中国の気球に思う、判断軸と決断力

最近まで話題だった中国の気球の話で、わたしは心底、日本の防衛におけるインテリジェンスの低さにがっかりさせられました。

ご承知のとおり、この件の話題性がにわかに高まったのは、米国本土上空で正体不明の気球が確認されたときでした。米国政府は間髪を入れずにこれが中国のものであると断定し、しばらく監視したのち、大西洋沖に出たところで戦闘機によって撃墜、残骸を回収しました。そのうえで、気球に実装されていた機器類をくわしく調べたようですが、当然ながら詳細はあまり公表していません。

その話がホットになった直後、実は日本の上空で、3年も前から同様の物体が複数回にわたり目撃され、テレビカメラにも捉えらえていたことが報じられました。いずれの際にも、わたしの知る限りでは当時大きく報じられることもなく、政府が憂慮している様子も問題として認識しているアナウンスも、公式にはなかったように記憶しています。

ところが、今回米国が即座に撃墜したことを知ってなのか、政府は急いで法整備を始めて、同様の飛行物体を場合によっては撃墜可能なようにしたといいます。さらに、中国に対して当時の飛来物を踏まえて、領空侵犯として厳重抗議したとも報じられました。

なんという情けない話かと思ったのは、わたしだけなのでしょうか。どのマスコミも言及しないのが不思議でなりません。万一これが、そもそも自衛隊のレーダーにさえ捉えられておらず防衛上の検知もされていなかった事態だったとしたら、それこそ大問題だと思うのですが。少なくとも、中国には日本の諜報能力はこの程度かと思われたに違いないと思います。

そんなことを思っていたところで、米国のバイデン大統領がウクライナの首都キーウを電撃訪問したというニュースが流れました。

報じられているところによれば、米国政府は数か月前から極秘に訪問を計画し、現在の戦況、および米軍が駐留していないウクライナへの訪問ということを踏まえて、細心の注意を払って渡航を計画したとのことです。同行者は必要最小限、報道記者も限定し、情報漏えいが間違いなく発生しないように対策が徹底されたといいます。そのうえで、米国から19時間かけてキーウまで移動し、ゼレンスキー大統領との会談を果たしました。

世界の要人の中でもその多忙さと安全確保の要求レベルでは群を抜くであろう米国大統領で、かつ80歳という高齢のバイデン氏が、事前にロシアに通告までしたうえで、片道19時間もかけてウクライナに赴くという決断をするのだとしたら、そこには確固たる意図と信念があったに違いないでしょう。

翻って我が国の総理はどうか。先日見たニュースでは、政府は昨年からウクライナへの訪問を模索してきながら、現地の戦況の不安定さや国会日程でタイミングをつかめずに来たといいます。日本の総理大臣も超多忙であると想像しますが、米国大統領より制約が多く忙しいのかとなると何とも言えないところです。行けない理由ならいくらでも出てくるでしょうが、万難を排除してでも行くとしたら、そこには確固たる判断軸と信念が必要なのだと思います。

いつも思うのですが、米国の行動に追随することが多い日本において、彼らの真似をするのならその行動自体ではなく、その判断プロセスや行動に至る考え方、またそれを実現している体制のほうであると、わたしは考えます。

判断軸を自らに持ち合わせていなければ、適時的確な決断はできません。資金を投じて防衛力を高めようとも、自らに判断軸がないのなら、決断し行動をとることはできず、持ち合わせている能力も宝の持ち腐れになります。誰に何を言われようが自分はこうする、何か言われたらこう説明する、そういう行動がとれるには、確立された独自の判断軸が不可欠です。これは、おカネがあるのかどうかは関係がない、意識の問題です。

これはビジネスの世界でも、同じ話が当てはまると思います。タイムマシン経営なのはよいですが、真似をするのなら、ビジネスモデルをそのまま持ってくるのではなく、その考え方や判断軸、彼らの実行体制のあり方など、より本質を見ようとする努力が重要ではないでしょうか。事例が大好きな日本の経営者はたくさんいます。そういう人はたいてい、そっくり同じことをしようとします。何を使っているのか調べて、同じものを買おうとします。しかし、盲目的にマネているだけでは、いつまでも師匠に追いつくことさえできないのです。

小売業のダイナミックプライシングは、悪手でしかない

「ダイナミックプライシング」とは、需要に応じて売り手側が価格を柔軟に変動させる仕組みのことです。

従来は価格の表示が紙で行われていたため、価格を変更することは時間も労力もかかる作業になっていました。これが、近年はITによって価格表示をデジタル化することができるようになり、ダイナミックプライシングは一気に現実味のある取り組みになりました。現在、宿泊業、航空、娯楽施設では一般的に実用されています。

こうした取り組みを、最近真似しようとしている小売業がちらほら見受けられます。しかし、小売業がダイナミックプライシングを実施するのは、先進的どころかむしろ不利益をもたらします。やめたほうがよいと、わたしは思います。

小売業でダイナミックプライシングを採り入れようと考えている企業は、きっと顧客の立場で物事が考えられていません。

例えば、ホテルに宿泊する顧客の場合を考えてみます。その顧客がホテルに宿泊の予約をするとき、先だって予定が決まっているケースも、突然宿泊する必要が出てしまったケースも、いろいろとあるでしょう。ただいずれにしても、その顧客は、特定の日程で特定の場所に宿泊する必要があって、そのホテルに予約をしに来ています。ある意味、選択の余地はほぼありません。

他の例では、野球の試合を観戦したい顧客の場合はどうでしょう。その顧客が試合のチケットを購入するとき、通常なら、特定の日取りで行われる、ひいきの球団の試合を見たいと思って購入するはずです。自分の予定も、連れ立っていく人の予定も、それぞれあるでしょうから、どの日でもいいということにはあまりなりません。つまりその顧客は、特定の日程で特定の試合を見ようとして、チケットを買いに来ます。やはり、選択の余地はほとんどありません。

航空のチケットも、ほぼ同じ論理になります。つまり、こうした顧客は「その時その場で、特定のものを買う必要がある」のです。このようなケースでは、ダイナミックプライシングがうまく適合します。その時その場で利用したいから、その価格が少々高くても選択せざるを得ないし、価格の比較をしたところで他は選択肢になりにくいので、高額な理由が理解できるのなら抗議したくなる余地があまりないわけです。

一方、小売業はどうでしょうか。

小売店に並んでいる商品は、基本的に毎日ほぼ同じです。顧客は、明日に来てもそれを購入できますし、その時その場でどうしても買わないとまずいようなケースはそれほどありません。

さらに、関心のある商品ほど、店に来るたびに買う商品ほど、比較的高額な商品ほど、顧客はその商品の価格を「覚えて」います。

そこに、その小売店がダイナミックプライシングを導入したらどうなるでしょうか。当然、価格が上がれば顧客は買い控えます。

それどころか、「この店は来るたびに値段が変わる、しかも昨日よりも今日のほうが価格が上がっている」と気づきます。それに気づいた顧客は、その店に信頼を置かなくなり、警戒心を持ちます。

ダイナミックプライシングに魅力を感じてやまない小売業者は、消費者は価格が変動していることを知らないと思っているのかもしれませんが、まったく浅はかです。賢い消費者ほど、どの店で何がいくらで売っているのか(場合によっては「いつ」までも)、よく覚えています。同様の話で、食品メーカーはかなり以前から常套手段として、価格を据え置いて内容量を減らすこと(いわゆるステルス値上げ)を頻繁に行っていますが、それも多くの消費者(特に主婦の方々)は気づいています。

さらに言えば、ECの世界ではすでに、特定のサイトの特定の商品が時間経過でどのような価格変動をしているのか、自動的にトラッキングしてくれるサービスまで登場しています。利用者は安くなったところで通知をもらえるように設定しておき、通知が来たところで注文できるというわけです。

そのような自動トラッキングを使わないとしても、その小売業がECサイトを展開しているのなら、顧客はそのサイトに、関心のある商品を ”何度も” 見に来ます。訪問するたびに価格が変わっていれば、それで分かってしまいます。1週間のあいだに何千円や何万円も価格が上がっていることに一度でも気づけば、もう顧客はそのECサイトでは、一見で購入ボタンを押すことはなくなるでしょう。

消費者の信頼をなくしてまで、「最適な価格」で利益追求したいのでしょうか。小売店は正々堂々と、一度決めた価格で勝負すべきだと思います。もし価格をダイナミックに変えたいなら「下げる方向にだけ」にするべきです。上げる方向に変えるなら、きちんと理由を説明すべきだと思います。

実際、現在のような価格高騰のご時世の中、そうした説明は、小規模な小売店ほど危機意識をもって丁寧にやろうとしています。値段を上げたり下げたりを恣意的に行っていることに消費者が気付けば、企業規模に関係なく、小売店は簡単に信頼を失うことを、忘れてはいけません。

「前提」が満たされていないと、経営戦略は立てられない

少なくともわたしの理解では、経営戦略を企画するにあたって「このやり方で立案すればよい」という決定版的な手法はありません。

そのせいもあり、いろんな人がいろんな方法を掲げて、自分の方法こそ常識的、と主張しているように感じます。その方法は、その人がどの分野で研鑽を積んできたのかで、けっこう特色が出ているように思います。財務に強い人は管理会計的なアプローチ、経営コンサルの人はフレームワークを駆使した手法、といった具合です。

わたしはもともとエンジニア上がりでして、経営戦略について先達に直接教えてもらう機会がありませんでした。そのため専ら文献を読み漁って研究したほうです。いろんな人が書いているものを、いろいろと読みました。そして学んだ知識をそれぞれ咀嚼しながら実践してみて良い所どりし、いま活用しているノウハウに昇華させてきています。まだ改善の余地はあるだろうと思いますが、概ね考え方のスジは固まっていると感じているところです。

わたしが考えるに、いろんな人が提示しているいろんな方法は、どれもあながち間違ってはいません。ただし、それぞれの手法をうまく適用するには必ず「前提」があり、前提を捉えずにそれらの方法を適用しようとすると、だいたいうまく行きません。

例えば、経営戦略の企画においては、大まかには次の事項が明確になっている必要があるとわたしは考えています。

  1. 顧客に対して、どのような価値を提供しようとしているのか
  2. その提供価値を実現するシナリオは、具体的に何か
  3. シナリオを実行するオペレーティングモデルは、整備されているか(または整備できるか)
  4. 計画の実行が成功し、価値が提供できたことは、どうやって認識できるのか

こと中小規模の企業において問題なのは、上記の1と2が曖昧で、定まっていないことです。

これらが曖昧なまま、一方で日々の業務に関しては、過去の経緯のもとに ”一応” 稼働していたりします。その事実だけをもって、上記の3は「できている」と理解していることが往々にしてあるのですが、それは大きな間違いです。1と2が曖昧なのに3ができていることはありえません。ですから本当のところは、3もできてはいません。

管理会計を念頭に置いた財務的なアプローチを採用しようとする経営戦略立案では、形式的に内部分析や外部分析は行うのですが、それらはどちらかというと管理会計的な問題抽出をしようという試みに留まり、実質的には上記の1、2、3をすっ飛ばして、いきなり計数管理を始めようとします。

つまり、このアプローチを採用するうえでの前提は、上記の1、2、3のすべてが揃っていることです。

このアプローチは、現在のオペレーションに大きな課題がなく、その会社の価値提供の方向性にも業務プロセスがきちんと従っているなら、問題なく適用可能であり、コストの最適化や利益の最大化といった形で成果も出せるでしょう。

しかし、前記したとおり、往々にして中小規模の企業は、価値提供のあり方、その価値提供を実現するためのシナリオ、こうしたものに具体性がないのです。その状況で計数管理的なアプローチだけ実践しようとしても、単に計数管理の仕組みが整うだけです。

計数管理では数字を追いますが、数字は「結果」です。結果をモニタする目的は、自分が思った通りの成果が挙げられたのかどうかを確認することです。そもそも「自分が思った通り」とはどういうことなのかが定義されていないところで、結果だけ追っても意味がないことです。

こういうふうに申し上げると、利益率何%だとか、在庫回転日数だとか、そうした指標を管理することに意味があるのだという反論がありますが、およそそうした目標値は、業界標準や他社との比較、場合によってはコンサルタントの「感覚」で設定された数字だったりします。しかし、業界標準は「自分の思った通り」ではありません。ですから、その数値を達成したところで、実践した企業に、成し遂げた実感は伴わないのです。

利益が出る、売上が上がる、というのは結構なことですが、厄介なことに利益や売上というのは、これまでの成り行きや過去の経緯を踏襲するだけでも上がったりするものです。何も意図していないのにたまたま業績がよいことさえあります。それをモニタしてわかることは、過去の延長線上で(なんとなく成り行きで)行ってきたことが良かったのか悪かったのか、に過ぎません。

それで構わないのなら、始めから経営戦略の企画など不要だと思います。重要なことは、財務の数字がよくなったという結果より、「自分が思った通りに」利益や売上が上がったのか、ではないでしょうか。思った通りの成果を繰り返すから、企業は継続して成長するのですから。

経営戦略を立てようと取り組まれる経営者におかれては、立案に向けて情報を取り入れる中で、専門家が言っているからといって無防備に情報を受け入れるのではなく、その手法を採用する前に整っていなければならない「前提」を探し、自社がいまどこまで満たせているのか、よく考えてみることから始めていただきたいと思います。それによって、企画への取り組みかたやアプローチは変わります。

恐れていた攻撃の手口から考える、経営とクラウド

昨年のことになりますが、ある大手小売業のECサイトで発覚したクレジットカードの不正利用をきっかけに、その企業を含む11社の小売業者が運営するECサイトから顧客情報が漏えいした可能性が発覚、それぞれ公表されるに至りました。

これらの小売業に共通していたのは、同じITベンダーが提供するECサイト構築SaaS、つまりクラウド事業者のサービスを利用していたことでした。問い合わせを受けて同ITベンダーが調査をした結果、SaaSのサーバーに対する不正アクセスの痕跡、およびサーバーに不正なプログラムが置かれていたことなどを発見したということです。

その後の分析によれば、攻撃者は、SaaSのテナントであったある小売業のECサイトを通じて不正な注文を送り、そのなかに埋め込んだ不正な命令を実行させて、SaaS内部のサーバーを乗っ取ることに成功したようです。それによって、直接攻撃されたその小売業のサイトのみならず、同SaaSを利用していた他のテナントの領域にも不正に侵入する足掛かりを獲得しました。結果、複数の企業の顧客データに不正にアクセスできたといいます。

この攻撃事例を聞いて、これまで恐れてきた事象がとうとう現実になったなと感じました。

パブリッククラウドのサービスは、巨大なシステム基盤上にサービスが構築され、それを多くの顧客が同じ条件のもとに利用する、という形態になっています。優れた機能が使い勝手の良いかたちで準備され、また初期コストのハードルがかなり低いということで、大小問わず多くの企業が利用しています。当然ながら、相乗り型のサービスとはいえ、各テナントの使い方には一定以上の自由度が確保されていますし、データも個別に蓄積できることになっています。

ただし、そうした区分けは、ソフトウェアの制御によって「論理的」に行われています。「論理的」とは「物理的」の反対です。つまり、テナントごとの区画は、戸建て住宅のように物理的に分かれているわけではなく、ソフトウェアに施された「設定」で区分けされている、ということです。

一方で、ソフトウェアには、プログラムの不具合であるバグや脆弱性が「必ず」あります。あらゆる情報システムは、バグや脆弱性は必ずあるけれど見つかってはいない、という状態で運用されているわけです。

クラウドベンダーは、顧客が利用する領域はセキュリティを確保した形で保護されていると謳っています。もし顧客にセキュリティ上の問題が発生するとしたら、それは顧客が行った設定に問題があるのだ、というのが共通した認識になっています。

そこにウソはもちろんないのですが、それはあくまで「ソフトウェアによって」成立していることです。そのソフトウェアに万が一脆弱性やバグがあれば、その保証は崩壊するかもしれません。

それが今回、実際に起こってしまったということだと思います。

注目すべきことは、顧客情報が漏えいしたことよりも、攻撃者がテナントを横断して不正を行うことができた点です。つまり、自社がどれだけ気を付けて対策を実行していたとしても、自分は知らない他の利用者を経由してサービスの大本が乗っ取られ、自社の対策は水泡と化す、というシナリオが成立してしまうということです。

今回攻撃を受けたSaaSベンダーは、決してセキュリティ対策が緩かったわけではなかったといいます。定期的なセキュリティチェックの実践、脆弱性の定期検査の受診、侵入検知サービスの利用など、一定の対策は行っていたようです。それでも今回の攻撃は防御できなかったと主張しています。

また、近年の攻撃は、アプリケーションへの攻撃から基盤ソフトウェアに対する攻撃がより増加している傾向にもあるようです。先にも記した通り、クラウドサービスは複数の利用者が共通の基盤上に構築された機能を、相乗りする形で利用します。その構造上、システム基盤で利用されるソフトウェアは利用者共通です。もし基盤ソフトウェアの脆弱性が攻撃されれば、容易に今回と同様の事象が起こりうることになるわけです。

クラウドサービスを利用するメリットは、その価値によっては非常に大きく、リスクを上回ることもあると思います。避けるよりも、うまく使うほうが賢い選択です。時代もまた、クラウドが使える前提でITを考える時代になっています。

ただし、上記のような攻撃が現実に成功していることを、経営リスクとしてよく理解しておきたいところです。預けているクラウドサービスから自社の情報が漏えいした時に、顧客に謝罪するのは、クラウドベンダーではなくてみなさん自身です。何を預けるのか。どの業務領域を依存するのか。経営にとって重要な選択です。よくわからないからIT専門の人に任せるという話ではないのです。

「わからない」「難しい」は、組織が不健康である証

先日、一般企業の経営者および従業員に対する意識調査の結果を報じる記事を見ました。

それによると、20代から40代の一般社員と管理職で、DX(Digital Transformation)に対して不安を感じるという人が、60%近くに及んだといいます。その一方で、経営層やエキスパート層では、不安は比較的小さいとのことでした。

記事では、エキスパート層の不安が小さいのは妥当としても、経営層の不安が小さいというのは自信過剰か丸投げ体質の表れなのではないかと指摘していましたが(笑)、わたしが個人的に興味を引いたのは、そちらではありません。一般社員と管理職の不安の「度合い」です。

というのも、その不安の理由として挙げられたもののうち最多だったのが、「わからないことが増えて追いつけなくなる」だったためです。

これは調査結果ではなくわたし個人の見解ですが、ビジネスパーソンが「わからない」「難しい」と述べるとき、それは字面通りの意味で捉えるべきではないと考えています。

職業柄、ITに関連した新しい技術の話はもちろん、ビジネスを考察するうえで必要な概念やフレームワークを説明する機会がたくさんあります。そのような場において、「わからない」「難しい」という反応をされることは珍しくありません。

始めは、わたしの説明のしかたが悪いのだと思いました。実際にそういう時もあっただろうと思います。

しかし、ごくシンプルな問いかけをしたときでさえも、同じ反応だったことが何度もあったのです。それで、なぜなのか考えてみたことがあります。

これまでのそうした経験を振り返ってみると、じつはその反応は「人による」かもしれないことに気付きました。つまり、成長意欲が高い、普段から課題解決に当たっている、できることを増やしたい、そんなことを考えている企業や人からは、「わからない」「難しい」はほとんど出てこない。一方で、日常業務レベルでの困りごとくらいしか課題がない、今のままで別に構わない、余計な仕事を増やしたくない、そんなふうに考えている企業や人だと、新しいことの説明をするとほぼ決まって「わからない」「難しい」が出てくる。そんな傾向です。

後者の企業や人の場合、考えているように見えて、実のところ思考そのものは活動していないと思われます。

そもそも人間の脳というのは、記憶した所作や行動は、できるだけパワーをかけずに処理できるようにするために、神経のネットワークを強固にします。最終的には、そのネットワークのパスに条件反射的に通すことで、考えなくても動作できるようになります。そうして覚えていかないと多くの複雑な物事に対処できないわけであり、脳は合理的に構成されているといえます。

ただしそれは、見かたを変えれば、できるだけ考えないようにしようと働くのですから、「脳にはさぼり癖がある」ということです。それが極まって、日常の活動のほとんどのことを覚えてしまえば、実は脳のほとんどの領域はシゴトしていない、シゴトしなくても生きていける、という状態になるわけです。

会社のあるある話として、新しく入ってきた社員が業務のやり方に対して素朴な疑問を投げかけると、ベテラン社員が「前からそうしているから」「これまでに例がないからできない」「ウチではそうしない」などと回答するだけで、そのやり方である理由は答えられない、というのを聞いたことがないでしょうか。それもまた、同じ類の話です。そうしてムダをムダと思わない現場が放置されていて誰も気づかない、などということが起こります。

しかし、脳がさぼってシゴトしないかどうかは、個人の意識次第です。物事をマスターすることで脳が稼働するパワーが空くなら、その余力を使って違うことや新しいことを考えようとしている人、そういう環境に身を置いている人、ならば、脳にさぼっている暇はないわけです。

要するに、その企業の社員が、目指すものや克服しなければならない課題を持ち、何とか達成しようと日常的に頭をひねりながら働いているのか否かの差、つまりその会社の企業文化の差、が生み出す傾向なのではないか、と考えられるのです。

すなわち、「思考停止」が常態化する企業文化を形成してきてしまった、経営者の問題なのです。

わたしが読んだ冒頭の記事の記者氏は、DXに不安を感じないなど経営者の自信過剰だと指摘していましたが、わたしの考えではそんな浅い問題ではなく、会社が成長するためのリソースとしてパワー不足であることの表れなのではないか、それは経営者が適切に目標設定し組織としての成長を促してこなかった結果なのではないか、ということなのです。

もちろんこの問題、経営者の意識と行動次第で、解決することができると思います。ただ、ヒトの問題なので時間はかかりますが。

顧客は「目指しているもの」を見ている

先日、十年超ぶりくらいでしょうか、あるファミレスに入りました。

店に入ると、店員が出迎えにきません。わたしが知る昔の経験では、店に入るとすかさず店員が気付いて「何名様ですか?」と聞かれるという認識でした。ところが、なかなか出てきません。待っているべきなのか、勝手に座っていいのか、判断がつかずに立ち尽くしていると、ようやく店員が(わたしに気づいてやって来たのではなく)近くを通りかかったので、こちらから声をかけました。「お好きな席へどうぞ」という回答でした。 

席に座ると、タブレット端末が置いてあります。操作説明はありません。自分で勝手にその端末からオーダーしろということのようです。端末の使い勝手は特に悪くはなく、適当に選んで注文をしました。

選択したメニューはどうやらセルフでドリンクバーに取りに行くスタイルだったようなことに、注文してから気づきました。よく見直すと、ほとんどのメニューがそうなっています。それはそれで理解しましたが、セルフのカウンターに向かうと様々なものが置いてあります。ここで、何をセルフで取っていいのか、わかっていないことに気付きました。席に引き返してメニューを見返し、取っていいものを理解してから、再びカウンターまで取りに行きました。

ドリンクバーで、水とスープを自分で取って席に戻ると、先ほどのタブレット端末では動画がしきりに流れています。どうやら、注文後はデジタルサイネージに化けて宣伝を流し続けるようです。その宣伝は、わたしが店を出るまで続きました。

料理は(さすがに)店員が運んできました。食事を済ませると、見透かしていたかのようにすぐさま店員がやってきて、食後の皿を下げていきました。

ふと店内を見渡すと、入店してからというもの、店員の姿はフロアにほぼ見当たりません。かなりスタッフは少ないようです。お昼時の真っ最中の時間帯でしたが、店員はバックヤードも含めて5人いたかいないか、というふうに見受けました。

人力によるノーマルな会計を済ませて店を出て、「この店は、いったい何を目指しているのだろう」と、わたしは感じました。

このファミレスは、過去に提供していたような来店客へのホスピタリティは、完全に捨てているように思います。コロナ禍が要因なのか、恒常的な人員不足が要因なのかは知りません。いずれにせよ、店員の対応や人数だけでなく店内の業務の仕組みからみても、ホスピタリティへの努力は捨てていると判断せざるを得ません。

そうかといって、デジタルにより自動化や効率化を推し進めたようにも見えません。そうしたつもりなのかもしれませんが、感心するような取り組みには気づきませんでした。空席が目立ち来店客が少ない割に、オーダーが出てくるまでの時間はそれほど早い印象はありませんでした。少ないスタッフでも従来と変わらない提供体制、ということなのかもしれませんが、顧客には関係のないことです。

オーダー用のタブレットにしても、使い慣れている人ならともかく、不得手な客にとっては、説明もなしに操作するのはなかなか抵抗があるに違いありません。現に、ある客に店員が、「そこじゃないです、青いボタンです!」などと、操作をインストラクションしている声が、どこからともなく店内に響いていました。

そのわりに、タブレットを使って抜け目なくマーケティングしようという意図はうかがえました。しかし実際には、その映像は客にほぼ顧みられていないだろうと感じましたし、しきりに動画が流れるさまは、人によってはうざったく思えるかもしれません。

要員不足に効率化で対応しよう、デジタルでクロスセルを促そう、業務を整流化して回転率を上げよう、などという話は五月雨式に思いつくかもしれませんが、この店には「それで、何を目指しているの?」がないように思います。少なくとも、ホスピタリティの高さではないし、デジタルによる洗練された顧客体験でもないし、ファストフードのようなスピード感でもない。それらは間違いなく、客の立場からは感じられませんでした。

共感できるポリシーが感じられない店には、客はなんとなくですが、また来たいとは思いません。二度と来ないとまでは思わずとも、また来たいとは思いません。わたしのような専門家は論理的にそう思うのですが、専門家ではない一般の客でも、深層心理でなんとなくそう思うものです。

このファミレスチェーンは過去に、データ分析を緻密に実行できる情報基盤を構築したとして事例になっていました。ファミレスの業務フォーマットはおよそどの店舗も同じである可能性が高く、今回のわたしの体験がどの店舗でもほぼ同じだと仮定すれば、このサービス提供でどんなデータ分析を行ったところで、事業の発展につながる有益な情報を得ることはないだろうと推察します。

「先進的で有名になる」ことには、意味がない

ITにおいてユーザー企業が「先進的」であることには、ほとんど意味がありません。

ITというトピックになると、とかく先進性に価値があるという方向で理解されるような向きもあるようです。しかし、ITに先進的であることは、ユーザー企業にとっての目的にはほとんどなりえません。

ビジネスの成長や発展に役立つこと、顧客の支持を得ること、こうしたことに役立つことしか、企業においてIT採用の目的にはならないと思います。

こんなことは言ってしまえば当たり前なのですが、しかし現実には、そうでない動機付けでITの取り組みを考えている(ようにしか見えない)責任者やリーダーが、案外目立ちます。

先進的な取り組みをしていると、人より先を行っているように感じられて得意げになるのかもしれません。マスコミが取材しに来て褒めたたえられてうれしくなるのかもしれません。先進的な取り組みであるとして表彰されたりすれば、誇らしくなるのかもしれません。

しかしながら、中長期的に見て、そうしたことで事業として得られるものは、たいてい大したことありません。

世間に知れることでエンジニアの入社志望が増えるのはメリットかもしれませんが、同時にベンダーからの売り込みは急増するだろうと思います。「あの会社はカネを使う」と思われるからです。先進的であるということで名が知れてしまった以上、投資の手を緩めるわけにもいかなくなるでしょう。そんなふうにして投資ありきの投資を繰り返しても、事業に対するリターンを毎度創出できるはずもありません。

しばらくは、経営者がよくわかっていないことをいいことに、適当なメリットをこじつけて稟議を通せるかもしれませんが、経営者が気付いたときには、実は無用だった投資の積み重ねが大いなる不良資産に化けているかもしれません。

過去の事例を振り返れば、マスコミに取り上げられてえらく著名になった人物によって導入された情報システムや組織体制が、その人物が転職したり社長が交代したりした途端に、ほとんど否定されて違う取り組みが推進されるという、残念な顛末のケースばかり目立つように思います。

本当の意味でITをうまく活用できている企業というのは、それを手掛けたとされる特定の個人が有名になることはおよそ少ないものです。むしろ、その会社のシステムそのものが有名になります。そしてそれが脈々と引き継がれ、進化していきます。

世間に知られるようになったから、表彰されたから、などという理由で、得意満面にならないことです。そのITが自社のビジネスの役に立っているのか。顧客がそのITによってもっと買ってくれるようになったのか。経営者は、そういうことを冷静かつ多面的に評価すべきだと思います。当然、そうした評価ができるだけの知識も必要です。

成長させたい事業なら、トップが動かないとダメな理由

ビジネスがデジタル前提となる時代にシフトしつつあります。そんななか、これまでの事業の常識を変える取り組みや、切り口を変えた事業を推進するといった、新しい取り組みに挑戦する企業は増えているように思います。

こうした取り組みは、すなわちビジネスシステムを描きなおすこと、設計しなおすこと、でもあります。根本的なレベルから事業の仕組みを構築する必要があるならば、それはトップが主導し、トップが絵を描き、トップが指導して仕組みを構築することです。そうでなければ、一貫した組織行動のもとに、実現したい提供価値を実現することはできません。

トップが本気でやらない事業がうまくいかないのは、当たり前のことです。

例えば、自社の強みを生かして新規事業を立ち上げることを考えたとします。その場合、強みを生かすのは良いとしても、事業の戦略立案はもちろん、ビジネスシステムをイチから設計し、実行に移し、軌道に乗せなければなりません。

誰も描いたことのない絵を描き、未開拓の地に道を作らなければならないわけですから、その事業の総責任者であるトップがそれを描かなければ、トップより下のメンバーはリアルなイメージを持つことができません。

こういう時に、心得のないトップは往々にして、自分の得意分野ではないところを、権限委譲という聞こえの良い言葉で「全面的に」他者に丸投げします。全面的でなければ救いようがあるのですが、残念ながら全面的であることがほとんどです。そうやって、全体設計もせずに自分からその部分を切り離すのです。それが、業務の属人化の始まりになります。

業務の属人化というのは、始めのうちはあまり問題になりません。権限委譲された人が成果を出せば、うまく行ったような気になるものです。しかし、年を追うごとに、事業が拡大するごとに、属人的な業務をつくってしまった問題は顕在化していきます。

気づいたときには、修正しようにもしがたい、修正するとしたら多大なるコストとエネルギーを伴う課題と化すのです。そしてたいていは自力で修正できず、ある日、依存度を増した特定の人物が機能しなくなることで、事業の成長は止まります。

他にも例えば、トップが本気で取り組まないがために、現場における過去の成功体験からくる考え方や、染みついたカルチャーを変えられないケースがあります。

モノ売りを得意としていた会社が、これからはコト売りだと宣言してサブスクビジネスを始めようとしたとします。

言うまでもありませんが、モノの販売とサブスクビジネスは、似て非なる事業です。モノの販売では、売ってしまえば顧客との関係はそこでいったん区切りを迎えます。一方でサブスクビジネスは、顧客が商品やサービスを継続して利用することによるLTV(Life Time Value)を最大化することを目指す事業です。

つまりサブスクは、商品やサービスを売ってからが本当の勝負の始まりです。顧客と定常的に接点を確保し、使用状況を把握し、困っていることがあれば企業側から手を差し伸べ、必要ならばアップセルやクロスセルを勧奨し、新機能やサービスの開発を間断なく進めて提供し、顧客が自社の商品やサービスによって成功を収めてくれるように、継続的に働きかけることが重要だとされます。

そうした一連の取り組みを「カスタマーサクセス」と呼ぶわけですが、これはモノを売って終わっていた企業からすれば、かなりのマインドシフトを伴う取り組みです。

マインドシフトが組織としてできないまま、モノ売りのカルチャーでサブスクに取り組もうとすると、口で言うこととは裏腹にまったく行動が伴いません。

言葉ではコト売りしよう、顧客のカスタマーサクセスを実現しよう、などと言っているわりに、KPIは相変わらず商品やサービスの販売数や販売時の利益で測定する。事業施策もモノ売りの販促と何も変わらない。カスタマーサクセスなどと一応称しているけれど、行動の実態は従来の「カスタマーサポート」と何も変わらない。なにより顧客の情報を自分で持っていないし集めようともしない。顧客のLTVを向上させることの重要性は頭では理解しているのに、現場では「商品の手離れがよいのが営業的にはベスト」などと指示が出ている。そんなことがフツウに起こります。

それもまた、トップが従来から染みついたカルチャーを根本から変えようと本気で取り組まないから、起こることです。

本当に成長させたい事業なのであれば、トップが主導してビジネスシステムを設計するべきだと、わたしは思います。

クラウドでサービスをつくり込む企業の「責任感」

あまり目立っていないように思えてならないのですが、ここ最近、AWS、Azure、Google Cloudと、いわゆるメガクラウド事業者で相次いで大規模障害が発生しています。

それに伴って、例えば気象庁のホームページが閲覧不可となったり、仮想通貨を取り扱うコインチェックではサービスが全面停止したりなど、多方面での影響が発生しました。

その中で、いわゆる「スマートホーム」の機能を担うデバイスにも、様々な影響が出たという話もあります。例えば、家電の操作をスマート化するデバイスです。エアコンや照明の電源を外出先から操作できたりします。こうしたデバイスを扱うサービスも、パブリッククラウドサービスを基盤にして機能を実装しているケースがかなり多いと見られます。

その場合にクラウドが障害になってスマートデバイスが機能しなくなると、利用者はどうなるか。容易に想像できますが、スマートデバイスに依存した生活をしていれば、オンオフや開け閉めといった操作は一切利かなくなります。かわりに手動で対応できればよいですが、リモコンがないと操作が事実上できないという家電も、最近は少なくありません。スマホでの操作に依存しきっていてリモコンがもはや手元にない、またはそもそもスマホからの操作しか想定されていない、などの場合は、結構つらい状況になることがありえます。

例えば、スマートロックだとどうなるでしょうか。家のカギをスマホで開閉錠できるようになるデバイスです。完全にこれに依存し、物理的な鍵をもう持ち歩いていない人が、外出中にクラウド障害に見舞われてデバイスが機能しなくなったら、家には入れなくなるかもしれません。

高齢者や障がい者が、生活に欠かせないツールとしてこれらのデバイスに頼っていた場合はどうでしょうか。機器などの切替操作などが身体的に困難なために音声認識でそれを実行するようなケースです。もし突然、音声認識が動作しなくなったりしたら、死活問題に陥るリスクもあるかもしれません。

わたしが気になっているのは、こうしたデバイスを供給しているサービス事業者が、どこまでクラウド障害によるサービス影響を「自分のこと」として捉えているだろうか、ということです。

パブリッククラウドを基盤に自社のサービスを構成した以上、クラウドが障害になれば、サービス事業者側ではなすすべはほとんど何もありません。ただ、障害復旧を待つのみです。ですから、「クラウド側が障害のため、復旧までお待ちください」とアナウンスするしかない、というのは正論です。しかし利用する顧客にしてみれば、サービス事業者からサービスを買っているのであって、クラウドを使っているつもりはありません。

クラウド側で何が起ころうとも、サービス事業者側ではコントロールすることはできません。ですから、クラウドが障害で止まるとしたら仕方がない、復旧が遅くてもあれだけの技術を持つすごい企業なのだからそういうものだと捉えるしかない、と考えるのは正論です。しかし、利用する顧客が見ているのはサービス事業者のほうであり、対応がまずくて信頼を失うのもサービス事業者のほうです。クラウド事業者ではありません。

スマートデバイスは、”現時点では” 社会基盤になるほどには普及しているとはいえず、仮に利用が全面的に止まったとしても、社会に大きな影響を与えるには至らないでしょう。サービス事業者の方針や態度が他力本願であったとしても、問題にはあまりならないと思います。

ただし、もし今後生活のスマート化が当前に組み込まれる社会が到来するとしたら、そのときサービス事業者は、より厳しく社会的な責任を問われることになります。そのときになってから、他者に左右されない基盤を自ら開発運用する能力を身につけようと思っても、時すでに遅しだろうと、わたしは想像します。

クラウドファーストだと言われているのに何を後ろ向きなことを、と言う論者もいるかもしれません。しかし、世間は通常、いかなる時でも一定以上のクオリティを要求し、不備を感じれば容赦なく批判します。通勤時間帯に通勤電車が全面ストップし、車内に「クラウド障害の影響で電車が発車できません。復旧までお待ちください。復旧の見込みは不明です。」などというアナウンスが流れたら、利用客はどう思うでしょう?少なくとも翌日のマスコミの記事の見出しは、鉄道会社を擁護するものにはならないと思います。

クラウドを使うのは、イージーです。使うほうがトクです。しかし一方で、牙を抜かれていないか。自らは何を重要な能力として保持し、なにを他者に依存するか。こうしたことは、経営者が考えるべきことです。技術分野だの専門知識だのは関係ありません。エンジニアは往々にして、イージーで見た目格好よさそうなほうを取ります。

その「カルチャー」、どれほど大事ですか?

先日読んだ複数の記事によると、残念ながらというべきかやはりというべきか、日本企業のDXの取り組みはかなり雲行きが怪しいものになっているとのことです。

経済産業省が昨年末に公開した「DXレポート2(中間取りまとめ)」によれば、国内223企業が自社のDX推進状況を自己診断した結果、2020年10月時点で9割以上が未着手や一部での実施にとどまっているとのこと。また、同じ結果を情報処理推進機構(IPA)が分析した結果では、部門横断で持続的にDXに向けた取り組みを実施している企業は全体のわずか8%と報告されました。

別の角度の報告として、日経BP 総合研究所 イノベーションICTラボによる独自調査「デジタル化実態調査2020年版(DXサーベイ2020年版)」では、DXプロジェクトに関する経営トップの姿勢を分析しました。その結果、「(経営トップはDXプロジェクトの)重要性を理解しているものの、現場任せ」が37.5%を占めたといいます。「重要性を理解し、DX戦略をリードしている」は13.7%しかいなかったとのことです。

リーダーの丸投げ体質が幅を利かせ、お題目だけで何も進まない、という、従来型の日本企業の典型像が想像できるような結果だと思います。バズワードくらいでは体質まで変わらない、という、当たり前の結果とも受け取れるかもしれません。

一般論として、平時のリーダーシップと有事のリーダーシップは、あるべき姿が異なると言われます。平時においては、民主的なボトムアップを尊重し、その環境を整え維持するリーダーシップのほうが有効です。一方で、変革を伴う有事においては、強いリーダーが場合によっては強権を発動してでも、ある一定の方向へ集団を導くリーダーシップでないと、組織を窮地から救うことは困難です。

有事というのは、なにもネガティブな危機だけを指すのではありません。社会の進展、業界環境の変化、競合の台頭、顧客の志向変容なども、対象になる企業にとっては有事です。デジタル社会もまた、従来型のビジネスのやり方では立ち行かないという点で、同じ文脈に当てはまります。

有事のリーダーシップの問題という側面では、最近の政府の新型コロナ対応にもその典型がうかがえるように、わたしは感じています。

昨年終わりごろからいわゆる第3波が到来し、各方面でこれまでにない切迫した状況に陥ったところであるのは、周知のとおりです。マスコミに煽られて多くの国民が政府の対応を批判し、内閣支持率が下がっていると聞きますが、そもそも第3波に至った最大の要因は、政府の無策や怠慢ではなく、感染に対する危機意識が大きく緩んだ国民が大勢いることにあります。そうした国民には、政府を批判する資格はありません。

これは、感染拡大の元凶と目される若者層だけではなく、投資してでも出勤の大幅制限を実行しない企業の経営者も同罪だと、わたしは考えます。わたしが現在関わる企業はすべて、出社や出張は厳しく制限し、勤務はおおよそ95%程度は遠隔です。緊急事態宣言後も変わらない通勤風景の映像を見るにつけ、驚きを禁じ得ません。

一方で、こうした危機的状況を目前にしてもなお「皆様のご協力をお願いします」としか呼び掛けず、どれだけの批判と抵抗に遭おうが私権の制限に踏み込んででも絶対に止める、という気迫が見えない政府にも、有事のリーダーシップとして問題があるとの指摘は免れないと、わたしは考えます。

国民も政府もどちらも、あるべき姿を捉えて、それに向かって「自身を変える」行動をしようという意識が十分ではない。そんな状況ではないでしょうか。なんだか企業のDXに対する態度と同じに見えてきます。DXもまた、企業のビジネスそのもの、これまでの常識、従来からの前提、そうしたものを変革する行動なのです。

とかく日本の企業ではリーダーシップが弱いか緩い組織が多いと、個人的にも感じることがあります。階層が深い組織ほどそうです。あるべき姿を提言すると、それに賛同しながら、「理想はそうだね」「うちのカルチャーではなかなか難しいんだよね」などという発言が返ってくることがあります。そうした反応は、リーダーシップを強力に取れる人物がその組織にいないことの現れであると、わたしは捉えています。何事も、変えるのは楽ではありません。リーダーシップの弱い組織で変革を進めるのは、それこそ「カルチャーに合わない」のです。

そのカルチャーを守るのと、顧客や社会にさらに大きな価値を提供して業績を挙げるのと、どちらが組織にとって大事なのか。カルチャーを守ったらこの先利益が上がるのか。そういう問題であるはずです。あるべき姿が自明なのであれば、自身を変える決断と行動は、まずリーダーが、経営者が、率先してとって範を示すべきではないでしょうか。有事であるほどに、気迫をもった行動が示されなければ、メンバーはついて来ないものです。