アフターコロナにおける企業のスタイルとして、ジョブ型雇用も話題になっているようです。複数の大手企業が本格的にジョブ型雇用を実践すると宣言したといいます。
ジョブ型雇用というのは、職務記述書(ジョブディスクリプション)によって職務内容や期待する業務成果を規定し、それに基づいて社員が業務を遂行するという雇用形態で、欧米では一般的なスタイルとされています。そのジョブディスクリプションに基づいて、報酬も決定されます。
労働時間よりも成果によって評価を行おうとする流れにおいて、ジョブ型雇用というのはそれにフィットするように感じられるかもしれません。しかし、6月のコラムで論じた通り、成果主義に基づく制度にするなら的確な業務分解と設計が必要であり、同様のことがジョブ型雇用にも当てはまります。
加えて、ジョブ型雇用には、従来の日本型雇用スタイルでは考えもしなかった負の側面があることも念頭に置いて、その是非を議論すべきです。
例えば、あるITエンジニアをシステム開発要員として採用したとします。この人材をジョブ型雇用で採用した場合、ジョブディスクリプションには、従事してほしい開発分野や職務レベルに関して詳細な記述が盛り込まれ、会社と当人の間で合意が取られます。一種の契約です。
ご承知のとおり、ITの分野はシステム開発以外にも、システム企画・システム運用・技術調査・研究等々と幅広いものがあります。開発の分野だけでも、専門により細かい分解が可能です。
将来は社内のITリーダーになってもらおうと考えた時、日本の会社の管理職層のほとんどは候補の社員に対し、俯瞰できるだけの幅の広い経験を有することを重視するでしょう。会社によっては、技術だけでなく営業も経験してほしい、という意向を持つことも珍しくありません。
日本型の雇用スタイルなら、このような人事異動はなんら問題ありません。ところが、ジョブ型では問題になります。採用した人材は、ジョブディスクリプションの記述に基づいて職務を遂行しますが、それは裏を返せば、規定外の職務には一切対応しないということでもあります。先述のとおり、ジョブディスクリプションは契約です。その人材は、ジョブディスクリプションを盾に、異動を断ることができるのです。外国人社員ですと、実際にそうします。
ジョブ型雇用は、実力と経験を一定以上兼ね備えた、いわばプロ向けの制度です。プロは、成果で評価されます。プロは、成績が悪ければ報酬も減額になりますし、戦力外通告もありえます。その意味では、管理職やビジネスリーダークラスの人材、または特化した専門性を有する職種に対してであれば、機能する制度であるといえます。
一方で、まだ育成段階で安定した成果を企業にもたらすのは困難である若年層の社員に向いている制度ではありません。もし無理やり適用すれば、狭い領域の仕事しか知らない人材しか育成されないうえ、社内ではジョブローテーションがまるで成立しない状態になるでしょう。それはつまり、仕事が人に紐づく属人化の進行を意味します。属人化が進行した業務は、その担当者がいなくなることが経営リスクになります。
また、有能な人材を採用するならジョブ型雇用だ、というような論調も一部で見受けられますが、そういう考えもまた短絡的だと、わたしは思います。
ジョブ型雇用とはひとつの方法論であり、本来は、国籍も経歴も関係なく、社員が実績と努力次第で自ら望むポジションを得られる公平な人事制度を構築することが大きな目的になっています。有能な人材が興味を示してくれるかどうかは、本来その会社の事業や仕事が魅力的かどうかなわけで、ジョブ型雇用であることは2番目以降の理由にしかならないはずです。ましてや、報酬に惹かれて採用を決めるような人材は、数年もすれば報酬をネタにして他の会社に転職していくでしょう。
いかなる場合でも、先立つものは「どうあるべきか」「どうありたいか」という具体的な意志であって、ジョブ型か否かといった方法論やソリューションではありません。方法論など、自らの意志に従って好きなように使い分ければよいことです。
人材は、ビジネスのしくみをドライブする存在です。どれだけ素晴らしいしくみをデザインできても、それをドライブできなければ、仕組みは無用の長物と化します。マスコミに振り回されることなく、まずは人材に対する自らの考えを見える化するところから始めることをお勧めしたいと思います。そのうえでフィットするなら、ジョブ型はあり、ということになるでしょう。
蛇足ですが、去る6月24日に、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が、京都大学における医学研究に個人として総額100億円を寄付すると発表しました。欧米では、大物の事業家や経済人が何億ドルという自己資産を新型コロナ対策に寄付する動きが多くあります。こうしたことなら、素直に欧米のマネをしてほしいと思う次第です。