしていると、ようやく店員が(わたしに気づいてやって来たのではなく)近くを通りかかったので、こちらから声をかけました。「お好きな席へどうぞ」という回答でした。 

席に座ると、タブレット端末が置いてあります。操作説明はありません。自分で勝手にその端末からオーダーしろということのようです。端末の使い勝手は特に悪くはなく、適当に選んで注文をしました。

選択したメニューはどうやらセルフでドリンクバーに取りに行くスタイルだったようなことに、注文してから気づきました。よく見直すと、ほとんどのメニューがそうなっています。それはそれで理解しましたが、セルフのカウンターに向かうと様々なものが置いてあります。ここで、何をセルフで取っていいのか、わかっていないことに気付きました。席に引き返してメニューを見返し、取っていいものを理解してから、再びカウンターまで取りに行きました。

ドリンクバーで、水とスープを自分で取って席に戻ると、先ほどのタブレット端末では動画がしきりに流れています。どうやら、注文後はデジタルサイネージに化けて宣伝を流し続けるようです。その宣伝は、わたしが店を出るまで続きました。

料理は(さすがに)店員が運んできました。食事を済ませると、見透かしていたかのようにすぐさま店員がやってきて、食後の皿を下げていきました。

ふと店内を見渡すと、入店してからというもの、店員の姿はフロアにほぼ見当たりません。かなりスタッフは少ないようです。お昼時の真っ最中の時間帯でしたが、店員はバックヤードも含めて5人いたかいないか、というふうに見受けました。

人力によるノーマルな会計を済ませて店を出て、「この店は、いったい何を目指しているのだろう」と、わたしは感じました。

このファミレスは、過去に提供していたような来店客へのホスピタリティは、完全に捨てているように思います。コロナ禍が要因なのか、恒常的な人員不足が要因なのかは知りません。いずれにせよ、店員の対応や人数だけでなく店内の業務の仕組みからみても、ホスピタリティへの努力は捨てていると判断せざるを得ません。

そうかといって、デジタルにより自動化や効率化を推し進めたようにも見えません。そうしたつもりなのかもしれませんが、感心するような取り組みには気づきませんでした。空席が目立ち来店客が少ない割に、オーダーが出てくるまでの時間はそれほど早い印象はありませんでした。少ないスタッフでも従来と変わらない提供体制、ということなのかもしれませんが、顧客には関係のないことです。

オーダー用のタブレットにしても、使い慣れている人ならともかく、不得手な客にとっては、説明もなしに操作するのはなかなか抵抗があるに違いありません。現に、ある客に店員が、「そこじゃないです、青いボタンです!」などと、操作をインストラクションしている声が、どこからともなく店内に響いていました。

そのわりに、タブレットを使って抜け目なくマーケティングしようという意図はうかがえました。しかし実際には、その映像は客にほぼ顧みられていないだろうと感じましたし、しきりに動画が流れるさまは、人によってはうざったく思えるかもしれません。

要員不足に効率化で対応しよう、デジタルでクロスセルを促そう、業務を整流化して回転率を上げよう、などという話は五月雨式に思いつくかもしれませんが、この店には「それで、何を目指しているの?」がないように思います。少なくとも、ホスピタリティの高さではないし、デジタルによる洗練された顧客体験でもないし、ファストフードのようなスピード感でもない。それらは間違いなく、客の立場からは感じられませんでした。

共感できるポリシーが感じられない店には、客はなんとなくですが、また来たいとは思いません。二度と来ないとまでは思わずとも、また来たいとは思いません。わたしのような専門家は論理的にそう思うのですが、専門家ではない一般の客でも、深層心理でなんとなくそう思うものです。

このファミレスチェーンは過去に、データ分析を緻密に実行できる情報基盤を構築したとして事例になっていました。ファミレスの業務フォーマットはおよそどの店舗も同じである可能性が高く、今回のわたしの体験がどの店舗でもほぼ同じだと仮定すれば、このサービス提供でどんなデータ分析を行ったところで、事業の発展につながる有益な情報を得ることはないだろうと推察します。

成長させたい事業なら、トップが動かないとダメな理由

ビジネスがデジタル前提となる時代にシフトしつつあります。そんななか、これまでの事業の常識を変える取り組みや、切り口を変えた事業を推進するといった、新しい取り組みに挑戦する企業は増えているように思います。

こうした取り組みは、すなわちビジネスシステムを描きなおすこと、設計しなおすこと、でもあります。根本的なレベルから事業の仕組みを構築する必要があるならば、それはトップが主導し、トップが絵を描き、トップが指導して仕組みを構築することです。そうでなければ、一貫した組織行動のもとに、実現したい提供価値を実現することはできません。

トップが本気でやらない事業がうまくいかないのは、当たり前のことです。

例えば、自社の強みを生かして新規事業を立ち上げることを考えたとします。その場合、強みを生かすのは良いとしても、事業の戦略立案はもちろん、ビジネスシステムをイチから設計し、実行に移し、軌道に乗せなければなりません。

誰も描いたことのない絵を描き、未開拓の地に道を作らなければならないわけですから、その事業の総責任者であるトップがそれを描かなければ、トップより下のメンバーはリアルなイメージを持つことができません。

こういう時に、心得のないトップは往々にして、自分の得意分野ではないところを、権限委譲という聞こえの良い言葉で「全面的に」他者に丸投げします。全面的でなければ救いようがあるのですが、残念ながら全面的であることがほとんどです。そうやって、全体設計もせずに自分からその部分を切り離すのです。それが、業務の属人化の始まりになります。

業務の属人化というのは、始めのうちはあまり問題になりません。権限委譲された人が成果を出せば、うまく行ったような気になるものです。しかし、年を追うごとに、事業が拡大するごとに、属人的な業務をつくってしまった問題は顕在化していきます。

気づいたときには、修正しようにもしがたい、修正するとしたら多大なるコストとエネルギーを伴う課題と化すのです。そしてたいていは自力で修正できず、ある日、依存度を増した特定の人物が機能しなくなることで、事業の成長は止まります。

他にも例えば、トップが本気で取り組まないがために、現場における過去の成功体験からくる考え方や、染みついたカルチャーを変えられないケースがあります。

モノ売りを得意としていた会社が、これからはコト売りだと宣言してサブスクビジネスを始めようとしたとします。

言うまでもありませんが、モノの販売とサブスクビジネスは、似て非なる事業です。モノの販売では、売ってしまえば顧客との関係はそこでいったん区切りを迎えます。一方でサブスクビジネスは、顧客が商品やサービスを継続して利用することによるLTV(Life Time Value)を最大化することを目指す事業です。

つまりサブスクは、商品やサービスを売ってからが本当の勝負の始まりです。顧客と定常的に接点を確保し、使用状況を把握し、困っていることがあれば企業側から手を差し伸べ、必要ならばアップセルやクロスセルを勧奨し、新機能やサービスの開発を間断なく進めて提供し、顧客が自社の商品やサービスによって成功を収めてくれるように、継続的に働きかけることが重要だとされます。

そうした一連の取り組みを「カスタマーサクセス」と呼ぶわけですが、これはモノを売って終わっていた企業からすれば、かなりのマインドシフトを伴う取り組みです。

マインドシフトが組織としてできないまま、モノ売りのカルチャーでサブスクに取り組もうとすると、口で言うこととは裏腹にまったく行動が伴いません。

言葉ではコト売りしよう、顧客のカスタマーサクセスを実現しよう、などと言っているわりに、KPIは相変わらず商品やサービスの販売数や販売時の利益で測定する。事業施策もモノ売りの販促と何も変わらない。カスタマーサクセスなどと一応称しているけれど、行動の実態は従来の「カスタマーサポート」と何も変わらない。なにより顧客の情報を自分で持っていないし集めようともしない。顧客のLTVを向上させることの重要性は頭では理解しているのに、現場では「商品の手離れがよいのが営業的にはベスト」などと指示が出ている。そんなことがフツウに起こります。

それもまた、トップが従来から染みついたカルチャーを根本から変えようと本気で取り組まないから、起こることです。

本当に成長させたい事業なのであれば、トップが主導してビジネスシステムを設計するべきだと、わたしは思います。

会社のレベルと、問題の感度

様々な会社を訪問していると、業種業態にかかわらず、ある特徴から会社の状態を推し量ることができることに気づきます。

例えば、社内の問題に対する「感度」です。成長性が高く勢いを感じる会社ほど、社内に内在する問題に対する感度が高いようです。様々な改善点に日頃から気づき、それらに対処しようと考える。こうした流れが常にあります。問題があるのはある意味フツウのこと、問題がないなんてありえない、早く発見して早く対処すべし。そういう考え方をしています。そのためか、社内の雰囲気は明るいけれど、常によい緊張感がある。そんな印象です。

逆に、勢いがない会社ほど、問題に対する感度が低いように感じられます。社内には多くの問題が存在し、それは第三者の視点ではかなり目立つものであることも多いのですが、それとなく水を向ける程度だと「特に問題とは思っていない」という回答が返ってきたりします。そのためか、社内にはどこかのんびりした空気が流れている。そんな印象です。

問題山積の会社ほど目が回るほどに忙殺されているかと思いきや、そういう会社ほどのんびりした雰囲気に包まれている、というのは、ずいぶん皮肉なものだと思います。

そうなってしまうのは、会社において「何を問題とみなすのか」という基準の厳しさに差があるからでしょう。厳しさに差がある、とはつまり、その会社が達成したいクオリティやレベルの違いです。ひいては、その会社のミッションやビジョンの位置づけの違いということになります。問題の感度が低い会社には、そもそも明確なミッションやビジョンが定義されていないことも多いものです。

言葉を変えれば、その会社にとっての「当たり前」が何なのか、それをいかに社内で固く共有しているか、この差であるとも言えるでしょう。世間で凄い会社と言われるところは大抵、現場の業務を個別に観察するとおよそ「やって当然」の仕事をこなしているように見えて、その当たり前の仕事をこなす「レベル」が普通ではないのです。

よく言われることではありますが、問題を解決するスキルは重要だけれど、もっと重要なのは、問題を設定するスキルです。間違った事柄を問題として捉えれば、どれほど正しく問題を解いたとしても、出てくる答えはやはり間違いです。データ分析の世界には、”Garbage in, garbage out.” という戒めの言葉があります。厳しい言い方ですが、「ごみを入力したら、出力はごみ」という意味です。

このようなことから、問題に気づき設定する役割にあるマネジメント層の能力というのは、非常に重要だと感じます。

コンサルが「正しい」助言をしにくいとき

先日、同業のある知人から、こんな話を聞きました。

ある中小企業の社長から、DX推進に関してどうしたらよいか支援してほしいと打診を受けて、事情をヒアリングしに行ったのだそうです。会社を訪問すると、社長からその場で経営計画からDX推進の体制案まで、いろいろな文書を見せてもらったと言います。すでにその計画は社内に展開され、社長自ら社員向けに説明も行っているということでした。

訪問先の社長はかなり勉強熱心な方だったようで、計画は自分で立案したがコンサルタントを入れたことはこれまで一度もない、と言っていたそうです。

随分と完璧に見えますが、提示された文書を知人がつぶさに見通すと、その計画は相当に未熟なものに映ったと言います。ミッション、ビジョン、行動指針といった企業理念の3点セットは高らかに謳われているのはいいけれど、それを実現するロジックがまるで考えられていない。

現場の社員たちには、社長が掲げる経営計画に従って自部門の目標をブレークダウンさせたそうですが、その内容を見ると、部門視点の発想から生まれるようなお決まりの目標しかない。それは無理もないことで、スローガンだけ掲げられて経営シナリオが提示されないから、社員から見ると全体の構図がなにもイメージできないわけです。そのため結果的に、過去の経緯と自部門の課題意識の範疇でしか発想ができない。

ヒアリングの席では、進め方に対する社員からの反発はすごいという話だったそうです。それは当然そうなるだろうと、わたしは思います。

それを受けてこの知人はどういう提案を考えたか。結局、その社長の経営計画に沿ってDXを推進する支援企画を考えたのだそうです。

本来ならば、経営計画のレベルからやり直すのが正論です。経営計画が納得感をもって現場まで降りていないそもそもの要因は、社長が立案した経営計画が未熟だからです。漠然としたビジョンを具体的なシナリオにしない限り、起こっている問題は根本的には解決しません。しかし、そうはしない。なぜかといえば、すでにその計画は社内に展開され、社長が自ら説明してしまっているからです。

もし正論を通せば、その経営計画を全否定するように聞こえる。社長自身のモチベーションも低下するし、プライドも傷つくかもしれない。社内も、突如として方針転換がなされたように見えて混乱する可能性もある。支援を推進して成功裏に完了させるには、未熟な計画なことは承知で、それとなく促して良い方向になるように仕向ける支援をし、うまく立ち回ることを選択する。こういう判断です。

この判断は、まったく妥当だと思います。しかし一方で、この社長は損をしたなと、わたしは思います。勉強熱心なのはよいことですが、社長業をしていれば専門家ほどに究めることはほぼ無理です。勉強不足により我流に陥りすぎる結果に嵌るが、自身はそれに気づかない。そのまま他人に相談せずに、計画を実行してしまいました。計画を展開する前に識者に相談していれば、おそらく適切な助言がもらえ、実効性の高い計画立案ができ、それを良い形で社内に展開して円滑に浸透させられていたのではないでしょうか。

専門家であっても外部の人間がアドバイスしにくい状態になっている場合がある。それによって、本来なら得られていた助言が得られなくなる。そういうことがありえると、経営者のみなさんには頭の片隅に置いておいていただきたいと思います。

その「カルチャー」、どれほど大事ですか?

先日読んだ複数の記事によると、残念ながらというべきかやはりというべきか、日本企業のDXの取り組みはかなり雲行きが怪しいものになっているとのことです。

経済産業省が昨年末に公開した「DXレポート2(中間取りまとめ)」によれば、国内223企業が自社のDX推進状況を自己診断した結果、2020年10月時点で9割以上が未着手や一部での実施にとどまっているとのこと。また、同じ結果を情報処理推進機構(IPA)が分析した結果では、部門横断で持続的にDXに向けた取り組みを実施している企業は全体のわずか8%と報告されました。

別の角度の報告として、日経BP 総合研究所 イノベーションICTラボによる独自調査「デジタル化実態調査2020年版(DXサーベイ2020年版)」では、DXプロジェクトに関する経営トップの姿勢を分析しました。その結果、「(経営トップはDXプロジェクトの)重要性を理解しているものの、現場任せ」が37.5%を占めたといいます。「重要性を理解し、DX戦略をリードしている」は13.7%しかいなかったとのことです。

リーダーの丸投げ体質が幅を利かせ、お題目だけで何も進まない、という、従来型の日本企業の典型像が想像できるような結果だと思います。バズワードくらいでは体質まで変わらない、という、当たり前の結果とも受け取れるかもしれません。

一般論として、平時のリーダーシップと有事のリーダーシップは、あるべき姿が異なると言われます。平時においては、民主的なボトムアップを尊重し、その環境を整え維持するリーダーシップのほうが有効です。一方で、変革を伴う有事においては、強いリーダーが場合によっては強権を発動してでも、ある一定の方向へ集団を導くリーダーシップでないと、組織を窮地から救うことは困難です。

有事というのは、なにもネガティブな危機だけを指すのではありません。社会の進展、業界環境の変化、競合の台頭、顧客の志向変容なども、対象になる企業にとっては有事です。デジタル社会もまた、従来型のビジネスのやり方では立ち行かないという点で、同じ文脈に当てはまります。

有事のリーダーシップの問題という側面では、最近の政府の新型コロナ対応にもその典型がうかがえるように、わたしは感じています。

昨年終わりごろからいわゆる第3波が到来し、各方面でこれまでにない切迫した状況に陥ったところであるのは、周知のとおりです。マスコミに煽られて多くの国民が政府の対応を批判し、内閣支持率が下がっていると聞きますが、そもそも第3波に至った最大の要因は、政府の無策や怠慢ではなく、感染に対する危機意識が大きく緩んだ国民が大勢いることにあります。そうした国民には、政府を批判する資格はありません。

これは、感染拡大の元凶と目される若者層だけではなく、投資してでも出勤の大幅制限を実行しない企業の経営者も同罪だと、わたしは考えます。わたしが現在関わる企業はすべて、出社や出張は厳しく制限し、勤務はおおよそ95%程度は遠隔です。緊急事態宣言後も変わらない通勤風景の映像を見るにつけ、驚きを禁じ得ません。

一方で、こうした危機的状況を目前にしてもなお「皆様のご協力をお願いします」としか呼び掛けず、どれだけの批判と抵抗に遭おうが私権の制限に踏み込んででも絶対に止める、という気迫が見えない政府にも、有事のリーダーシップとして問題があるとの指摘は免れないと、わたしは考えます。

国民も政府もどちらも、あるべき姿を捉えて、それに向かって「自身を変える」行動をしようという意識が十分ではない。そんな状況ではないでしょうか。なんだか企業のDXに対する態度と同じに見えてきます。DXもまた、企業のビジネスそのもの、これまでの常識、従来からの前提、そうしたものを変革する行動なのです。

とかく日本の企業ではリーダーシップが弱いか緩い組織が多いと、個人的にも感じることがあります。階層が深い組織ほどそうです。あるべき姿を提言すると、それに賛同しながら、「理想はそうだね」「うちのカルチャーではなかなか難しいんだよね」などという発言が返ってくることがあります。そうした反応は、リーダーシップを強力に取れる人物がその組織にいないことの現れであると、わたしは捉えています。何事も、変えるのは楽ではありません。リーダーシップの弱い組織で変革を進めるのは、それこそ「カルチャーに合わない」のです。

そのカルチャーを守るのと、顧客や社会にさらに大きな価値を提供して業績を挙げるのと、どちらが組織にとって大事なのか。カルチャーを守ったらこの先利益が上がるのか。そういう問題であるはずです。あるべき姿が自明なのであれば、自身を変える決断と行動は、まずリーダーが、経営者が、率先してとって範を示すべきではないでしょうか。有事であるほどに、気迫をもった行動が示されなければ、メンバーはついて来ないものです。

デジタル化を始める前に、経営者にやめてほしいこと

いざデジタル化を本気で考えようとなった時、その会社の経営者が真っ先に考えやすいのは、ITをリードしてくれる人材を外から採用しようとすることです。

特に中堅以下の企業で、これまでITに “本気で” 取り組んでこなかった場合、社内にそれにふさわしい人材が不在であることが多くあります。育てようにもポテンシャルのある人材はいないし、いたとしても今度は育成ができる人材がいない。それであれば、いわゆるプロ人材か、大手で活躍するなど優秀な経歴を持った即戦力人材を取り込みたい。そう考えるわけです。

無理のないことです。ただし、この際に経営者がやってはいけないことがあります。それは、日本の経営者に顕著にみられる悪しき習性、「丸投げ」です。

「丸投げ」する経営者は、いわゆるプロのIT人材を雇うと、あとはその人物にITは全て任せてしまえばよいと考えます。なんとなくやりたい(が特に本気度が高いわけでもない)と思っていることだけ伝え、「何とかしてもらいたい」程度の指示しかしません。

つまり、経営者が課すITに対する要求は、ほとんどゼロ。ポリシーも指針も特になし。読んでほしいのは空気くらい、と言ったところでしょうか。

そうなると、任されたほうのプロ人材はどうするか。自分の好きなようにデジタル化を進めていきます。

「自分の好きなように」というのは、具体的には人によって異なるわけですが、ひとつ言えるのは、その企業の目指す姿を深掘りしてそれを強化しよう、支援しよう、とは ”考えない” ことです。まず、わかりやすい成果を出すこと、その次に、先進事例で取り上げられそうなネタに取り組むこと、それによってマスコミに取り上げられて有名になること。あわよくば何かの賞でももらえたら最高。およそそんなような方向で物事を進めるでしょう。

そうして出来上がるシステム基盤は、なんだか成果は出たようだけれど、そのプロ人材でしかコントロール不能で、周りにはよくわからないものになります。

このような取り組みを進めて「実績」を挙げた当のプロ人材は、自らの市場価値を高められて満足し、ほかの企業にまた転職していきます。そして残されたシステム基盤を、残った人材でメンテナンスし使いこなしていくことになります。それが難しいこと、会社がそのシステムに何となく引きずられていること、そんな負の側面は、社内で徐々に実感されていきます。

ここまでお話ししたシナリオは、外部人材を採用した場合の典型例のひとつです(ほかにもありますが、明るい話はあまりありません)。元々、経営者はプロ人材を雇ってデジタル化を進めようとしました。そんな経営者にとって、これで何が変革できたと言えるでしょうか。

実は、何も変わっていません。もしかすると、余計な資産を背負ってしまってマイナスかもしれません。しかしその要因は、丸投げした時点でつくられています。IT専門人材の問題なのではなく、経営者の問題なのです。

この「丸投げ」問題は、実はITだけでなく、営業、財務、商品企画、生産、広報など、あらゆる業務分野で起こっていることです。それもそのはずで、同様な考え方でプロ人材に丸投げすれば、他の業務でも同じシナリオになります。それにより、経営は現場のことがよくわからず、現場は自分の持ち場のことしかわからず、それぞれが個別のやり方に固執する部分最適が横行する会社となります。

そういう会社は、デジタル化を考える以前に、経営者が一念発起して社内を変え、全体を俯瞰し統率できる立場を取り戻す必要があります。それができていないなら、どんなプロ人材を入れようが、どんなシステムを導入しようが、ビジネスに永続的な進化をもたらすことはありません。

デジタル化を始めるなら、まず経営者が「丸投げしない」と心に誓うことから始めていただきたいのです。デジタル化について自ら徹底して考え抜き、自らが思うデジタル化を、自分が主導して進める。そういうポリシーを持ってから、人選していただきたいと願っています。

「行政のデジタル化」、すぐできると思っていますか?

先月、新しい内閣が発足しました。急転直下のことで個人的には驚きをもって見ていましたが、まずは良いスタートを切ったように見受けられます。

もちろん、問題は山積、これからが大変です。新内閣が掲げる政策のうち、目玉のひとつとして「行政のデジタル化推進」が掲げられました。早速デジタル担当相を任命し、陣頭指揮を執る体制です。この動きは、個人的にはまったく意外な事でしたが、頼もしいことだと思っています。

行政のデジタル化に関しては、マスコミも識者も一様に、日本は世界に遅れていると指摘しています。新型コロナの対策にまつわる一連の行政の取り組みで、それが露呈したと述べている向きが多く見られます。

その指摘は、間違ってはいないと思います。確かにお世辞にも世界トップとは言えませんし、それを競うようなレベルでもないのは事実です。ただし、日本の行政システムは遅れている、などということを気軽に指摘しても差し支えないほどの大物は、日本には存在しないのではないのかとも、わたしは考えます。

それほどに、日本の行政システムは巨大なのです。このレベルのシステム構築をやりきった経験を持つ人物は、日本にはいないのではないかと思っています。この国の「デジタル化推進」は、誰がリーダーでも簡単に達成できることではありません。

くどいかもしれませんが、このコラムで何度も取り上げている「基礎知識」を押さえておきましょう。デジタル化するとは、その組織の仕事の仕組みを変えること、そのものです。お金をかけて開発者をたくさん雇ってソフトなりシステムなりを開発すればよいことではありません。

つまり行政のデジタル化を推進するとは、この国の行政の仕組みを根本的に変えることを意味します。これは、いち企業が仕事の仕組みを変えることとはまるで比較にならない、超難問です。本当は「超」を5つくらい付けたいくらいです。

日本の行政システムは、明治以降脈々と積み上げられてきたものであり、戦時中を経て現在まで、権力のありかは変われども、その根本的な枠組み自体は変わっていません。百数十年以上にわたり、中央官庁があり、地方自治体が各地域を統括するという体制は不変です。それを前提に、様々な業務プロセスや法的な制約が、長年にわたって積み重ねられ、または部分的な修正を繰り返してきています。

そして現在、中央官庁だけで約58万人が勤務し、そのシステムには約1億2千万の人間が何らかの形で関係を持ちます。これでもスリムになったほうで、いまから20年ほど前は中央官庁に100万人以上の職員がいたとされます。

これよりも歴史と規模を兼ね備える組織体は、日本にはありません(あるなら教えてください)。圧倒的なダントツで「日本最大のシステム」なのです。

新型コロナに対応する過程で日本のITが後進的であることが露呈したと、ほとんどのマスコミや識者は指摘していますが、本質的にはITが後進的なのではなく、業務のしかたが非効率であるという指摘のほうがより妥当でしょう。

ただしその非効率の根源は、慣例やセクショナリズム等を原因とするような、正すべき要因だけではありません。法律や規制の拘束によるもの、民間団体等との間の責任分掌によるもの、過去の裁判の判決によるもの等々、様々なことに端を発している実態があります。国民の個人情報の取り扱いなどは、その最たる例のひとつでしょう。過去の最高裁判決で、国民の個人情報をどこかの機関や主体が一元化して保有することは憲法違反とみなされるという解釈がなされています。

これほどにしがらみの多いシステムが、日本に他にあるでしょうか。

デジタル化担当相が、就任が決まった際にテレビの取材に答えていたのを拝見しました。その際に印象的だったのは、インタビュアーに「デジタル化、できますか?」と問われて、「やるしかない、できると思います」と答えたところです。

自信があって道筋が見えているのなら、「簡単です、すぐやります」とでも回答したでしょう。そう言わなかった(言えなかった)のは、いかに重い任務なのか、よくお分かりだからではないでしょうか。

これほど巨大なシステムを根本から見直すというのは、明らかに短時間では無理です。先日、政府は行政のデジタル化を5年で達成すると明言していましたが、目立つところだけならともかく、完遂となれば5年では無理だろうと、わたしは推察しています。

おそらく多くの国民は「デジタル化なんてすぐやれよ」と思っているに違いないでしょう。わたしは、効果を出しやすいところから「計画的に」手を付けて国民の関心を引き付けながら、全体は長い目で取り組むような流れにすべきだろうと考えています。それが現実です。

そしてこれは、政治による強力なトップダウンでなければ、決して進めることはできません。その意味で、解散風を吹かせる議員やマスコミなど目もくれず、新総理がおっしゃるとおり「仕事をする」ことをぜひ期待したいと思います。