アフターコロナでは「ジョブ型雇用」なのか

アフターコロナにおける企業のスタイルとして、ジョブ型雇用も話題になっているようです。複数の大手企業が本格的にジョブ型雇用を実践すると宣言したといいます。

ジョブ型雇用というのは、職務記述書(ジョブディスクリプション)によって職務内容や期待する業務成果を規定し、それに基づいて社員が業務を遂行するという雇用形態で、欧米では一般的なスタイルとされています。そのジョブディスクリプションに基づいて、報酬も決定されます。

労働時間よりも成果によって評価を行おうとする流れにおいて、ジョブ型雇用というのはそれにフィットするように感じられるかもしれません。しかし、6月のコラムで論じた通り、成果主義に基づく制度にするなら的確な業務分解と設計が必要であり、同様のことがジョブ型雇用にも当てはまります。

加えて、ジョブ型雇用には、従来の日本型雇用スタイルでは考えもしなかった負の側面があることも念頭に置いて、その是非を議論すべきです。

例えば、あるITエンジニアをシステム開発要員として採用したとします。この人材をジョブ型雇用で採用した場合、ジョブディスクリプションには、従事してほしい開発分野や職務レベルに関して詳細な記述が盛り込まれ、会社と当人の間で合意が取られます。一種の契約です。

ご承知のとおり、ITの分野はシステム開発以外にも、システム企画・システム運用・技術調査・研究等々と幅広いものがあります。開発の分野だけでも、専門により細かい分解が可能です。

将来は社内のITリーダーになってもらおうと考えた時、日本の会社の管理職層のほとんどは候補の社員に対し、俯瞰できるだけの幅の広い経験を有することを重視するでしょう。会社によっては、技術だけでなく営業も経験してほしい、という意向を持つことも珍しくありません。

日本型の雇用スタイルなら、このような人事異動はなんら問題ありません。ところが、ジョブ型では問題になります。採用した人材は、ジョブディスクリプションの記述に基づいて職務を遂行しますが、それは裏を返せば、規定外の職務には一切対応しないということでもあります。先述のとおり、ジョブディスクリプションは契約です。その人材は、ジョブディスクリプションを盾に、異動を断ることができるのです。外国人社員ですと、実際にそうします。

ジョブ型雇用は、実力と経験を一定以上兼ね備えた、いわばプロ向けの制度です。プロは、成果で評価されます。プロは、成績が悪ければ報酬も減額になりますし、戦力外通告もありえます。その意味では、管理職やビジネスリーダークラスの人材、または特化した専門性を有する職種に対してであれば、機能する制度であるといえます。

一方で、まだ育成段階で安定した成果を企業にもたらすのは困難である若年層の社員に向いている制度ではありません。もし無理やり適用すれば、狭い領域の仕事しか知らない人材しか育成されないうえ、社内ではジョブローテーションがまるで成立しない状態になるでしょう。それはつまり、仕事が人に紐づく属人化の進行を意味します。属人化が進行した業務は、その担当者がいなくなることが経営リスクになります。

また、有能な人材を採用するならジョブ型雇用だ、というような論調も一部で見受けられますが、そういう考えもまた短絡的だと、わたしは思います。

ジョブ型雇用とはひとつの方法論であり、本来は、国籍も経歴も関係なく、社員が実績と努力次第で自ら望むポジションを得られる公平な人事制度を構築することが大きな目的になっています。有能な人材が興味を示してくれるかどうかは、本来その会社の事業や仕事が魅力的かどうかなわけで、ジョブ型雇用であることは2番目以降の理由にしかならないはずです。ましてや、報酬に惹かれて採用を決めるような人材は、数年もすれば報酬をネタにして他の会社に転職していくでしょう。

いかなる場合でも、先立つものは「どうあるべきか」「どうありたいか」という具体的な意志であって、ジョブ型か否かといった方法論やソリューションではありません。方法論など、自らの意志に従って好きなように使い分ければよいことです。

人材は、ビジネスのしくみをドライブする存在です。どれだけ素晴らしいしくみをデザインできても、それをドライブできなければ、仕組みは無用の長物と化します。マスコミに振り回されることなく、まずは人材に対する自らの考えを見える化するところから始めることをお勧めしたいと思います。そのうえでフィットするなら、ジョブ型はあり、ということになるでしょう。

蛇足ですが、去る6月24日に、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が、京都大学における医学研究に個人として総額100億円を寄付すると発表しました。欧米では、大物の事業家や経済人が何億ドルという自己資産を新型コロナ対策に寄付する動きが多くあります。こうしたことなら、素直に欧米のマネをしてほしいと思う次第です。

DXというよりも、JX??

デジタルトランスフォーメーション(DX)という、新たなバズワードが最近世間を賑わせています。DXに取り組まない企業はアフターコロナを生き残れない、とまで言っている人もいるようです。

冷めた目でこれを見ている人たちは、昔から言われていることの焼き直しだろう、というくらいにしか捉えていないことと思います。そのとおりだと、わたしも思います。ただし、この言葉の本質はきちんと認識しておき、今後の行動につなげる必要があろうかと思います。重要なのは、「デジタル」のほうではなく、「トランスフォーメーション」のほうです。

そもそもトランスフォーメーションとはどういう意味でしょうか。もちろん英語の ”transformation” から来ているのですが、英英辞典でこの語の基になっている “transform” を引くと、次のように定義されています。

to change in form, appearance, or structure

出典:Dictionary.com

形・姿・構造を変えること。つまり、表面に留まらずに中身をまったく違うものに変えてしまうこと、を意味します。

定義だけ見ても、何も感じないかもしれません。ただし、注意して見なければならないのは「まったく違うもの」という部分です。いままでとまったく違うものに、自らの手で意図的に転換することが、簡単にできるという人は、なかなかいません。

過去を振り返ってみれば、これが容易でないということ「だけ」は、簡単に理解することができます。

例えば、江戸時代に伊勢参りが大流行したという話は有名です。江戸時代には関所が設けられており、移動は現代の我々が想像する以上に難しいものであったと思われます。それでも流行したということは、余程大きいムーブメントだったのでしょう。

江戸時代ですので、当然ながら伊勢神宮までは歩いて向かうことになります。Wikipediaによれば、江戸からは片道15日、岩手からは100日もかかったそうです。九州からも参拝者がいたといいますから、そういう人は1年がかりだったかもしれません。

では、みなさんがその江戸時代の参拝客であることを、タイムスリップして想像してみてください。歩いて移動するのが常識だったその時代の人たちが、伊勢神宮まで「電車」や「飛行機」を使って移動することが、果たして容易に想像できたでしょうか。

江戸時代の日本において最も高速で移動できる手段は、馬であったと思われます。できるだけ高速で移動することを考えようとした時、常識の域から逃れられない人は、馬を高速にすること、例えばサラブレッドに育て上げるようなことを考えるでしょう。

それは「トランスフォーメーション」ではありません。「トランスフォーメーション」とは、江戸時代に電車や飛行機を考えることを意味します。徒歩という移動手段を「まったく違うもの」に変えるとは、そういうことです。

DXで言及されているトランスフォーメーションとはどういうことなのか。その本質は「自らの常識を転換する」ということに他ならない、とわたしは考えます。人間は、常識やバイアスにまみれています。それを完全に取り払って、常識外のまったく違うことを発想し、それを具体化するというのは、容易ではありません。しかしながら、常識を覆すことが時代を変えることでもあるというのは、歴史が示しています。問わなければならないのは、デジタルの巧拙ではなく、自分の常識を変えられるか、ということではないでしょうか。

ですから、「デジタルトランスフォーメーション」というのは本質を突いた言い方ではなく、むしろ「常識トランスフォーメーション」(JX??)とでも称するようなものだと、わたしは考えます。

デジタルを活用することで、従来の常識を一変させるのが比較的容易になることは、間違いないと思います。大いに活用しましょう。ただし、本質はデジタルを使うことにはありません。デジタルは、常識を変えるシナリオを実現する「手段」にすぎません。ですから、テレワークにしたくらいで、紙をデジタルに変えたくらいで、RPAで仕事を自動化したくらいで、みなさんの常識が変わっていないのなら、それはDXとは言わないのです。

ちなみに、ネーミングのセンスは、放っておいてください。

テレワークは「ニューノーマル」になるのか

新型コロナウイルスの蔓延によって社会が停滞と不自由を余儀なくされるなか、新しい考え方が台頭する動きがあります。それらを「ニューノーマル」と呼んでいるマスコミや識者も見られます。テレワークもまた、新しい働き方としてそこに含まれているようです。

テレワークは「ニューノーマル」として、新型コロナ後の社会の前提になるのでしょうか。わたし個人は、遠隔勤務はひとつのオプションとして、多くの企業で抵抗なく使われるようにはなると思います。ただしいわゆる「ノーマル」になる、つまり第一義的な位置づけで遠隔勤務するようになるには、想像を絶するほどの社会変容が必要だと考えています。紙をデジタルにすればよい、というレベルではありません。

一般的な企業がテレワークを前提とした労働体制にするには、従来から前提としてきた働き方が「壁」となるため、それらを突破しない限り「ノーマル」にはならないと考えられます。

大きな「壁」のひとつが、「時間を基にした労働管理と給与体系」です。既に明らかなとおり、テレワークでは厳密な時間管理はできません。自由に行動できる環境に社員がいる以上、行動を業務のみに拘束することは事実上不可能です。時間外労働を正確に測定するのも、実務上困難です。にもかかわらず労働を時間で管理しようとすればするほど、社員の行動監視を行うことになります。意識のないやり方をすれば、必ずやハラスメントやプライバシーの侵害という問題に直面します。

時間での管理に無理があるのなら、では何で管理するのか。成果での管理となります。ここに、大きなマインドシフトの「壁」があります。「成果」とは何なのか。

この壁の突破は不可能ではありませんが、仕組みを具体的にデザインできる人材が多くの企業にはいません。結果、ほとんどの企業には、この問題が究極の難題に見えるでしょう。

さらに別の「壁」は、「チームでの協働作業による労働生産」です。従来、多くの企業では複数の社員がチームを形成し、協働作業によって労働成果を生み出してきました。特に日本の企業は、チームの協調を伝統的に重視します。ところが、これもまた多くの人が理解済みと思いますが、テレワークは協働作業には向いていません。

テレワークに関しては多くの実態調査が行われています。煽るマスコミをよそに結果を冷静に観察すると、管理職・部下ともにコミュニケーションストレスを増やしていることが見て取れます。あのGoogleやFacebookでさえ、テレワークになるとしても社員の半数程度までだとし、オフィスの拡張計画を継続して進めているそうです。

意思疎通の問題点を技術で克服しようとする向きもありますが、日本人が言うところの「協調」というのは、「阿吽の呼吸」「以心伝心」、そうした無意識なレベルで機能するような話です。アバターがどれほど進化しても、少なくとも近い将来に、技術でこれらと同等の意思疎通を実現するのは困難だろうと、わたしは考えています。

こうした欠点を飲み込んででもテレワークをノーマルとするのなら、チームワークで成果を出すのは諦める業務設計をしなければなりません。つまり、事業を細かく因数分解のうえ、小さい単位で完結する独立した業務にする。独立した業務とは、他人の助けが不要か、何らかの情報をもらえるだけで完了できるか、いずれかの形で処理ができるという意味です。そのような業務を、個人に割り振る。

こうすれば、テレワークでも業務遂行が可能になります。実はこれが実現すると、先ほど挙げた「成果での管理」も可能になります。究極の難題も克服できるわけです。

しかしこの業務分解は、一部の業種(すぐに思いつくところでは、理容美容など専門技術を持った人員が単独で遂行する業種)ではすんなり実現可能ですが、ほとんどの場合ではやはり「業務設計」が難題になるでしょう。また仮に業務設計ができたとして、それによって生まれる相当な数の小業務を、漏れなく管理できるマネジャーが必要、という問題も出てきます。

ここまで2つの壁と、それらをどう突破できるか、という話をしましたが、これはつまり何を意味するかというと、職種を問わずに「裁量労働制を採用する」ということなのです。テレワークと裁量労働制、直観的にフィットするように思えます。しかしあらゆる職種で裁量労働制を適用するというのは、現行の法律では認められていません。

つまり、テレワークを本当にノーマルにするのなら、法律の全面改正も必要になるわけです。これもまた大きな「壁」です。先にホワイトカラーエグゼンプションの是非について国会で激しく対立があった経緯から見ても、法律を変えてでもテレワークをノーマルにするエネルギーがこの国にあるとは考えにくいところです。

3密の回避、非接触の推奨、などをきっかけに、あらゆる業種でデジタルによる自動化・省人化はさらに進むでしょう。一方で働き方の面では、新型コロナの問題が終息するにつれ、大部分のビジネスパーソンはオフィスや現場に戻っていくだろう、とわたしは想像しています。

ただし、それを覆してテレワークがニューノーマルになるだけの社会変容がもし起こるなら、誰もが想像しなかったような「マイクロサービスによる企業社会」がそこに待っていると思います。

もう始まっている「そなえよつねに」

子どものころ、地域のボーイスカウトの団体に所属していました。「そなえよつねに」は、ボーイスカウトのモットーとして知られる言葉です。「いつなん時、いかなる場所で、いかなることが起こった場合でも善処ができるように、常々準備を怠ることなかれ」という意味だと教えられます。子供ですと難しいことはよくわかりませんが、活動のなかで常に言われますし、歌を歌ったりもしますので、子供でもなんとなく覚えてしまうものです。

そうして、今でも思い出すわけです。特に今のような有事の際に。少しネットで検索してみたら、この標語を題材にブログを書いている人たちをたくさん見つけることができました。

大震災も豪雨災害も金融危機も複数回あったのに備えていなかった企業は、いま必死な思いで危機に対応していることだろうと思います。そうであるとしたら、その企業の経営者は、どれほど事前に備えを実行していたかを大いに反省しなければなりません。

テレワークひとつとっても、備えていた企業は円滑に移行し業務を継続できています。備えていた企業はおよそデジタル化に対する意識が高い企業であり、それなりに時間と労力をかけて「備えてきた」と言ったほうが適切かもしれません。本来そうした取り組みであるものを、危機になったので今すぐどうにかしようというのは、所詮無理がある話なのです。

資金繰りもまた同様です。備えていた企業は、いつ何時苦しむか知れないと考えて内部留保しようとし、これもまた時間と労力をかけて行います。例えば、仕事が一切入らなくなっても従業員に1年間は給与を払い続けられるだけの額を目標に内部留保しようとする中小企業がいます。「カネをくれないと休業できない」と発言する経営者を時々見かけますが、国や自治体に事態を招いた直接的な責任があるのではない限り、補助や補償を受ける側は、金融支援してもらうのが当たり前だと思ってはいけないと、わたしは考えます。

現在の医療現場の問題にも、思うところがあります。いま医療従事者の方々は、想像もつかないほどの作業負荷と高い感染リスクという状況下で業務をされていると聞きます。ただし、業務環境がそもそも労働集約的であることに関しては、随分前から誰もが知っていたことです。街のクリニックでさえ、窓口で整理券を取ってから診察になるまで1時間待たされるなど珍しくありません。

日本の医療は、街医者から大規模病院に至るまで全国一律の階層型組織です。その分、全国どの医院にかかってもほとんど同質の医療サービスが受けられるのが利点ですが、一方で組織は硬直化しやすいわけです。そうした組織ほど、トップ層の人々に改善の意識が強くなければ、課題は課題のまま根本的に解決できないのです。

この業界では以前から、草の根レベルの局地的な改善の取り組みしか話が聞かれません。最近の状況下においてオンライン診療、AIによる診断支援、PCR検査拡大の是非などの問題が取りざたされるにつけ、発言を聞いているとこの業界を主導する立場の人たちのアタマの固さがより浮き彫りになっているように感じられてなりません。そのしわ寄せは常に現場の人々と患者に行きます。

経営の話に戻しましょう。至らなかった点は反省するにしても、ではいま、当座をどうにかしのぐ方策を実行できた後、経営者の方々はこれから先について「そなえて」いるでしょうか。

新型コロナウイルスに関しては、まだわかっていないことが多くあります。ウイルスであれば抗体ができるはずのところを、新型コロナは再び陽性になる患者のケースが複数報告されています。理由は明確ではありません。特効薬がいつできるかもまだ不明です。どこかの時点でスッキリ解決はせず、どちら付かずの状態がしばらく継続するだろうと、容易に想像できます。

経済活動や人の動きも、元には戻らないかもしれません。この問題の発生前は顧客にとって価値だったものが、今後は価値ではなくなることもありえます。業務のしかた、サプライチェーン、取引先との関係、業界を取り巻く環境、世界の動き、様々なものが、元には戻らないかもしれません。人々が一斉に遊興に出かけるようにはならないかもしれませんし、海外からの旅行客もそれほど戻らないかもしれません。来年の今頃まで問題が長引けば、東京でのオリンピック・パラリンピックの開催もなくなるかもしれません。

悲観的なことばかりではなく、新たなニーズが発生することもあります。3密にならずに楽しめる方法の提供、自宅にいながら享受できるサービス、遠隔でも人とつながれる仕組み、などは必要性が高まっています。それに伴って、物を運ぶニーズや通信のニーズも高くなっています。ニーズを捉えようとしている会社は、うまく発想を転換して対応を実際に始めています。

ニューノーマル、アフターコロナ、などと呼ぶ向きもあるようですが、事後がどうなるかというよりも、これまでとはまったく異なるやり方や考え方をしなければならない可能性に注目すべきではないでしょうか。意識をシフトし必要な物事を整えるには、前記のように時間も労力もかかります。差し迫ってから考え始めるのでは遅いことを学び、「そなえ」はもう始めなければならないだろうと思います。

こんなときこそBCP(事業継続計画)

新型コロナウイルスによる影響が広がり、収まる気配がまだありません。先が見えない中で、社会全体が活動を縮小する流れになっています。

各企業は、当面この事態が続く、またはさらに悪くなることを念頭に、事業活動を考えていかなければならない状況でしょう。ひとまずは目先のことに考えが行ってしまうのは避けられないかもしれませんが、ここで考えたいのが「事業継続計画(BCP)」のことです。

BCPは、天変地異など不測の事態が発生した場合に、事業をどのような体制にシフトして継続を図るかをまとめた計画です。東日本大震災の直後には相当にクローズアップされましたし、昨年までに頻発した水害の際にも注目されました。災害のたびにBCPの重要性が問われています。

少なくとも日本企業の間では、BCPというと、地震や台風への備えというイメージで捉えている向きが多いのではないかと、個人的には感じています。しかしながら、BCPの想定には元から、パンデミックも含まれています。直近のパンデミックとして思い出されるSARSの蔓延の際は、日本国内では今回ほどの大騒ぎにまではならなかったと記憶していますが、そのせいもあるのか、多くの人々にはあまり実感が持てないケースだったかもしれません。

実は今回の騒動が発生するより前に、関係するある場でBCPが話題になったことがありました。その際にわたしがパンデミックのことを指摘すると、実感がわかない様子でポカンとしている関係者が多かったのを思い出します。なかには「ひねくれた指摘を」と思った人もいたかもしれません。

パンデミックが他の災害と異なることのひとつは、局所性が小さい、つまり場所を問わないという特性でしょう。地震や台風は、直接の被害地域とそうでない地域に分かれますが、パンデミックではそれがほとんど期待できません。つまり、東と西で「冗長」を取っていれば対策できるというものではありません。すべての人が万遍なく影響を受けてしまいます。そのことは、今回の経験を通して多くの人々の記憶に残るでしょう。

BCPを考慮するうえで大事になることは、「問答無用ですべて止まるとしたとき、どうするか」を考えることだと言われます。今回、人の動き、モノの動き、関係各所の動き、経済の動き、あらゆる事業活動の動きがそれこそ問答無用で縮小しました。一方では、それによる新たなニーズも発生しました。そうした経験を通して、改めて自社のBCPを考え直し、明確な計画がないのなら検討し、自社のビジネスシステムのあり方を問い直してはいかがでしょうか。

ところで、世間では今回の騒動をきっかけにテレワークが話題になっていますが、「BCP=テレワーク」では必ずしもありません。この緊急事態下においては選択の余地はほぼないのは間違いありません。ただし、ソリューションありきの考え方は、平時・有事に関わらず、いかなる状況でもやめるべきです。社内に混乱を招きます。先に考えるべきなのは、自社のビジネスシステムのあり方でしょう。

テレワークに関して言えば、本来なら技術の導入と同時に、勤務体系や現場での仕事の管理、メンバー間での情報のやり取りや責任者の承認、勤務評価の仕方、発生する費用の負担の考え方など、多くの面で業務の仕組みを大幅に見直す必要が出てきます。従業員の負担やパフォーマンスも、在宅時の環境によっては大きく変わります。

オフィス勤務では想定しないような仕組みに組み立てなおして、自社のビジネスシステムがより機能性や柔軟性、成果創出能力などが向上するということなのか。そうした判断をするというのが、テレワークを考えるうえでの本来の筋だと考えます。今回、問題なくテレワークに移行できている企業は、平時からその準備ができていた企業です。

もちろん、有事であっても仕事を止めないためにテレワークが必要だ、という判断はあり得ます。そうであるなら、上記のように業務の仕組みをテレワークが馴染む形で的確に組みなおし、平時から常に運用するという覚悟を含めて判断すべきところです。

今回得られている教訓、またこれまでの自然災害から得られた教訓を振り返りながら、目先だけでなくあるべき姿も含めて、自社のビジネスの仕組みを考え直す契機にされることをお勧めしたいと思います。安心したいなら、他社より早く自らで考え備えることで勝ち取ってください。

情報セキュリティの責任を負うのは、誰か

最近も、防衛産業を担う複数の大手企業で、情報漏えいの可能性がある不正アクセスがあったことが公表されました。それらの企業のなかには、防衛産業を担うと同時に、情報セキュリティに関連したソリューションも販売しているところがあります。いわば、情報セキュリティ対策の面ではトップクラスの組織であったはずです。そうした企業でも不正アクセスにもろさがあるという現実を、再び突き付けられたと感じます。

つまり、「攻撃されれば成功されてしまう確率は高い」という前提で、モノを考える必要があります。

そんな中で、気になる記事を見かけました。米国と英国での調査だということですが、企業のCISO(最高情報セキュリティ責任者)は強いストレスにさらされ、休日でも気持ちが休まらず、結果として健康を害する人も少なくなく、平均在任期間は26カ月だった、という内容です。

記事では、CISOの仕事の現実を、次のように表現しています。

(記事からの引用)
現在のCISOの仕事は、低予算で、労働時間は長く、経営陣に対する発言力も小さく、雇用できる訓練された専門家は減る一方で、しかもサイバー攻撃に対抗できるインフラを十分に整えられないストレスに恒常的に晒され、常に新たな脅威のプレッシャーを受けている。そして、よい仕事をしても褒められることがない一方で、何かが起これば全責任を負わされるという過酷なものだ。

日本の中堅中小企業で、CISOを置いているところは、ほとんどないだろうと推察します。ということは、上記のような役割を担うのは社長自身であると言えます。その場合、平時は上記のような窮屈さもストレスもプレッシャーも感じないでしょうが、いざ情報セキュリティに関する問題が明るみに出れば、途端に「全責任を負わされる」という状況になるでしょう。

だからといって、「では責任を負ってもらえる専門人材を雇えばよい」という発想もまた、問題があるわけです。情報セキュリティの問題を、特定の責任者が全責任を負う問題に帰結させるべきではありません。わたしは2014年に、ベネッセコーポレーションで大規模な個人情報漏えい事件が発覚した際に、この点について当コラムで指摘をしました。同社でもこの事件の際、当時のCIOが責任を取って辞任しています。

先に申しあげたとおり、「攻撃されれば成功されてしまう確率は高い、という前提で、モノを考える必要がある」のです。どんなに実績がある優秀な情報セキュリティ人材を採用しようが、これは同じです。

情報セキュリティ対策を整備するなら、その体制や各種の具体策は、社長以下「組織」の総意で立案し合意するように検討を推進するべきだろうと思います。

具体的な対策を立案するにあたって、それをリードする専門人材は必要でしょう。ただし、立案する対策に責任を持つのはあくまで組織であって特定の責任者に帰属させない、例えば委員会組織をつくってそこで議論と承認を行い、責任は委員会組織で持つようにする、という体制にするべきです。そしてそれを明確に社内に示し、関係者には無用なストレスを感じることなく従事してもらいます。

一方で、「攻撃されれば成功されてしまう確率は高い、という前提で、モノを考える」とすれば、どのレベルまで対策を高度に整備すれば必要十分なのか、も課題になりやすいかもしれません。

この点についてわたしは、その会社なりに徹底的に考えたことが対外的に説明できるならそれで十分、と考えます。何らかの攻撃をされ、何らかのリスクが現実のものとなり、対外的に公表や謝罪をする必要が発生した時、会社は説明責任を求められます。このときに対策の努力を認めてもらえるだけの説明ができるかどうか、という判断基準です。

事故が起こった以上は、批判は免れないでしょう。しかしその際に、「無策で穴だらけだった」と思われるか、「できることはすべてやっていたが不十分な点があった」と思われるかでは、雲泥の差があります。また、考え抜かれた対策がすでにあるのなら、その問題点を認識して補う行動もしやすいものです。逆に、たいして考え抜かれていないなら、有事の際に素早い対応はできず、傷口はさらに広がります。

大事故になればなるほど、社会的な影響が大きな事故であるほど、CISOがいようがいまいが、説明責任は社長自身が果たさなければなりません。それは、過去の大企業での情報セキュリティ事故における、記者会見の報道などを見てもわかることでしょう。そのとき、言いよどむことのない説明を行うことができるのか。経営者の方々には、このような視点で自社の情報セキュリティの体制と対策を、見つめていただければと思います。

がんばれ、「第4の携帯電話事業者」

楽天モバイルが先日、現在行っている携帯電話の試験サービスについて、新たに2万人の利用者を追加で募集すると発表しました(募集は既に終了)。限定地域に居住する人が対象で、今年3月末までの試験期間中、国内の音声通話やデータ通信、国際電話、国際ローミングなどが無料で利用できるということです。

同社は当初、通信サービスの本格開始を2019年10月からとしていましたが、その直前になって開始を2020年4月に延期し、その間は試験サービス期間として、利用者を限定してサービスを無料提供してきました。これによってインフラやシステムの課題を洗い出し、解決したいという考えのようです。

無料提供とはいえ、実ユーザーを使って問題を出させるとは何事か、と捉える向きもあるでしょう。5000人という限定利用であるにもかかわらず、昨年12月には3時間にわたる通信障害を起こしてしまい、総務省から業務改善のプレッシャーが強くかかっていると言われます。

この状況を見て、利用者としては当然、そのクオリティに懸念を持つだろうと思います。わたしもそう思います。しかし個人的には、同社にはぜひこのハードルを乗り越えて成功してほしいと、願っているところです。

その理由のひとつは、業界の活性化の期待です。現在の通信業界は、良くも悪くも「安定」しています。安定したサービスを提供していることは大いに喜ばしいことですが、一方で料金は常に横並び、というよりも、高値安定の状態です。毎月1万円にもなろうかという金額を、多くの利用者が何の疑問もなく支払っているのが、わたしには不思議でなりません。

料金プランを観察するとわかりますが、複雑怪奇でわかりにくいことに隠れて、あまり使わない利用者のことは考慮から外したプランしかないのが実態です。高齢者などがガラケーからスマホに乗り換えないのは、スマホが難しいからというより、月額料金が上がってしまうからです。それは見ないふりをし、「ガラケーは古い」という風潮を助長して、そもそもガラケー端末を売らなくすることで選択肢をなくしてスマホへ乗り換えさせている、というのが本音のところではないのかと、わたしは見ています。

古いというのなら、進化させればよいだけのことです。これまでもそうしてきたはずです。そして数年もすれば、ガラケーを彷彿とさせる「折り畳み式のスマホ」が発売されるでしょう。

(追記: 2/12付の日経新聞によれば、サムスン電子が、縦方向に折りたためるスマホを2020年2月に発売すると発表しました。)

3大キャリアはいずれも、いま企業買収や出資にいそしんでいますが、節操のない資金拠出を可能にしているのは、高止まりしている通信料金がもたらす利益です。

政府が「利益の取り過ぎだ」と問題視しているのは、ご承知のとおりです。総務省が楽天モバイルにプレッシャーをかけるのは、もちろん業務改善の意味合いが大きいでしょうが、一方で、ちゃんと起ち上がってくれないと業界の競争が活性化しないので困る、という期待もあろうかと思います。

わたしが楽天モバイルの成功を願う別の理由は、彼らが構築しようとしているインフラにあります。世界的に見ても前例がない、非常に技術レベルの高いことを実現しようとしているのです。

高価な専用ハードウェアで構成するのが通例であるところを、汎用サーバー群で構成することで設備投資額を桁違いに抑制、その基盤上ではネットワークの機能を仮想化して稼働させるとしています。

機能を仮想化するということには、クラウドサービスのように運用を柔軟かつ低コストで行えるという利点があります。斬新なサービスをどこよりも早い準備期間で実装し、提供できる可能性を秘めたインフラです。もし安定稼働を実現できたなら、既存キャリアはその運用の効率性や柔軟性で太刀打ちできなくなるかもしれません。

もちろん、基地局の展開が遅い、サービスに有利な周波数帯を持たない、など様々な面で同社には課題が指摘されています。しかし、高いハードルをぜひ乗り越え、インパクトのあるサービスを世間に打ち出して、業界に旋風を巻き起こしてほしいと、個人的には熱烈応援したい気持ちです。

「新聞読んで知った」は、もうやめよう

オリンピック・パラリンピックの開催が東京で予定され、経済の面でも転換点になるかもしれない2020年になりました。

年頭にあたってさまざまに目指すところを思い描いている方も多いだろうと思いますが、僭越ながらわたしのほうからひとつ、経営者のみなさんにぜひ気にしてほしいことを述べさせてください。

それが、今月のコラムのタイトルです。

ITやデジタルのトレンドに関して、経営者の方々のアタマに何らかの「フラグ」が立つきっかけは、わたしが知る限りでは、ほぼ「新聞」であると理解しています。敢えてどことは申し上げませんが、新聞社までほぼ共通しています。

ほとんどの経営者が、○○新聞で記事を読んでから、社内の部下に「これ、うちではどうなんだ」と聞いています。

今年から、それはもうやめましょう、というご提案です。

実はITやデジタルに関して(おそらくほかの分野でも同じなのでしょうが)、メジャーな新聞に記事が載る時点では、その筋の人たちにとってその情報はすでに周知の事項です。もう少し踏み込んで言ってしまうと、「あー今頃その話が出てきたの」という感覚で見ています。

実際、多くの経営者がバイブルにしている○○新聞のIT関連記事は、その新聞社の傘下にある専門誌がすでに報じている内容を再編集して記事にしていることが、非常に多いのが実態です。そのため、すでに専門誌のほうを読んでいる人からすればなおさら、「記事使いまわしてるの?」という感じになるのです。

つまり、経営者の方々は先取りしているつもりかもしれませんが、実はまったく遅いということです。

考えてみれば当然のことかもしれません。そのデジタル技術についてすでに挑戦している組織があるから、すでにそれが顕著な傾向になっているから、大手の新聞がようやく取り上げるのですから。

ITの分野は、そのタイミングで考え始めているのでは、場合によっては周回以上の遅れになります。実行することについては早いのがよいとは限りませんが、考え始めることについては、早いほうが確実に有利です。

今年からは、新聞だけを「頼みの情報源」にするのはやめましょう。その代わり、社内の担当者に、専任のタスクとして情報収集をさせてください。情報収集した内容は経営者との間で頻繁に共有し、そのなかでトレンドや方法論をキャッチアップします。いわば、ミニ・シンクタンクです。

そのようにして、大衆が話題にする前に、社内ですでに話題になっているという状態を目指してください。

この取り組みがうまく軌道に乗れば、その会社の経営者は、○○新聞を見るにつけ、「もうそれは、検討を始めているよ」と反応するようになるでしょう。そんな会社を、ぜひ目指していただきたいと願っています。

 

ROI による IT 投資判断を、もうやめる方法

IT導入を企画する際に、組織の中で必ずと言っていいほど取り沙汰されるのが、「ROIを明確にせよ」という話です。

投資を伴うのですから、それに見合う効果があるのかがはっきりしないといけない。見合わないなら投資するに値しないと判断しても致し方ない。まったく理にかなった考え方です。

しかし現実を見れば、IT投資のなかには投資効果を必ずしも容易に測定できないものがあります。

例えば、システム基盤やネットワークなどのインフラに対する投資、または情報セキュリティに対する投資などは典型です。こうしたものは、投資効果が測れないからと言って投資しないわけにはいかないことが、多くあります。

また、日本企業におけるIT投資の典型ともいえる業務効率化投資も、実はよく考えると、望むような投資効果を本当に獲得できるのか怪しい点があります。

投資効果の算定で典型的なものに、「時間の削減」があります。IT導入により削減を見込める業務時間に、時間当たり人件費を掛け合わせて削減コストを算出し、それが投資額より多ければ、投資効果があると判断する、というものです。

しかし実際は、担当者の業務時間を削減したところで実は人件費が減るわけではないという、よく言われる問題に直面します。そこで、余剰人員をほかの業務にシフトするなどと言ってみるのですが、本当にそうしているケースがどれだけあるのか、本当にシフトしたとして異動させられた担当者のモチベーションには影響がないのか、シフトすることによって発生する新たなコストがないのか等々、怪しいところがあります。

そして時間削減効果のように、ROIの評価では往々にして、リアルにキャッシュを生み出す効果ではなく、実際にはキャッシュを得られるわけではないバーチャルな効果が語られることが多くはないでしょうか。

場合によっては、実際にコスト削減や売り上げの増加が算定できるケースもあるかもしれません。例えば、利用しているITサービスのコストが単純に下がるのであれば、投資判断は容易です。しかし多くのケースでは、投資した直後には効果が見えるけれど継続するわけではないという、一時的な効果であることを見ていない場合があります。または、IT導入によって別の運用コストが上がる、会社として背負うリスク要素が増加するなど、新しく発生するコストには目をつぶっているということも、よくあります。

結局、ROIによる評価は、案件を通したい担当者による、辻褄合わせの数字遊びになりやすいのです。

おそらくほとんどの経営者はこのことが直観的に分かっていると思うのですが、ROIを問うのをやめたという話は、個人的には聞いたことがありません。おそらく、他にアイデアがないからではないかと推察します。

そこで提案なのですが、ROIの代わりに「改善効果の創出を約束してもらう」というのはどうでしょうか。

ITを導入することで、ITが適用された業務には何らかの「ゆとり」が生まれるはずです。ゆとりがあるのなら、そのゆとりを使って、ビジネスにかかる改善策を発案し、会社に貢献することができるはずです。

一般論として、仕事が忙しく目の前の業務をさばくのに精いっぱいの職場で、改善のアイデアは決して生まれません。アイデアの創出に不可欠なのが「ゆとり」なのです。そこで、ITの導入によって「ゆとり」を与える代わりに、そのゆとりによって創出できる改善とその効果を明確化せよ、と要求するわけです。このとき、企画する改善アイデアとIT投資は、必ずしも直接リンクしていなくても構わないとします。

創出できる改善効果を担保にしてIT投資が行われるとしたら、それを自ら謳った責任部門にしてみれば、相応なプレッシャーがかかるはずです。約束する効果を出すべく、企画段階から導入後の活用のシーンを必死に考えるだろうと見込めます。経営側としては、提案してくる改善アイデアがIT投資に比して獲得効果が高いと見るか否か、という判断をするわけです。

実は、ROIによる投資判断の問題として、事後評価が甘くなるというものもあります。投資の時点でしか議論されずに導入後に実証の測定を行っていない、または行ったとしてもやはり数合わせを行ってお茶を濁している、ということがよくあるのです。これに対し、具体的な改善を問うならば、その取り組みと効果を自然にキャッチアップすることが可能で、事後評価が甘くなる問題を解決しやすいのです。

改善を軸にした投資判断にすると、ROIでは投資判断がしにくかった案件であっても検討対象に挙げやすくなります。その分、稟議を通しやすい分野に偏ることなく適切でタイムリーな投資が可能になると期待できます。

経営レベルでは感じていないかもしれませんが、現場からしてみれば、稟議を通しにくい分野は案件化を敬遠しがちなのです。そのことで、例えば情報セキュリティ対策が後手に回りリスクが発現して被害に遭うとしたら、それは悲劇なわけです。

それにも増して、こうした方法によって組織に「継続して改善を試みる文化」が定着すれば、組織の強さにつながるのではないでしょうか。

 

スケジュール不要論と甘い考え

スタートアップ系のイケイケな経営者の方などに会うと時々、戦略やらスケジュールやらを立てるなど無意味だと主張されることがあります。

当然ですが経営者も性格はさまざまです。一般的には、コンサルタント経験のある経営者にとっては、戦略や計画をまず考えるというのは自然なことのようです。一方で、営業やマーケティングで成功して経営者になった人の中には、上記のような意識で仕事をしている人が多いように(偏見かもしれませんが)お見受けしています。無意味だ、と主張するその心は、「決めたところで思うようには運ばず、どうせ変わるから無駄」ということのようです。

わたしは職業柄、様々な企業のビジネス計画とその取り組みの結果を見てきていますが、やはり世の中の物事に対して「これが決定版」と銘打てることは、案外少ないように思います。目的や前提などによって、取るべき方針は異なるのです。スケジュールに関して言えば、立てるべきケースと、立てるべきでないケース、どちらも存在すると考えています。従って、冒頭の意見は一面的なモノの見方であって、あまり賛成できません。

基本的にはスケジュールは立てるべきもので、それはリーダーが立案してメンバーに提示すべきものです。ただし、スケジュールはあえて立てないほうがよいケースがあります。典型的には、「試す」ことが要求されるケースです。

「試す」ケースとは、例えばアイデアを実験的に実践してみる、まずは実体験することを優先してみる、考えるよりやってみたほうが良い、などといった試行錯誤を要する類の取り組みです。このケースでは、失敗を許容することが前提になります。そのため、スケジュールを立てたところで変更がかかる可能性が高い。だから立てるべきではない、ということです。

その代わりこのケースで事前に決めるべきなのは、「撤退基準」です。どういう状況になったら問答無用で即終了とするのか、決めておきます。

撤退基準を事前に決めておくことは、大変重要です。取り組みを進めるメンバーたちは、のめり込むにつれて、その案件に日々愛着が増していきます。どれだけ失敗しようとも、成功させるまで何とか続けたいと考えるようになります。当事者であるメンバーが冷静に撤退の判断をすることは、ほぼ不可能です。撤退基準がなければ、スケジュールもないのですから、ずるずると続けていつまでも終わることはありません。

合わせて重要なのは、その取り組みのオーナー(経営者や事業責任者)は、決してその中身に “関与しない” ことです。リソースだけ与え、あとはメンバーの好きなようにさせ、結果だけ問います。オーナーが現場に関与すると、メンバーと同じ愛着がわいてしまいます。誰も撤退判断ができなくなります。

「試す」ケースでは、失敗を許容します。許容するとは、「失敗して当たり前」「挑戦することによって学べ」という考えを持つということです。失敗者を落第者として扱ってはいけません。誰も挑戦しなくなります。ただし、失敗した取り組みは組織として反省を行い、その要因を理解し、失敗の殿堂に入れて組織のノウハウに昇華させます。

いわゆる「イノベーション」は、アイデアマンに任せて放っておけば良いものでは決してなく、組織として取り組める環境と共有された考え方があってこそ、成就するものだとわたしは考えます。実際、イノベーションに成功している組織には、そうした仕組みが整っています。

このように、スケジュールを立てるべきでなく、むしろ立てることが害になるようなケースがあるのは確かです。ただし、これを盾にして計画など一切立てなくてよいと考える人が時々いるので、気をつけたいものです。

そういう人は、要するに計画を立てるのが苦手です。上手くできないことから体よく逃げる口実にしようとしている節があります。しかし、現実の取り組みにおいては、そのほとんどが「スケジュールがあるべき」案件です。立てるべきなのに立てなくてよいと考えるのは、単なる甘えでしかありません。

組織をリードする経営者や事業責任者には、自身が戦略立案に長けているとともに、上記のようなところを冷静かつドライに見極める目も要求されていると感じます。