「前提」が満たされていないと、経営戦略は立てられない

少なくともわたしの理解では、経営戦略を企画するにあたって「このやり方で立案すればよい」という決定版的な手法はありません。

そのせいもあり、いろんな人がいろんな方法を掲げて、自分の方法こそ常識的、と主張しているように感じます。その方法は、その人がどの分野で研鑽を積んできたのかで、けっこう特色が出ているように思います。財務に強い人は管理会計的なアプローチ、経営コンサルの人はフレームワークを駆使した手法、といった具合です。

わたしはもともとエンジニア上がりでして、経営戦略について先達に直接教えてもらう機会がありませんでした。そのため専ら文献を読み漁って研究したほうです。いろんな人が書いているものを、いろいろと読みました。そして学んだ知識をそれぞれ咀嚼しながら実践してみて良い所どりし、いま活用しているノウハウに昇華させてきています。まだ改善の余地はあるだろうと思いますが、概ね考え方のスジは固まっていると感じているところです。

わたしが考えるに、いろんな人が提示しているいろんな方法は、どれもあながち間違ってはいません。ただし、それぞれの手法をうまく適用するには必ず「前提」があり、前提を捉えずにそれらの方法を適用しようとすると、だいたいうまく行きません。

例えば、経営戦略の企画においては、大まかには次の事項が明確になっている必要があるとわたしは考えています。

  1. 顧客に対して、どのような価値を提供しようとしているのか
  2. その提供価値を実現するシナリオは、具体的に何か
  3. シナリオを実行するオペレーティングモデルは、整備されているか(または整備できるか)
  4. 計画の実行が成功し、価値が提供できたことは、どうやって認識できるのか

こと中小規模の企業において問題なのは、上記の1と2が曖昧で、定まっていないことです。

これらが曖昧なまま、一方で日々の業務に関しては、過去の経緯のもとに ”一応” 稼働していたりします。その事実だけをもって、上記の3は「できている」と理解していることが往々にしてあるのですが、それは大きな間違いです。1と2が曖昧なのに3ができていることはありえません。ですから本当のところは、3もできてはいません。

管理会計を念頭に置いた財務的なアプローチを採用しようとする経営戦略立案では、形式的に内部分析や外部分析は行うのですが、それらはどちらかというと管理会計的な問題抽出をしようという試みに留まり、実質的には上記の1、2、3をすっ飛ばして、いきなり計数管理を始めようとします。

つまり、このアプローチを採用するうえでの前提は、上記の1、2、3のすべてが揃っていることです。

このアプローチは、現在のオペレーションに大きな課題がなく、その会社の価値提供の方向性にも業務プロセスがきちんと従っているなら、問題なく適用可能であり、コストの最適化や利益の最大化といった形で成果も出せるでしょう。

しかし、前記したとおり、往々にして中小規模の企業は、価値提供のあり方、その価値提供を実現するためのシナリオ、こうしたものに具体性がないのです。その状況で計数管理的なアプローチだけ実践しようとしても、単に計数管理の仕組みが整うだけです。

計数管理では数字を追いますが、数字は「結果」です。結果をモニタする目的は、自分が思った通りの成果が挙げられたのかどうかを確認することです。そもそも「自分が思った通り」とはどういうことなのかが定義されていないところで、結果だけ追っても意味がないことです。

こういうふうに申し上げると、利益率何%だとか、在庫回転日数だとか、そうした指標を管理することに意味があるのだという反論がありますが、およそそうした目標値は、業界標準や他社との比較、場合によってはコンサルタントの「感覚」で設定された数字だったりします。しかし、業界標準は「自分の思った通り」ではありません。ですから、その数値を達成したところで、実践した企業に、成し遂げた実感は伴わないのです。

利益が出る、売上が上がる、というのは結構なことですが、厄介なことに利益や売上というのは、これまでの成り行きや過去の経緯を踏襲するだけでも上がったりするものです。何も意図していないのにたまたま業績がよいことさえあります。それをモニタしてわかることは、過去の延長線上で(なんとなく成り行きで)行ってきたことが良かったのか悪かったのか、に過ぎません。

それで構わないのなら、始めから経営戦略の企画など不要だと思います。重要なことは、財務の数字がよくなったという結果より、「自分が思った通りに」利益や売上が上がったのか、ではないでしょうか。思った通りの成果を繰り返すから、企業は継続して成長するのですから。

経営戦略を立てようと取り組まれる経営者におかれては、立案に向けて情報を取り入れる中で、専門家が言っているからといって無防備に情報を受け入れるのではなく、その手法を採用する前に整っていなければならない「前提」を探し、自社がいまどこまで満たせているのか、よく考えてみることから始めていただきたいと思います。それによって、企画への取り組みかたやアプローチは変わります。

恐れていた攻撃の手口から考える、経営とクラウド

昨年のことになりますが、ある大手小売業のECサイトで発覚したクレジットカードの不正利用をきっかけに、その企業を含む11社の小売業者が運営するECサイトから顧客情報が漏えいした可能性が発覚、それぞれ公表されるに至りました。

これらの小売業に共通していたのは、同じITベンダーが提供するECサイト構築SaaS、つまりクラウド事業者のサービスを利用していたことでした。問い合わせを受けて同ITベンダーが調査をした結果、SaaSのサーバーに対する不正アクセスの痕跡、およびサーバーに不正なプログラムが置かれていたことなどを発見したということです。

その後の分析によれば、攻撃者は、SaaSのテナントであったある小売業のECサイトを通じて不正な注文を送り、そのなかに埋め込んだ不正な命令を実行させて、SaaS内部のサーバーを乗っ取ることに成功したようです。それによって、直接攻撃されたその小売業のサイトのみならず、同SaaSを利用していた他のテナントの領域にも不正に侵入する足掛かりを獲得しました。結果、複数の企業の顧客データに不正にアクセスできたといいます。

この攻撃事例を聞いて、これまで恐れてきた事象がとうとう現実になったなと感じました。

パブリッククラウドのサービスは、巨大なシステム基盤上にサービスが構築され、それを多くの顧客が同じ条件のもとに利用する、という形態になっています。優れた機能が使い勝手の良いかたちで準備され、また初期コストのハードルがかなり低いということで、大小問わず多くの企業が利用しています。当然ながら、相乗り型のサービスとはいえ、各テナントの使い方には一定以上の自由度が確保されていますし、データも個別に蓄積できることになっています。

ただし、そうした区分けは、ソフトウェアの制御によって「論理的」に行われています。「論理的」とは「物理的」の反対です。つまり、テナントごとの区画は、戸建て住宅のように物理的に分かれているわけではなく、ソフトウェアに施された「設定」で区分けされている、ということです。

一方で、ソフトウェアには、プログラムの不具合であるバグや脆弱性が「必ず」あります。あらゆる情報システムは、バグや脆弱性は必ずあるけれど見つかってはいない、という状態で運用されているわけです。

クラウドベンダーは、顧客が利用する領域はセキュリティを確保した形で保護されていると謳っています。もし顧客にセキュリティ上の問題が発生するとしたら、それは顧客が行った設定に問題があるのだ、というのが共通した認識になっています。

そこにウソはもちろんないのですが、それはあくまで「ソフトウェアによって」成立していることです。そのソフトウェアに万が一脆弱性やバグがあれば、その保証は崩壊するかもしれません。

それが今回、実際に起こってしまったということだと思います。

注目すべきことは、顧客情報が漏えいしたことよりも、攻撃者がテナントを横断して不正を行うことができた点です。つまり、自社がどれだけ気を付けて対策を実行していたとしても、自分は知らない他の利用者を経由してサービスの大本が乗っ取られ、自社の対策は水泡と化す、というシナリオが成立してしまうということです。

今回攻撃を受けたSaaSベンダーは、決してセキュリティ対策が緩かったわけではなかったといいます。定期的なセキュリティチェックの実践、脆弱性の定期検査の受診、侵入検知サービスの利用など、一定の対策は行っていたようです。それでも今回の攻撃は防御できなかったと主張しています。

また、近年の攻撃は、アプリケーションへの攻撃から基盤ソフトウェアに対する攻撃がより増加している傾向にもあるようです。先にも記した通り、クラウドサービスは複数の利用者が共通の基盤上に構築された機能を、相乗りする形で利用します。その構造上、システム基盤で利用されるソフトウェアは利用者共通です。もし基盤ソフトウェアの脆弱性が攻撃されれば、容易に今回と同様の事象が起こりうることになるわけです。

クラウドサービスを利用するメリットは、その価値によっては非常に大きく、リスクを上回ることもあると思います。避けるよりも、うまく使うほうが賢い選択です。時代もまた、クラウドが使える前提でITを考える時代になっています。

ただし、上記のような攻撃が現実に成功していることを、経営リスクとしてよく理解しておきたいところです。預けているクラウドサービスから自社の情報が漏えいした時に、顧客に謝罪するのは、クラウドベンダーではなくてみなさん自身です。何を預けるのか。どの業務領域を依存するのか。経営にとって重要な選択です。よくわからないからIT専門の人に任せるという話ではないのです。

「わからない」「難しい」は、組織が不健康である証

先日、一般企業の経営者および従業員に対する意識調査の結果を報じる記事を見ました。

それによると、20代から40代の一般社員と管理職で、DX(Digital Transformation)に対して不安を感じるという人が、60%近くに及んだといいます。その一方で、経営層やエキスパート層では、不安は比較的小さいとのことでした。

記事では、エキスパート層の不安が小さいのは妥当としても、経営層の不安が小さいというのは自信過剰か丸投げ体質の表れなのではないかと指摘していましたが(笑)、わたしが個人的に興味を引いたのは、そちらではありません。一般社員と管理職の不安の「度合い」です。

というのも、その不安の理由として挙げられたもののうち最多だったのが、「わからないことが増えて追いつけなくなる」だったためです。

これは調査結果ではなくわたし個人の見解ですが、ビジネスパーソンが「わからない」「難しい」と述べるとき、それは字面通りの意味で捉えるべきではないと考えています。

職業柄、ITに関連した新しい技術の話はもちろん、ビジネスを考察するうえで必要な概念やフレームワークを説明する機会がたくさんあります。そのような場において、「わからない」「難しい」という反応をされることは珍しくありません。

始めは、わたしの説明のしかたが悪いのだと思いました。実際にそういう時もあっただろうと思います。

しかし、ごくシンプルな問いかけをしたときでさえも、同じ反応だったことが何度もあったのです。それで、なぜなのか考えてみたことがあります。

これまでのそうした経験を振り返ってみると、じつはその反応は「人による」かもしれないことに気付きました。つまり、成長意欲が高い、普段から課題解決に当たっている、できることを増やしたい、そんなことを考えている企業や人からは、「わからない」「難しい」はほとんど出てこない。一方で、日常業務レベルでの困りごとくらいしか課題がない、今のままで別に構わない、余計な仕事を増やしたくない、そんなふうに考えている企業や人だと、新しいことの説明をするとほぼ決まって「わからない」「難しい」が出てくる。そんな傾向です。

後者の企業や人の場合、考えているように見えて、実のところ思考そのものは活動していないと思われます。

そもそも人間の脳というのは、記憶した所作や行動は、できるだけパワーをかけずに処理できるようにするために、神経のネットワークを強固にします。最終的には、そのネットワークのパスに条件反射的に通すことで、考えなくても動作できるようになります。そうして覚えていかないと多くの複雑な物事に対処できないわけであり、脳は合理的に構成されているといえます。

ただしそれは、見かたを変えれば、できるだけ考えないようにしようと働くのですから、「脳にはさぼり癖がある」ということです。それが極まって、日常の活動のほとんどのことを覚えてしまえば、実は脳のほとんどの領域はシゴトしていない、シゴトしなくても生きていける、という状態になるわけです。

会社のあるある話として、新しく入ってきた社員が業務のやり方に対して素朴な疑問を投げかけると、ベテラン社員が「前からそうしているから」「これまでに例がないからできない」「ウチではそうしない」などと回答するだけで、そのやり方である理由は答えられない、というのを聞いたことがないでしょうか。それもまた、同じ類の話です。そうしてムダをムダと思わない現場が放置されていて誰も気づかない、などということが起こります。

しかし、脳がさぼってシゴトしないかどうかは、個人の意識次第です。物事をマスターすることで脳が稼働するパワーが空くなら、その余力を使って違うことや新しいことを考えようとしている人、そういう環境に身を置いている人、ならば、脳にさぼっている暇はないわけです。

要するに、その企業の社員が、目指すものや克服しなければならない課題を持ち、何とか達成しようと日常的に頭をひねりながら働いているのか否かの差、つまりその会社の企業文化の差、が生み出す傾向なのではないか、と考えられるのです。

すなわち、「思考停止」が常態化する企業文化を形成してきてしまった、経営者の問題なのです。

わたしが読んだ冒頭の記事の記者氏は、DXに不安を感じないなど経営者の自信過剰だと指摘していましたが、わたしの考えではそんな浅い問題ではなく、会社が成長するためのリソースとしてパワー不足であることの表れなのではないか、それは経営者が適切に目標設定し組織としての成長を促してこなかった結果なのではないか、ということなのです。

もちろんこの問題、経営者の意識と行動次第で、解決することができると思います。ただ、ヒトの問題なので時間はかかりますが。

顧客は「目指しているもの」を見ている

先日、十年超ぶりくらいでしょうか、あるファミレスに入りました。

店に入ると、店員が出迎えにきません。わたしが知る昔の経験では、店に入るとすかさず店員が気付いて「何名様ですか?」と聞かれるという認識でした。ところが、なかなか出てきません。待っているべきなのか、勝手に座っていいのか、判断がつかずに立ち尽くしていると、ようやく店員が(わたしに気づいてやって来たのではなく)近くを通りかかったので、こちらから声をかけました。「お好きな席へどうぞ」という回答でした。 

席に座ると、タブレット端末が置いてあります。操作説明はありません。自分で勝手にその端末からオーダーしろということのようです。端末の使い勝手は特に悪くはなく、適当に選んで注文をしました。

選択したメニューはどうやらセルフでドリンクバーに取りに行くスタイルだったようなことに、注文してから気づきました。よく見直すと、ほとんどのメニューがそうなっています。それはそれで理解しましたが、セルフのカウンターに向かうと様々なものが置いてあります。ここで、何をセルフで取っていいのか、わかっていないことに気付きました。席に引き返してメニューを見返し、取っていいものを理解してから、再びカウンターまで取りに行きました。

ドリンクバーで、水とスープを自分で取って席に戻ると、先ほどのタブレット端末では動画がしきりに流れています。どうやら、注文後はデジタルサイネージに化けて宣伝を流し続けるようです。その宣伝は、わたしが店を出るまで続きました。

料理は(さすがに)店員が運んできました。食事を済ませると、見透かしていたかのようにすぐさま店員がやってきて、食後の皿を下げていきました。

ふと店内を見渡すと、入店してからというもの、店員の姿はフロアにほぼ見当たりません。かなりスタッフは少ないようです。お昼時の真っ最中の時間帯でしたが、店員はバックヤードも含めて5人いたかいないか、というふうに見受けました。

人力によるノーマルな会計を済ませて店を出て、「この店は、いったい何を目指しているのだろう」と、わたしは感じました。

このファミレスは、過去に提供していたような来店客へのホスピタリティは、完全に捨てているように思います。コロナ禍が要因なのか、恒常的な人員不足が要因なのかは知りません。いずれにせよ、店員の対応や人数だけでなく店内の業務の仕組みからみても、ホスピタリティへの努力は捨てていると判断せざるを得ません。

そうかといって、デジタルにより自動化や効率化を推し進めたようにも見えません。そうしたつもりなのかもしれませんが、感心するような取り組みには気づきませんでした。空席が目立ち来店客が少ない割に、オーダーが出てくるまでの時間はそれほど早い印象はありませんでした。少ないスタッフでも従来と変わらない提供体制、ということなのかもしれませんが、顧客には関係のないことです。

オーダー用のタブレットにしても、使い慣れている人ならともかく、不得手な客にとっては、説明もなしに操作するのはなかなか抵抗があるに違いありません。現に、ある客に店員が、「そこじゃないです、青いボタンです!」などと、操作をインストラクションしている声が、どこからともなく店内に響いていました。

そのわりに、タブレットを使って抜け目なくマーケティングしようという意図はうかがえました。しかし実際には、その映像は客にほぼ顧みられていないだろうと感じましたし、しきりに動画が流れるさまは、人によってはうざったく思えるかもしれません。

要員不足に効率化で対応しよう、デジタルでクロスセルを促そう、業務を整流化して回転率を上げよう、などという話は五月雨式に思いつくかもしれませんが、この店には「それで、何を目指しているの?」がないように思います。少なくとも、ホスピタリティの高さではないし、デジタルによる洗練された顧客体験でもないし、ファストフードのようなスピード感でもない。それらは間違いなく、客の立場からは感じられませんでした。

共感できるポリシーが感じられない店には、客はなんとなくですが、また来たいとは思いません。二度と来ないとまでは思わずとも、また来たいとは思いません。わたしのような専門家は論理的にそう思うのですが、専門家ではない一般の客でも、深層心理でなんとなくそう思うものです。

このファミレスチェーンは過去に、データ分析を緻密に実行できる情報基盤を構築したとして事例になっていました。ファミレスの業務フォーマットはおよそどの店舗も同じである可能性が高く、今回のわたしの体験がどの店舗でもほぼ同じだと仮定すれば、このサービス提供でどんなデータ分析を行ったところで、事業の発展につながる有益な情報を得ることはないだろうと推察します。

「先進的で有名になる」ことには、意味がない

ITにおいてユーザー企業が「先進的」であることには、ほとんど意味がありません。

ITというトピックになると、とかく先進性に価値があるという方向で理解されるような向きもあるようです。しかし、ITに先進的であることは、ユーザー企業にとっての目的にはほとんどなりえません。

ビジネスの成長や発展に役立つこと、顧客の支持を得ること、こうしたことに役立つことしか、企業においてIT採用の目的にはならないと思います。

こんなことは言ってしまえば当たり前なのですが、しかし現実には、そうでない動機付けでITの取り組みを考えている(ようにしか見えない)責任者やリーダーが、案外目立ちます。

先進的な取り組みをしていると、人より先を行っているように感じられて得意げになるのかもしれません。マスコミが取材しに来て褒めたたえられてうれしくなるのかもしれません。先進的な取り組みであるとして表彰されたりすれば、誇らしくなるのかもしれません。

しかしながら、中長期的に見て、そうしたことで事業として得られるものは、たいてい大したことありません。

世間に知れることでエンジニアの入社志望が増えるのはメリットかもしれませんが、同時にベンダーからの売り込みは急増するだろうと思います。「あの会社はカネを使う」と思われるからです。先進的であるということで名が知れてしまった以上、投資の手を緩めるわけにもいかなくなるでしょう。そんなふうにして投資ありきの投資を繰り返しても、事業に対するリターンを毎度創出できるはずもありません。

しばらくは、経営者がよくわかっていないことをいいことに、適当なメリットをこじつけて稟議を通せるかもしれませんが、経営者が気付いたときには、実は無用だった投資の積み重ねが大いなる不良資産に化けているかもしれません。

過去の事例を振り返れば、マスコミに取り上げられてえらく著名になった人物によって導入された情報システムや組織体制が、その人物が転職したり社長が交代したりした途端に、ほとんど否定されて違う取り組みが推進されるという、残念な顛末のケースばかり目立つように思います。

本当の意味でITをうまく活用できている企業というのは、それを手掛けたとされる特定の個人が有名になることはおよそ少ないものです。むしろ、その会社のシステムそのものが有名になります。そしてそれが脈々と引き継がれ、進化していきます。

世間に知られるようになったから、表彰されたから、などという理由で、得意満面にならないことです。そのITが自社のビジネスの役に立っているのか。顧客がそのITによってもっと買ってくれるようになったのか。経営者は、そういうことを冷静かつ多面的に評価すべきだと思います。当然、そうした評価ができるだけの知識も必要です。

成長させたい事業なら、トップが動かないとダメな理由

ビジネスがデジタル前提となる時代にシフトしつつあります。そんななか、これまでの事業の常識を変える取り組みや、切り口を変えた事業を推進するといった、新しい取り組みに挑戦する企業は増えているように思います。

こうした取り組みは、すなわちビジネスシステムを描きなおすこと、設計しなおすこと、でもあります。根本的なレベルから事業の仕組みを構築する必要があるならば、それはトップが主導し、トップが絵を描き、トップが指導して仕組みを構築することです。そうでなければ、一貫した組織行動のもとに、実現したい提供価値を実現することはできません。

トップが本気でやらない事業がうまくいかないのは、当たり前のことです。

例えば、自社の強みを生かして新規事業を立ち上げることを考えたとします。その場合、強みを生かすのは良いとしても、事業の戦略立案はもちろん、ビジネスシステムをイチから設計し、実行に移し、軌道に乗せなければなりません。

誰も描いたことのない絵を描き、未開拓の地に道を作らなければならないわけですから、その事業の総責任者であるトップがそれを描かなければ、トップより下のメンバーはリアルなイメージを持つことができません。

こういう時に、心得のないトップは往々にして、自分の得意分野ではないところを、権限委譲という聞こえの良い言葉で「全面的に」他者に丸投げします。全面的でなければ救いようがあるのですが、残念ながら全面的であることがほとんどです。そうやって、全体設計もせずに自分からその部分を切り離すのです。それが、業務の属人化の始まりになります。

業務の属人化というのは、始めのうちはあまり問題になりません。権限委譲された人が成果を出せば、うまく行ったような気になるものです。しかし、年を追うごとに、事業が拡大するごとに、属人的な業務をつくってしまった問題は顕在化していきます。

気づいたときには、修正しようにもしがたい、修正するとしたら多大なるコストとエネルギーを伴う課題と化すのです。そしてたいていは自力で修正できず、ある日、依存度を増した特定の人物が機能しなくなることで、事業の成長は止まります。

他にも例えば、トップが本気で取り組まないがために、現場における過去の成功体験からくる考え方や、染みついたカルチャーを変えられないケースがあります。

モノ売りを得意としていた会社が、これからはコト売りだと宣言してサブスクビジネスを始めようとしたとします。

言うまでもありませんが、モノの販売とサブスクビジネスは、似て非なる事業です。モノの販売では、売ってしまえば顧客との関係はそこでいったん区切りを迎えます。一方でサブスクビジネスは、顧客が商品やサービスを継続して利用することによるLTV(Life Time Value)を最大化することを目指す事業です。

つまりサブスクは、商品やサービスを売ってからが本当の勝負の始まりです。顧客と定常的に接点を確保し、使用状況を把握し、困っていることがあれば企業側から手を差し伸べ、必要ならばアップセルやクロスセルを勧奨し、新機能やサービスの開発を間断なく進めて提供し、顧客が自社の商品やサービスによって成功を収めてくれるように、継続的に働きかけることが重要だとされます。

そうした一連の取り組みを「カスタマーサクセス」と呼ぶわけですが、これはモノを売って終わっていた企業からすれば、かなりのマインドシフトを伴う取り組みです。

マインドシフトが組織としてできないまま、モノ売りのカルチャーでサブスクに取り組もうとすると、口で言うこととは裏腹にまったく行動が伴いません。

言葉ではコト売りしよう、顧客のカスタマーサクセスを実現しよう、などと言っているわりに、KPIは相変わらず商品やサービスの販売数や販売時の利益で測定する。事業施策もモノ売りの販促と何も変わらない。カスタマーサクセスなどと一応称しているけれど、行動の実態は従来の「カスタマーサポート」と何も変わらない。なにより顧客の情報を自分で持っていないし集めようともしない。顧客のLTVを向上させることの重要性は頭では理解しているのに、現場では「商品の手離れがよいのが営業的にはベスト」などと指示が出ている。そんなことがフツウに起こります。

それもまた、トップが従来から染みついたカルチャーを根本から変えようと本気で取り組まないから、起こることです。

本当に成長させたい事業なのであれば、トップが主導してビジネスシステムを設計するべきだと、わたしは思います。

クラウドでサービスをつくり込む企業の「責任感」

あまり目立っていないように思えてならないのですが、ここ最近、AWS、Azure、Google Cloudと、いわゆるメガクラウド事業者で相次いで大規模障害が発生しています。

それに伴って、例えば気象庁のホームページが閲覧不可となったり、仮想通貨を取り扱うコインチェックではサービスが全面停止したりなど、多方面での影響が発生しました。

その中で、いわゆる「スマートホーム」の機能を担うデバイスにも、様々な影響が出たという話もあります。例えば、家電の操作をスマート化するデバイスです。エアコンや照明の電源を外出先から操作できたりします。こうしたデバイスを扱うサービスも、パブリッククラウドサービスを基盤にして機能を実装しているケースがかなり多いと見られます。

その場合にクラウドが障害になってスマートデバイスが機能しなくなると、利用者はどうなるか。容易に想像できますが、スマートデバイスに依存した生活をしていれば、オンオフや開け閉めといった操作は一切利かなくなります。かわりに手動で対応できればよいですが、リモコンがないと操作が事実上できないという家電も、最近は少なくありません。スマホでの操作に依存しきっていてリモコンがもはや手元にない、またはそもそもスマホからの操作しか想定されていない、などの場合は、結構つらい状況になることがありえます。

例えば、スマートロックだとどうなるでしょうか。家のカギをスマホで開閉錠できるようになるデバイスです。完全にこれに依存し、物理的な鍵をもう持ち歩いていない人が、外出中にクラウド障害に見舞われてデバイスが機能しなくなったら、家には入れなくなるかもしれません。

高齢者や障がい者が、生活に欠かせないツールとしてこれらのデバイスに頼っていた場合はどうでしょうか。機器などの切替操作などが身体的に困難なために音声認識でそれを実行するようなケースです。もし突然、音声認識が動作しなくなったりしたら、死活問題に陥るリスクもあるかもしれません。

わたしが気になっているのは、こうしたデバイスを供給しているサービス事業者が、どこまでクラウド障害によるサービス影響を「自分のこと」として捉えているだろうか、ということです。

パブリッククラウドを基盤に自社のサービスを構成した以上、クラウドが障害になれば、サービス事業者側ではなすすべはほとんど何もありません。ただ、障害復旧を待つのみです。ですから、「クラウド側が障害のため、復旧までお待ちください」とアナウンスするしかない、というのは正論です。しかし利用する顧客にしてみれば、サービス事業者からサービスを買っているのであって、クラウドを使っているつもりはありません。

クラウド側で何が起ころうとも、サービス事業者側ではコントロールすることはできません。ですから、クラウドが障害で止まるとしたら仕方がない、復旧が遅くてもあれだけの技術を持つすごい企業なのだからそういうものだと捉えるしかない、と考えるのは正論です。しかし、利用する顧客が見ているのはサービス事業者のほうであり、対応がまずくて信頼を失うのもサービス事業者のほうです。クラウド事業者ではありません。

スマートデバイスは、”現時点では” 社会基盤になるほどには普及しているとはいえず、仮に利用が全面的に止まったとしても、社会に大きな影響を与えるには至らないでしょう。サービス事業者の方針や態度が他力本願であったとしても、問題にはあまりならないと思います。

ただし、もし今後生活のスマート化が当前に組み込まれる社会が到来するとしたら、そのときサービス事業者は、より厳しく社会的な責任を問われることになります。そのときになってから、他者に左右されない基盤を自ら開発運用する能力を身につけようと思っても、時すでに遅しだろうと、わたしは想像します。

クラウドファーストだと言われているのに何を後ろ向きなことを、と言う論者もいるかもしれません。しかし、世間は通常、いかなる時でも一定以上のクオリティを要求し、不備を感じれば容赦なく批判します。通勤時間帯に通勤電車が全面ストップし、車内に「クラウド障害の影響で電車が発車できません。復旧までお待ちください。復旧の見込みは不明です。」などというアナウンスが流れたら、利用客はどう思うでしょう?少なくとも翌日のマスコミの記事の見出しは、鉄道会社を擁護するものにはならないと思います。

クラウドを使うのは、イージーです。使うほうがトクです。しかし一方で、牙を抜かれていないか。自らは何を重要な能力として保持し、なにを他者に依存するか。こうしたことは、経営者が考えるべきことです。技術分野だの専門知識だのは関係ありません。エンジニアは往々にして、イージーで見た目格好よさそうなほうを取ります。

その「カルチャー」、どれほど大事ですか?

先日読んだ複数の記事によると、残念ながらというべきかやはりというべきか、日本企業のDXの取り組みはかなり雲行きが怪しいものになっているとのことです。

経済産業省が昨年末に公開した「DXレポート2(中間取りまとめ)」によれば、国内223企業が自社のDX推進状況を自己診断した結果、2020年10月時点で9割以上が未着手や一部での実施にとどまっているとのこと。また、同じ結果を情報処理推進機構(IPA)が分析した結果では、部門横断で持続的にDXに向けた取り組みを実施している企業は全体のわずか8%と報告されました。

別の角度の報告として、日経BP 総合研究所 イノベーションICTラボによる独自調査「デジタル化実態調査2020年版(DXサーベイ2020年版)」では、DXプロジェクトに関する経営トップの姿勢を分析しました。その結果、「(経営トップはDXプロジェクトの)重要性を理解しているものの、現場任せ」が37.5%を占めたといいます。「重要性を理解し、DX戦略をリードしている」は13.7%しかいなかったとのことです。

リーダーの丸投げ体質が幅を利かせ、お題目だけで何も進まない、という、従来型の日本企業の典型像が想像できるような結果だと思います。バズワードくらいでは体質まで変わらない、という、当たり前の結果とも受け取れるかもしれません。

一般論として、平時のリーダーシップと有事のリーダーシップは、あるべき姿が異なると言われます。平時においては、民主的なボトムアップを尊重し、その環境を整え維持するリーダーシップのほうが有効です。一方で、変革を伴う有事においては、強いリーダーが場合によっては強権を発動してでも、ある一定の方向へ集団を導くリーダーシップでないと、組織を窮地から救うことは困難です。

有事というのは、なにもネガティブな危機だけを指すのではありません。社会の進展、業界環境の変化、競合の台頭、顧客の志向変容なども、対象になる企業にとっては有事です。デジタル社会もまた、従来型のビジネスのやり方では立ち行かないという点で、同じ文脈に当てはまります。

有事のリーダーシップの問題という側面では、最近の政府の新型コロナ対応にもその典型がうかがえるように、わたしは感じています。

昨年終わりごろからいわゆる第3波が到来し、各方面でこれまでにない切迫した状況に陥ったところであるのは、周知のとおりです。マスコミに煽られて多くの国民が政府の対応を批判し、内閣支持率が下がっていると聞きますが、そもそも第3波に至った最大の要因は、政府の無策や怠慢ではなく、感染に対する危機意識が大きく緩んだ国民が大勢いることにあります。そうした国民には、政府を批判する資格はありません。

これは、感染拡大の元凶と目される若者層だけではなく、投資してでも出勤の大幅制限を実行しない企業の経営者も同罪だと、わたしは考えます。わたしが現在関わる企業はすべて、出社や出張は厳しく制限し、勤務はおおよそ95%程度は遠隔です。緊急事態宣言後も変わらない通勤風景の映像を見るにつけ、驚きを禁じ得ません。

一方で、こうした危機的状況を目前にしてもなお「皆様のご協力をお願いします」としか呼び掛けず、どれだけの批判と抵抗に遭おうが私権の制限に踏み込んででも絶対に止める、という気迫が見えない政府にも、有事のリーダーシップとして問題があるとの指摘は免れないと、わたしは考えます。

国民も政府もどちらも、あるべき姿を捉えて、それに向かって「自身を変える」行動をしようという意識が十分ではない。そんな状況ではないでしょうか。なんだか企業のDXに対する態度と同じに見えてきます。DXもまた、企業のビジネスそのもの、これまでの常識、従来からの前提、そうしたものを変革する行動なのです。

とかく日本の企業ではリーダーシップが弱いか緩い組織が多いと、個人的にも感じることがあります。階層が深い組織ほどそうです。あるべき姿を提言すると、それに賛同しながら、「理想はそうだね」「うちのカルチャーではなかなか難しいんだよね」などという発言が返ってくることがあります。そうした反応は、リーダーシップを強力に取れる人物がその組織にいないことの現れであると、わたしは捉えています。何事も、変えるのは楽ではありません。リーダーシップの弱い組織で変革を進めるのは、それこそ「カルチャーに合わない」のです。

そのカルチャーを守るのと、顧客や社会にさらに大きな価値を提供して業績を挙げるのと、どちらが組織にとって大事なのか。カルチャーを守ったらこの先利益が上がるのか。そういう問題であるはずです。あるべき姿が自明なのであれば、自身を変える決断と行動は、まずリーダーが、経営者が、率先してとって範を示すべきではないでしょうか。有事であるほどに、気迫をもった行動が示されなければ、メンバーはついて来ないものです。

困難な年の初めに、あるべき姿を問う

2020年は異例尽くしの1年になりました。そして、2021年もその流れは続きそうな雰囲気があります。毎年、いつもなら年頭は前向きな気持ちで始めていきたいところですが、今年はなかなかそんな気分になりにくい向きもあるような気がしています。

こんなときこそ、あるべき姿を改めて問い直す年頭にしてはいかがでしょうか。

先の見えない状況では、どうしても目の前の課題にフォーカスが向き、次々とそれらを片付けていく格好になりやすいものです。しかしながら、それに任せて誰も全体感を把握していないと、知らぬ間にあらぬ方向に舵を切りやすいものです。気づいたときには、自らの立ち位置を見失い、必要なことと必要でないことの区別も付けられなくなっていきます。

ビジネスというのは、売れてナンボであることは間違いありません。ただし、売れるためには世間に価値をもたらさなければならないことも、また事実です。なんのためにその事業を推進するのか。なんの価値を世間に提供しようとしているのか。結局はそうした社会的意義を常に持ち続けていることが、苦境の時代において唯一の道標になるものだと、わたしは考えます。

ITの分野においては、近年では多様なツールやソリューションが出回り、利用しやすい状態になっています。昨年もまた、RPA、クラウドAI、IoTソリューション、ローコード/ノーコード開発など、すぐに使えて便利なITが多く採用されていました。

しかし、そうしたツールを表面的に使い回すだけでは、本当の意味でのデジタル化にはなりません。ここ最近の企業事例を見るにつけ、わたしには、単にツールを使っているだけの企業と、ビジネスや業務の全体構造を見据えてグランドデザインし、そのうえで適所にツールを適用する企業とで、くっきりと分かれてきているような実感を持っています。

前者のような企業は、目の前の課題への解決しか見えていないでしょう。そうした取り組みは、いつか全体感を失い、ビジネスとして動きが鈍くなるフェーズがやってくるだろうと想像します。

あるべき姿を常に見据え、この先もぶれない進め方をしていくためにも、一度立ち止まってグランドデザインを考えるには、この時期はいい機会かもしれません。

また同時に、流行や雰囲気に流され過ぎないことです。DXという言葉がよく強調されていますが、これは概念としては重要です。ただし、この概念自体は、わたしが当社を創業した時から申し上げていることであり、かつ当社が創業されるよりもっと前から先人が教訓として述べていたことです。

いま「DX先進企業」と呼ばれる企業はDXなどという言葉がない頃から取り組んでいるからいま成功している、という事実を思い返してください。そしてそもそも、「DX」と称しているのは、わたしの知る限りでは世界の中でも日本人だけです。digital transformation という言葉は欧米でも使われていますが、特別な意味合いを持たせてバズワードのように使われている印象はありません。

その本質を見極めれば、それとは異なる表面的なポジショントークや売込みを見抜くことは容易になります。

苦境にある業種業態の企業も多いことと思います。しかし一方で、さまざまなアイデアや工夫を繰り出して元気に乗り切ろうとする企業もあります。元気な企業を見習って、今年良い兆しが見えるようになることを期待しましょう。

デジタル化を始める前に、経営者にやめてほしいこと

いざデジタル化を本気で考えようとなった時、その会社の経営者が真っ先に考えやすいのは、ITをリードしてくれる人材を外から採用しようとすることです。

特に中堅以下の企業で、これまでITに “本気で” 取り組んでこなかった場合、社内にそれにふさわしい人材が不在であることが多くあります。育てようにもポテンシャルのある人材はいないし、いたとしても今度は育成ができる人材がいない。それであれば、いわゆるプロ人材か、大手で活躍するなど優秀な経歴を持った即戦力人材を取り込みたい。そう考えるわけです。

無理のないことです。ただし、この際に経営者がやってはいけないことがあります。それは、日本の経営者に顕著にみられる悪しき習性、「丸投げ」です。

「丸投げ」する経営者は、いわゆるプロのIT人材を雇うと、あとはその人物にITは全て任せてしまえばよいと考えます。なんとなくやりたい(が特に本気度が高いわけでもない)と思っていることだけ伝え、「何とかしてもらいたい」程度の指示しかしません。

つまり、経営者が課すITに対する要求は、ほとんどゼロ。ポリシーも指針も特になし。読んでほしいのは空気くらい、と言ったところでしょうか。

そうなると、任されたほうのプロ人材はどうするか。自分の好きなようにデジタル化を進めていきます。

「自分の好きなように」というのは、具体的には人によって異なるわけですが、ひとつ言えるのは、その企業の目指す姿を深掘りしてそれを強化しよう、支援しよう、とは ”考えない” ことです。まず、わかりやすい成果を出すこと、その次に、先進事例で取り上げられそうなネタに取り組むこと、それによってマスコミに取り上げられて有名になること。あわよくば何かの賞でももらえたら最高。およそそんなような方向で物事を進めるでしょう。

そうして出来上がるシステム基盤は、なんだか成果は出たようだけれど、そのプロ人材でしかコントロール不能で、周りにはよくわからないものになります。

このような取り組みを進めて「実績」を挙げた当のプロ人材は、自らの市場価値を高められて満足し、ほかの企業にまた転職していきます。そして残されたシステム基盤を、残った人材でメンテナンスし使いこなしていくことになります。それが難しいこと、会社がそのシステムに何となく引きずられていること、そんな負の側面は、社内で徐々に実感されていきます。

ここまでお話ししたシナリオは、外部人材を採用した場合の典型例のひとつです(ほかにもありますが、明るい話はあまりありません)。元々、経営者はプロ人材を雇ってデジタル化を進めようとしました。そんな経営者にとって、これで何が変革できたと言えるでしょうか。

実は、何も変わっていません。もしかすると、余計な資産を背負ってしまってマイナスかもしれません。しかしその要因は、丸投げした時点でつくられています。IT専門人材の問題なのではなく、経営者の問題なのです。

この「丸投げ」問題は、実はITだけでなく、営業、財務、商品企画、生産、広報など、あらゆる業務分野で起こっていることです。それもそのはずで、同様な考え方でプロ人材に丸投げすれば、他の業務でも同じシナリオになります。それにより、経営は現場のことがよくわからず、現場は自分の持ち場のことしかわからず、それぞれが個別のやり方に固執する部分最適が横行する会社となります。

そういう会社は、デジタル化を考える以前に、経営者が一念発起して社内を変え、全体を俯瞰し統率できる立場を取り戻す必要があります。それができていないなら、どんなプロ人材を入れようが、どんなシステムを導入しようが、ビジネスに永続的な進化をもたらすことはありません。

デジタル化を始めるなら、まず経営者が「丸投げしない」と心に誓うことから始めていただきたいのです。デジタル化について自ら徹底して考え抜き、自らが思うデジタル化を、自分が主導して進める。そういうポリシーを持ってから、人選していただきたいと願っています。