「前提」が満たされていないと、経営戦略は立てられない

少なくともわたしの理解では、経営戦略を企画するにあたって「このやり方で立案すればよい」という決定版的な手法はありません。

そのせいもあり、いろんな人がいろんな方法を掲げて、自分の方法こそ常識的、と主張しているように感じます。その方法は、その人がどの分野で研鑽を積んできたのかで、けっこう特色が出ているように思います。財務に強い人は管理会計的なアプローチ、経営コンサルの人はフレームワークを駆使した手法、といった具合です。

わたしはもともとエンジニア上がりでして、経営戦略について先達に直接教えてもらう機会がありませんでした。そのため専ら文献を読み漁って研究したほうです。いろんな人が書いているものを、いろいろと読みました。そして学んだ知識をそれぞれ咀嚼しながら実践してみて良い所どりし、いま活用しているノウハウに昇華させてきています。まだ改善の余地はあるだろうと思いますが、概ね考え方のスジは固まっていると感じているところです。

わたしが考えるに、いろんな人が提示しているいろんな方法は、どれもあながち間違ってはいません。ただし、それぞれの手法をうまく適用するには必ず「前提」があり、前提を捉えずにそれらの方法を適用しようとすると、だいたいうまく行きません。

例えば、経営戦略の企画においては、大まかには次の事項が明確になっている必要があるとわたしは考えています。

  1. 顧客に対して、どのような価値を提供しようとしているのか
  2. その提供価値を実現するシナリオは、具体的に何か
  3. シナリオを実行するオペレーティングモデルは、整備されているか(または整備できるか)
  4. 計画の実行が成功し、価値が提供できたことは、どうやって認識できるのか

こと中小規模の企業において問題なのは、上記の1と2が曖昧で、定まっていないことです。

これらが曖昧なまま、一方で日々の業務に関しては、過去の経緯のもとに ”一応” 稼働していたりします。その事実だけをもって、上記の3は「できている」と理解していることが往々にしてあるのですが、それは大きな間違いです。1と2が曖昧なのに3ができていることはありえません。ですから本当のところは、3もできてはいません。

管理会計を念頭に置いた財務的なアプローチを採用しようとする経営戦略立案では、形式的に内部分析や外部分析は行うのですが、それらはどちらかというと管理会計的な問題抽出をしようという試みに留まり、実質的には上記の1、2、3をすっ飛ばして、いきなり計数管理を始めようとします。

つまり、このアプローチを採用するうえでの前提は、上記の1、2、3のすべてが揃っていることです。

このアプローチは、現在のオペレーションに大きな課題がなく、その会社の価値提供の方向性にも業務プロセスがきちんと従っているなら、問題なく適用可能であり、コストの最適化や利益の最大化といった形で成果も出せるでしょう。

しかし、前記したとおり、往々にして中小規模の企業は、価値提供のあり方、その価値提供を実現するためのシナリオ、こうしたものに具体性がないのです。その状況で計数管理的なアプローチだけ実践しようとしても、単に計数管理の仕組みが整うだけです。

計数管理では数字を追いますが、数字は「結果」です。結果をモニタする目的は、自分が思った通りの成果が挙げられたのかどうかを確認することです。そもそも「自分が思った通り」とはどういうことなのかが定義されていないところで、結果だけ追っても意味がないことです。

こういうふうに申し上げると、利益率何%だとか、在庫回転日数だとか、そうした指標を管理することに意味があるのだという反論がありますが、およそそうした目標値は、業界標準や他社との比較、場合によってはコンサルタントの「感覚」で設定された数字だったりします。しかし、業界標準は「自分の思った通り」ではありません。ですから、その数値を達成したところで、実践した企業に、成し遂げた実感は伴わないのです。

利益が出る、売上が上がる、というのは結構なことですが、厄介なことに利益や売上というのは、これまでの成り行きや過去の経緯を踏襲するだけでも上がったりするものです。何も意図していないのにたまたま業績がよいことさえあります。それをモニタしてわかることは、過去の延長線上で(なんとなく成り行きで)行ってきたことが良かったのか悪かったのか、に過ぎません。

それで構わないのなら、始めから経営戦略の企画など不要だと思います。重要なことは、財務の数字がよくなったという結果より、「自分が思った通りに」利益や売上が上がったのか、ではないでしょうか。思った通りの成果を繰り返すから、企業は継続して成長するのですから。

経営戦略を立てようと取り組まれる経営者におかれては、立案に向けて情報を取り入れる中で、専門家が言っているからといって無防備に情報を受け入れるのではなく、その手法を採用する前に整っていなければならない「前提」を探し、自社がいまどこまで満たせているのか、よく考えてみることから始めていただきたいと思います。それによって、企画への取り組みかたやアプローチは変わります。

恐れていた攻撃の手口から考える、経営とクラウド

昨年のことになりますが、ある大手小売業のECサイトで発覚したクレジットカードの不正利用をきっかけに、その企業を含む11社の小売業者が運営するECサイトから顧客情報が漏えいした可能性が発覚、それぞれ公表されるに至りました。

これらの小売業に共通していたのは、同じITベンダーが提供するECサイト構築SaaS、つまりクラウド事業者のサービスを利用していたことでした。問い合わせを受けて同ITベンダーが調査をした結果、SaaSのサーバーに対する不正アクセスの痕跡、およびサーバーに不正なプログラムが置かれていたことなどを発見したということです。

その後の分析によれば、攻撃者は、SaaSのテナントであったある小売業のECサイトを通じて不正な注文を送り、そのなかに埋め込んだ不正な命令を実行させて、SaaS内部のサーバーを乗っ取ることに成功したようです。それによって、直接攻撃されたその小売業のサイトのみならず、同SaaSを利用していた他のテナントの領域にも不正に侵入する足掛かりを獲得しました。結果、複数の企業の顧客データに不正にアクセスできたといいます。

この攻撃事例を聞いて、これまで恐れてきた事象がとうとう現実になったなと感じました。

パブリッククラウドのサービスは、巨大なシステム基盤上にサービスが構築され、それを多くの顧客が同じ条件のもとに利用する、という形態になっています。優れた機能が使い勝手の良いかたちで準備され、また初期コストのハードルがかなり低いということで、大小問わず多くの企業が利用しています。当然ながら、相乗り型のサービスとはいえ、各テナントの使い方には一定以上の自由度が確保されていますし、データも個別に蓄積できることになっています。

ただし、そうした区分けは、ソフトウェアの制御によって「論理的」に行われています。「論理的」とは「物理的」の反対です。つまり、テナントごとの区画は、戸建て住宅のように物理的に分かれているわけではなく、ソフトウェアに施された「設定」で区分けされている、ということです。

一方で、ソフトウェアには、プログラムの不具合であるバグや脆弱性が「必ず」あります。あらゆる情報システムは、バグや脆弱性は必ずあるけれど見つかってはいない、という状態で運用されているわけです。

クラウドベンダーは、顧客が利用する領域はセキュリティを確保した形で保護されていると謳っています。もし顧客にセキュリティ上の問題が発生するとしたら、それは顧客が行った設定に問題があるのだ、というのが共通した認識になっています。

そこにウソはもちろんないのですが、それはあくまで「ソフトウェアによって」成立していることです。そのソフトウェアに万が一脆弱性やバグがあれば、その保証は崩壊するかもしれません。

それが今回、実際に起こってしまったということだと思います。

注目すべきことは、顧客情報が漏えいしたことよりも、攻撃者がテナントを横断して不正を行うことができた点です。つまり、自社がどれだけ気を付けて対策を実行していたとしても、自分は知らない他の利用者を経由してサービスの大本が乗っ取られ、自社の対策は水泡と化す、というシナリオが成立してしまうということです。

今回攻撃を受けたSaaSベンダーは、決してセキュリティ対策が緩かったわけではなかったといいます。定期的なセキュリティチェックの実践、脆弱性の定期検査の受診、侵入検知サービスの利用など、一定の対策は行っていたようです。それでも今回の攻撃は防御できなかったと主張しています。

また、近年の攻撃は、アプリケーションへの攻撃から基盤ソフトウェアに対する攻撃がより増加している傾向にもあるようです。先にも記した通り、クラウドサービスは複数の利用者が共通の基盤上に構築された機能を、相乗りする形で利用します。その構造上、システム基盤で利用されるソフトウェアは利用者共通です。もし基盤ソフトウェアの脆弱性が攻撃されれば、容易に今回と同様の事象が起こりうることになるわけです。

クラウドサービスを利用するメリットは、その価値によっては非常に大きく、リスクを上回ることもあると思います。避けるよりも、うまく使うほうが賢い選択です。時代もまた、クラウドが使える前提でITを考える時代になっています。

ただし、上記のような攻撃が現実に成功していることを、経営リスクとしてよく理解しておきたいところです。預けているクラウドサービスから自社の情報が漏えいした時に、顧客に謝罪するのは、クラウドベンダーではなくてみなさん自身です。何を預けるのか。どの業務領域を依存するのか。経営にとって重要な選択です。よくわからないからIT専門の人に任せるという話ではないのです。

「わからない」「難しい」は、組織が不健康である証

先日、一般企業の経営者および従業員に対する意識調査の結果を報じる記事を見ました。

それによると、20代から40代の一般社員と管理職で、DX(Digital Transformation)に対して不安を感じるという人が、60%近くに及んだといいます。その一方で、経営層やエキスパート層では、不安は比較的小さいとのことでした。

記事では、エキスパート層の不安が小さいのは妥当としても、経営層の不安が小さいというのは自信過剰か丸投げ体質の表れなのではないかと指摘していましたが(笑)、わたしが個人的に興味を引いたのは、そちらではありません。一般社員と管理職の不安の「度合い」です。

というのも、その不安の理由として挙げられたもののうち最多だったのが、「わからないことが増えて追いつけなくなる」だったためです。

これは調査結果ではなくわたし個人の見解ですが、ビジネスパーソンが「わからない」「難しい」と述べるとき、それは字面通りの意味で捉えるべきではないと考えています。

職業柄、ITに関連した新しい技術の話はもちろん、ビジネスを考察するうえで必要な概念やフレームワークを説明する機会がたくさんあります。そのような場において、「わからない」「難しい」という反応をされることは珍しくありません。

始めは、わたしの説明のしかたが悪いのだと思いました。実際にそういう時もあっただろうと思います。

しかし、ごくシンプルな問いかけをしたときでさえも、同じ反応だったことが何度もあったのです。それで、なぜなのか考えてみたことがあります。

これまでのそうした経験を振り返ってみると、じつはその反応は「人による」かもしれないことに気付きました。つまり、成長意欲が高い、普段から課題解決に当たっている、できることを増やしたい、そんなことを考えている企業や人からは、「わからない」「難しい」はほとんど出てこない。一方で、日常業務レベルでの困りごとくらいしか課題がない、今のままで別に構わない、余計な仕事を増やしたくない、そんなふうに考えている企業や人だと、新しいことの説明をするとほぼ決まって「わからない」「難しい」が出てくる。そんな傾向です。

後者の企業や人の場合、考えているように見えて、実のところ思考そのものは活動していないと思われます。

そもそも人間の脳というのは、記憶した所作や行動は、できるだけパワーをかけずに処理できるようにするために、神経のネットワークを強固にします。最終的には、そのネットワークのパスに条件反射的に通すことで、考えなくても動作できるようになります。そうして覚えていかないと多くの複雑な物事に対処できないわけであり、脳は合理的に構成されているといえます。

ただしそれは、見かたを変えれば、できるだけ考えないようにしようと働くのですから、「脳にはさぼり癖がある」ということです。それが極まって、日常の活動のほとんどのことを覚えてしまえば、実は脳のほとんどの領域はシゴトしていない、シゴトしなくても生きていける、という状態になるわけです。

会社のあるある話として、新しく入ってきた社員が業務のやり方に対して素朴な疑問を投げかけると、ベテラン社員が「前からそうしているから」「これまでに例がないからできない」「ウチではそうしない」などと回答するだけで、そのやり方である理由は答えられない、というのを聞いたことがないでしょうか。それもまた、同じ類の話です。そうしてムダをムダと思わない現場が放置されていて誰も気づかない、などということが起こります。

しかし、脳がさぼってシゴトしないかどうかは、個人の意識次第です。物事をマスターすることで脳が稼働するパワーが空くなら、その余力を使って違うことや新しいことを考えようとしている人、そういう環境に身を置いている人、ならば、脳にさぼっている暇はないわけです。

要するに、その企業の社員が、目指すものや克服しなければならない課題を持ち、何とか達成しようと日常的に頭をひねりながら働いているのか否かの差、つまりその会社の企業文化の差、が生み出す傾向なのではないか、と考えられるのです。

すなわち、「思考停止」が常態化する企業文化を形成してきてしまった、経営者の問題なのです。

わたしが読んだ冒頭の記事の記者氏は、DXに不安を感じないなど経営者の自信過剰だと指摘していましたが、わたしの考えではそんな浅い問題ではなく、会社が成長するためのリソースとしてパワー不足であることの表れなのではないか、それは経営者が適切に目標設定し組織としての成長を促してこなかった結果なのではないか、ということなのです。

もちろんこの問題、経営者の意識と行動次第で、解決することができると思います。ただ、ヒトの問題なので時間はかかりますが。

「表現力」がビジネスシステムの根源

昨年は幸いにも多くの企業様と出会い、支援させていただく機会にも恵まれました。

世間では「DX」ということばが流通し、一般の企業でも随分トピックに上がっていたように感じました。ただ、わたしが実際に支援をしていて一番感じたのは、デジタルの活用力がどうなのかではありません。「”表現力” がそもそも根本的に大事な力だな」ということでした。

表現力というと、なんともアートな世界に思えるかもしれませんが、実のところどんな企業でも、普段のシゴトの中で使わなければならない能力です。社長が経営方針を発表する、今期の売上に直結する事業企画をプレゼンする、顧客に対応を行った経緯を社内で説明する、トラブルの原因を分析してまとめる。あらゆる立場の人が、あらゆる場面で必要とするのが、表現力です。

表現力が乏しいと、周囲には理解してもらえません。根を詰めて考え抜いた思考も、他人に伝わりません。本当は的を射た良いアイデアであっても、理解できません。大事なことを定めて周囲と意思統一したくても、気持ちをひとつにできません。ほかの人にやってほしいことがあっても、うまくやってもらえません。

表現力のようなアナログな話と、ITを扱うデジタルな話は、まったく別世界のことに思えます。しかし、ことビジネスシステムにおいては、企業が何を達成したいのか定められたところに、あるべき姿のデザインが行われます。そこで、情報を基にしたビジネスロジックが設計されます。そうしたデザインを経て初めて、役に立つシステムが具体化されるものです。

そうであるとすると、そもそも根源にあるのは、「何をしたいのか」「何がなされるべきなのか」ということですが、それは誰かによって「表現」されないと、日の目を見ることはありません。日の目を見ないということは、根源が生まれないことになるわけですから、何も起こらない、ということです。

当たり前のことに聞こえるかもしれません。しかし、「何をしたいのか」「何がなされるべきなのか」がどれだけうまく表現できているか、そこで差がついているケースが非常に多いように思えたのが、わたしが昨年中の支援を通じて最も感じたことでした。

ぼんやりとしかイメージがない物事を言葉で表現する、まだ具体化できていない内容を図式で表す、課題の根源を探るためにからくりを見える化する。こうした表現力があるかないかは、企業の組織力さえ左右する極めて貴重な能力だと思います。

わたしも他山の石とすべきことですが、経営者のみなさんもまた、ご自身また社内の人たちの表現力を一度見つめなおし、また磨く機会を豊富に設ける取り組みをされてみてはいかがでしょうか。みなさんの会社の社員は、他人が抱えているモヤモヤをスイスイ図式化できますか?ご自身がつくる経営会議の資料は、気づけば文字だらけで、誰にも読んでもらえそうにないものに仕上がっていませんか?図や表は書いてみたけれど、レイアウトや言葉が稚拙で何が言いたいのかよくわからないことはありませんか?

組織の表現力がいまより倍増するだけで、決して大げさではなく、会社のビジネスシステムのあり様が大きく変化するかもしれません。

新年にあたり、わたし自身も改めて心掛けていきたいと考えています。

顧客は「目指しているもの」を見ている

先日、十年超ぶりくらいでしょうか、あるファミレスに入りました。

店に入ると、店員が出迎えにきません。わたしが知る昔の経験では、店に入るとすかさず店員が気付いて「何名様ですか?」と聞かれるという認識でした。ところが、なかなか出てきません。待っているべきなのか、勝手に座っていいのか、判断がつかずに立ち尽くしていると、ようやく店員が(わたしに気づいてやって来たのではなく)近くを通りかかったので、こちらから声をかけました。「お好きな席へどうぞ」という回答でした。 

席に座ると、タブレット端末が置いてあります。操作説明はありません。自分で勝手にその端末からオーダーしろということのようです。端末の使い勝手は特に悪くはなく、適当に選んで注文をしました。

選択したメニューはどうやらセルフでドリンクバーに取りに行くスタイルだったようなことに、注文してから気づきました。よく見直すと、ほとんどのメニューがそうなっています。それはそれで理解しましたが、セルフのカウンターに向かうと様々なものが置いてあります。ここで、何をセルフで取っていいのか、わかっていないことに気付きました。席に引き返してメニューを見返し、取っていいものを理解してから、再びカウンターまで取りに行きました。

ドリンクバーで、水とスープを自分で取って席に戻ると、先ほどのタブレット端末では動画がしきりに流れています。どうやら、注文後はデジタルサイネージに化けて宣伝を流し続けるようです。その宣伝は、わたしが店を出るまで続きました。

料理は(さすがに)店員が運んできました。食事を済ませると、見透かしていたかのようにすぐさま店員がやってきて、食後の皿を下げていきました。

ふと店内を見渡すと、入店してからというもの、店員の姿はフロアにほぼ見当たりません。かなりスタッフは少ないようです。お昼時の真っ最中の時間帯でしたが、店員はバックヤードも含めて5人いたかいないか、というふうに見受けました。

人力によるノーマルな会計を済ませて店を出て、「この店は、いったい何を目指しているのだろう」と、わたしは感じました。

このファミレスは、過去に提供していたような来店客へのホスピタリティは、完全に捨てているように思います。コロナ禍が要因なのか、恒常的な人員不足が要因なのかは知りません。いずれにせよ、店員の対応や人数だけでなく店内の業務の仕組みからみても、ホスピタリティへの努力は捨てていると判断せざるを得ません。

そうかといって、デジタルにより自動化や効率化を推し進めたようにも見えません。そうしたつもりなのかもしれませんが、感心するような取り組みには気づきませんでした。空席が目立ち来店客が少ない割に、オーダーが出てくるまでの時間はそれほど早い印象はありませんでした。少ないスタッフでも従来と変わらない提供体制、ということなのかもしれませんが、顧客には関係のないことです。

オーダー用のタブレットにしても、使い慣れている人ならともかく、不得手な客にとっては、説明もなしに操作するのはなかなか抵抗があるに違いありません。現に、ある客に店員が、「そこじゃないです、青いボタンです!」などと、操作をインストラクションしている声が、どこからともなく店内に響いていました。

そのわりに、タブレットを使って抜け目なくマーケティングしようという意図はうかがえました。しかし実際には、その映像は客にほぼ顧みられていないだろうと感じましたし、しきりに動画が流れるさまは、人によってはうざったく思えるかもしれません。

要員不足に効率化で対応しよう、デジタルでクロスセルを促そう、業務を整流化して回転率を上げよう、などという話は五月雨式に思いつくかもしれませんが、この店には「それで、何を目指しているの?」がないように思います。少なくとも、ホスピタリティの高さではないし、デジタルによる洗練された顧客体験でもないし、ファストフードのようなスピード感でもない。それらは間違いなく、客の立場からは感じられませんでした。

共感できるポリシーが感じられない店には、客はなんとなくですが、また来たいとは思いません。二度と来ないとまでは思わずとも、また来たいとは思いません。わたしのような専門家は論理的にそう思うのですが、専門家ではない一般の客でも、深層心理でなんとなくそう思うものです。

このファミレスチェーンは過去に、データ分析を緻密に実行できる情報基盤を構築したとして事例になっていました。ファミレスの業務フォーマットはおよそどの店舗も同じである可能性が高く、今回のわたしの体験がどの店舗でもほぼ同じだと仮定すれば、このサービス提供でどんなデータ分析を行ったところで、事業の発展につながる有益な情報を得ることはないだろうと推察します。

「先進的で有名になる」ことには、意味がない

ITにおいてユーザー企業が「先進的」であることには、ほとんど意味がありません。

ITというトピックになると、とかく先進性に価値があるという方向で理解されるような向きもあるようです。しかし、ITに先進的であることは、ユーザー企業にとっての目的にはほとんどなりえません。

ビジネスの成長や発展に役立つこと、顧客の支持を得ること、こうしたことに役立つことしか、企業においてIT採用の目的にはならないと思います。

こんなことは言ってしまえば当たり前なのですが、しかし現実には、そうでない動機付けでITの取り組みを考えている(ようにしか見えない)責任者やリーダーが、案外目立ちます。

先進的な取り組みをしていると、人より先を行っているように感じられて得意げになるのかもしれません。マスコミが取材しに来て褒めたたえられてうれしくなるのかもしれません。先進的な取り組みであるとして表彰されたりすれば、誇らしくなるのかもしれません。

しかしながら、中長期的に見て、そうしたことで事業として得られるものは、たいてい大したことありません。

世間に知れることでエンジニアの入社志望が増えるのはメリットかもしれませんが、同時にベンダーからの売り込みは急増するだろうと思います。「あの会社はカネを使う」と思われるからです。先進的であるということで名が知れてしまった以上、投資の手を緩めるわけにもいかなくなるでしょう。そんなふうにして投資ありきの投資を繰り返しても、事業に対するリターンを毎度創出できるはずもありません。

しばらくは、経営者がよくわかっていないことをいいことに、適当なメリットをこじつけて稟議を通せるかもしれませんが、経営者が気付いたときには、実は無用だった投資の積み重ねが大いなる不良資産に化けているかもしれません。

過去の事例を振り返れば、マスコミに取り上げられてえらく著名になった人物によって導入された情報システムや組織体制が、その人物が転職したり社長が交代したりした途端に、ほとんど否定されて違う取り組みが推進されるという、残念な顛末のケースばかり目立つように思います。

本当の意味でITをうまく活用できている企業というのは、それを手掛けたとされる特定の個人が有名になることはおよそ少ないものです。むしろ、その会社のシステムそのものが有名になります。そしてそれが脈々と引き継がれ、進化していきます。

世間に知られるようになったから、表彰されたから、などという理由で、得意満面にならないことです。そのITが自社のビジネスの役に立っているのか。顧客がそのITによってもっと買ってくれるようになったのか。経営者は、そういうことを冷静かつ多面的に評価すべきだと思います。当然、そうした評価ができるだけの知識も必要です。

成長させたい事業なら、トップが動かないとダメな理由

ビジネスがデジタル前提となる時代にシフトしつつあります。そんななか、これまでの事業の常識を変える取り組みや、切り口を変えた事業を推進するといった、新しい取り組みに挑戦する企業は増えているように思います。

こうした取り組みは、すなわちビジネスシステムを描きなおすこと、設計しなおすこと、でもあります。根本的なレベルから事業の仕組みを構築する必要があるならば、それはトップが主導し、トップが絵を描き、トップが指導して仕組みを構築することです。そうでなければ、一貫した組織行動のもとに、実現したい提供価値を実現することはできません。

トップが本気でやらない事業がうまくいかないのは、当たり前のことです。

例えば、自社の強みを生かして新規事業を立ち上げることを考えたとします。その場合、強みを生かすのは良いとしても、事業の戦略立案はもちろん、ビジネスシステムをイチから設計し、実行に移し、軌道に乗せなければなりません。

誰も描いたことのない絵を描き、未開拓の地に道を作らなければならないわけですから、その事業の総責任者であるトップがそれを描かなければ、トップより下のメンバーはリアルなイメージを持つことができません。

こういう時に、心得のないトップは往々にして、自分の得意分野ではないところを、権限委譲という聞こえの良い言葉で「全面的に」他者に丸投げします。全面的でなければ救いようがあるのですが、残念ながら全面的であることがほとんどです。そうやって、全体設計もせずに自分からその部分を切り離すのです。それが、業務の属人化の始まりになります。

業務の属人化というのは、始めのうちはあまり問題になりません。権限委譲された人が成果を出せば、うまく行ったような気になるものです。しかし、年を追うごとに、事業が拡大するごとに、属人的な業務をつくってしまった問題は顕在化していきます。

気づいたときには、修正しようにもしがたい、修正するとしたら多大なるコストとエネルギーを伴う課題と化すのです。そしてたいていは自力で修正できず、ある日、依存度を増した特定の人物が機能しなくなることで、事業の成長は止まります。

他にも例えば、トップが本気で取り組まないがために、現場における過去の成功体験からくる考え方や、染みついたカルチャーを変えられないケースがあります。

モノ売りを得意としていた会社が、これからはコト売りだと宣言してサブスクビジネスを始めようとしたとします。

言うまでもありませんが、モノの販売とサブスクビジネスは、似て非なる事業です。モノの販売では、売ってしまえば顧客との関係はそこでいったん区切りを迎えます。一方でサブスクビジネスは、顧客が商品やサービスを継続して利用することによるLTV(Life Time Value)を最大化することを目指す事業です。

つまりサブスクは、商品やサービスを売ってからが本当の勝負の始まりです。顧客と定常的に接点を確保し、使用状況を把握し、困っていることがあれば企業側から手を差し伸べ、必要ならばアップセルやクロスセルを勧奨し、新機能やサービスの開発を間断なく進めて提供し、顧客が自社の商品やサービスによって成功を収めてくれるように、継続的に働きかけることが重要だとされます。

そうした一連の取り組みを「カスタマーサクセス」と呼ぶわけですが、これはモノを売って終わっていた企業からすれば、かなりのマインドシフトを伴う取り組みです。

マインドシフトが組織としてできないまま、モノ売りのカルチャーでサブスクに取り組もうとすると、口で言うこととは裏腹にまったく行動が伴いません。

言葉ではコト売りしよう、顧客のカスタマーサクセスを実現しよう、などと言っているわりに、KPIは相変わらず商品やサービスの販売数や販売時の利益で測定する。事業施策もモノ売りの販促と何も変わらない。カスタマーサクセスなどと一応称しているけれど、行動の実態は従来の「カスタマーサポート」と何も変わらない。なにより顧客の情報を自分で持っていないし集めようともしない。顧客のLTVを向上させることの重要性は頭では理解しているのに、現場では「商品の手離れがよいのが営業的にはベスト」などと指示が出ている。そんなことがフツウに起こります。

それもまた、トップが従来から染みついたカルチャーを根本から変えようと本気で取り組まないから、起こることです。

本当に成長させたい事業なのであれば、トップが主導してビジネスシステムを設計するべきだと、わたしは思います。

ITを「ツール」にしている会社のザンネンな誤解

ここ最近は、中小規模の企業でも、ITを一切使っていないという企業に出会うことはほぼなくなりました。どの企業でも、何らかのソフトウェアやデジタル機器が使われています。

ただし、典型的な誤解のもとにITがうまく使えていない企業も、いまだ多いように感じられます。

例えば、バックオフィス周りは結構IT化しました、勤怠管理、会計処理、給与等々。でもその程度で、会社の中でITの存在感は特に大きくありません、というケース。

別の例で、ウチは結構ITは使っている、いろんなツールを入れて使ってきた、でもこれでいいのか、なんだかモヤモヤしながら使っているんだよね、というケース。

ITはずいぶんその適用範囲のすそ野が広がり、安価で手軽に使えるようになりました。それはとてもよいことなのですが、企業が自らの事業の強化のためにITを使おうとするのなら、素人考えでの使い方から脱しないと、なかなか「強化」するには至りません。

ITがうまく事業の強化につなげられていない会社というのは、ITが「便利なツール」程度にしかなっていません。

例えば、あるA社では、外回りしなければならない営業担当者が、会社に戻らないと客先に電話連絡できなかったところに、会社がひとり一台のスマホを支給したところ、出先からでも顧客に電話ができるようになった、という話をしているとします。

一方で、同様にスマホが営業担当者に支給されているB社では、客先に定期的に送っている情報は頃合いを自動的に見計らってメールで送信されるようにしていて、もしそれに反応があった場合には担当者に通知が自動でスマホに届くので、その時に初めて客先に連絡を入れる。直接の訪問先は厳選されるので、そもそも外回りの頻度自体は多くない、と言っているとします。

A社とB社では、同じ外回り営業のことでも、全然質の異なる話をしています。あくまでわかりやすく丸めた例ですが、概ねこんな雰囲気の違いが見られるのです。

どこで、こうした違いが生まれるのでしょうか。

たしかに、どこででも自由に電話ができるようなったのは、ひとつの効率化でしょう。しかしA社は、そもそも出先で電話のやり取りが必要になるのはなぜか、という疑いは持っていません。B社は、その根本要因を問うことから始めているから、A社とは根本的に異なる営業プロセスの発想が生まれるわけです。

A社のITの使い方は、素人の域を脱していません。フツウの人が、電気屋で家電を買ってきて使う、カーディーラーで車を購入して運転する、といったレベルと同じです。

こうした使い方では、ITは単なるツールです。もちろん、それで満足できるケースもあるでしょう。しかし、その程度の適用なら、他の会社でもできます。事業の強化になっているようで、実はその程度の活用は世間的には平均レベル、当たり前の活用でしかありません。

一方でB社の場合、ITを使うことによって「システム」にしている、と言えます。

システムというものの意味は、実はけっこう誤解・曲解されています。「システム」という語は当然ながら英語から来ているのですが、辞書を引くとこんな定義が書いてあります。

a group of related parts that work together as a whole for a particular purpose

出典:Longman Dictionary of Contemporary English

つまり、「特定の目的のもとで」「一体となって連動する」「関連した部品の」「集まり」、ということです。

何らかの目的を定め、それを達成するための仕組みを設計し、仕組みに必要な部品を集め、連動するように組み立てる。そのための基盤やパーツとして、ITを使っているのです。

これが、本来の「システム」です。

単にITという「ツール」を使っているだけなのに、「ウチはシステムを入れている」と主張する企業が結構いるのですが、まったく誤解しています。「システムは設計しないとできない」という事実が抜け落ちているのです。

いわゆる ”DX” に必要なこととは、これまで行ってきた習慣ややり方が本当に必要なことなのかを疑い、自社のあり方をデザインし、それを実装できる、組織としての能力です。

大正時代ならクルマを持っているだけで強力なアドバンテージだったのが、いまやクルマの所有はたいして感心はされないフツウのこととなっています。ITもまた、単なるツールで使っているだけなら何のアドバンテージにもならないフツウのことであると、改めて認識して、その先へ早く進みましょう。

「アプリは自社で内製」がフツウになる時代

近年は、アプリケーションを内製開発する企業がずいぶん増えてきたように感じています。

背景には、ノーコード/ローコード開発ツールのようなプログラミングを簡易化するソリューションの充実、SaaSやPaaSの機能充実化などがあります。コードが書けなくても、専門知識があまりなくても、パーツを組み合わせるような形で処理を組み、データの器を用意することで、簡易で単純なものであれば、動くアプリケーションが短時間のうちに完成してしまうようになっています。

アプリケーション開発の敷居が下がったことで、モノによっては、現場の業務部門の人でも欲しいアプリケーションを自作できるような状況になっています。そうであるなら、外部のベンダーに頼んで何カ月もかかるよりもはるかにメリットがあるということで、ソフトウェアを内製する企業が増えているわけです。

かつてEUC(End User Computing)という概念が流行しました。そのときと同じような雰囲気があります。EUCはその後廃れましたが、なぜ衰退したかというと、各所であまりにも好き勝手にプログラムが作られて、会社としてそれらの管理が行き届かなくなり、作ったものを誰もメンテナンスできなくなった、ということが要因のひとつでした。エクセルのマクロにも、同じような話があることは有名です。

今回の内製化の動きでも、同じような事態に陥る企業はおそらくあるでしょう。ただし、過去の反省を踏まえて、制作したアプリをうまく管理する仕組みを導入したり、またはそれを意識したガバナンス体制を敷くなど、工夫する企業も多くあります。

さらには、アプリと共に使えるセンサーやモジュール、はてはロボットまでも、割と手軽に手が届く状況も生まれています。価格も比較的低下し、またインタフェースが標準化されてきたことで、アプリとの連携も随分しやすくなりました。一昔前までは大企業がおカネを相当かけてやっていたようなことが、それこそ個人レベルでも実行可能な状況なのです。

うまく内製してアプリを使いこなしている企業を見ていると、そうして自在に開発すること自体が、対応力・スピード・柔軟性などといった競争力に直結するようになってきていると感じます。こうした状況が定着すれば、そのうちに、どんな着想を得られるかというアイデアの勝負になっていくかもしれません。または、どのベンダーのプラットフォームを選んで開発しているか、という点で差がつくような事態も、生まれるかもしれません。

ただし、当然ながらうまい話ばかりとは言えません。ノンプログラミングで開発できるようなツールは、複雑で高度な処理の構築はあまり得意とはしていません。部署内の単純作業のような、小さく閉じる領域なら向いている傾向なのが現状です。また、ツールによって得意分野が異なる傾向もあり、選定のしかたも重要になります。

目利き力は要求されるものの、試すだけなのであれば、資金的なハードルもかなり低くなっています。できる人がいないと嘆くより早く、どんどんやってみることができる企業のほうが先に進む。そんな時代になっていることを、経営者の方々には十分認識していただきたいと思います。

データがある会社とない会社の、大きすぎる差

おおよそそうではないかと思っているのですが、ビジネスの仕組みが明らかではない会社には、使えるデータもありません。

使えるデータをたくさん持っているのにビジネスの仕組みはいまいちだという会社を、わたしは寡聞にして知りません。逆に、ビジネスの仕組みづくりに長けている企業には、たいていは多くの使えるデータが存在しています。

そういう傾向になるのは、データに次のような特性があるからです。

まずデータは、使おうとする人が自分で「取ろう」と思わなければ、存在すらしません。自然にそこにあるように思われがちですが、そうではありません。自然にそこにあるデータも見つけることはできますが、それは誰かほかの人が取ろうと意図して取得したデータに違いありません。そしてそういうデータは大抵、自分にとって使えるデータにはなっていません。

次に、データは何らかの目的をもって取らなければ、そもそも意味を成しません。意味をなさないのなら、使えないデータです。何かの情報システムやソフトウェアを入れたりすると、それが勝手に内部でデータを取っていたりします。しかしそのデータ取得が自分が持つ目的に合ったものでないなら、きっとそのデータが参照されることはありません。見たところで意味がないからです。漫然とデータが取られているだけならば、自分に見えてくるものは何もありません。

さらに、データというのは、使わないのなら持っていないのと同じです。出してくれと言われれば多くのデータを揃えて提出できる会社はたくさんあります。しかし、それらのデータを普段から自分で使っていないのだとしたら、実はそれらのデータを出力できない会社とあまり変わりはありません。

最近、AIを適用して業務能力を向上させる事例が、業種を問わず出てきています。ただ一方で、AIを使える企業と使えない企業の差が、かなり顕著になってきている側面もあります。その要因は、技術力の差というよりも、つまるところデータの差です。AIはデータを食べさせることで育成されます。自社内に使えるデータがない会社は、そもそもスタートラインに立てないのです。

データというのはまた、過去から現在までの蓄積の賜物という側面もあります。ある企業では、職人技の調整を要する業務にAIを適用して判断精度の向上を図ろうとした際、数十年にわたって記録してきた作業日報を活用したそうです。そこには、調整のノウハウと、成功失敗の履歴が詰まっていました。

おそらくこの会社では、「どう調整したらうまく行くのか」を長年追究し続けてきた結果、一定の「仕組み」が出来上がっていたのではないでしょうか。その蓄積が、作業日報でした。もちろん紙の情報でしたが、これをデジタル化してAIに学習させたのです。

職人技に依存する多くの企業は、その技を言葉にしようとする努力を欠いています。実際、言葉にしようとすると大変な労力を要します。それでもなお言葉で表現しようとする取り組みは、つまり属人的な仕事を仕組み化しようとするものにほかなりません。仕組みを構築するマインドがある会社はおよそ、データ化する取り組みは自然に実行しているものなのです。