「見える化」と「見え過ぎる化」

よくある企業のシステム化事例に、「見える化で成功」というものがあります。

これまで曖昧だった社内の状態、顧客の状況、問題や異常、施策の成果などを、経営者や責任者または現場の人々が「見える」形に整え、確認したり評価したりできるようにする。「見える化」そのものは、大変に意義も効果もある取り組みです。

ただし、見えればよいというものでもありません。見え過ぎることで弊害が生じることもあります。

ある製造業の企業で、それまで見えていなかったサプライチェーンの動きを徹頭徹尾「見える化」して成果を挙げたという事例がありました。当時、この事例は大々的にマスコミに取り上げられ、仕掛け人だった当時の社長は「経営とITのどちらにも精通する人物」としてもてはやされていました。

ところがその社長が退任し、次の社長がその会社に就任すると、新社長はその「見える化」のほとんどを、ことごとく廃止していきました。なんと、見えなくてよいと宣言したのです。

現場の仕事ぶりと成果がすべてデータで挙がってくる「見える化」が、就任時点から労することなく整備されていたにもかかわらず、新社長はなぜ止めるように指示したのか。その理由は、現場にありました。

「見える化」を実現するためには、各業務の動きや流れをどこかでデータに変換しなければなりません。そのデータをどこかで入力し、どこかに集約して集計し、どこかから出力して、表示しなければなりません。実はこの会社では、こうしたデータ処理のプロセスのほとんどが、人力だったのです。現場の社員の多くはデータ処理に相当の工数を強いられ、実はお疲れ気味だったのだとか。

しかも社長向けに出力されてくるデータはかなり細かく、経営判断にはそこまで必要がないというものだったそうです。

「見える化」するのはよかったけれど、見えるようにしすぎて処理が重くなりすぎ、本来の業務に支障をきたすという、本末転倒な状況でした。もうやめるように指示するのも、無理はありません。

世間の事例をマネして単に「見える化」を目指そうとすると、リーダーの性格によってはこうしたことになりがちです。無用な細かさは、ITツールの技術的なスペックにも影響して無用な投資にもなりかねません。こうしたことを避けて「足るを知る」ためにも、まずはシナリオのデザインが必要です。見えるようにする前に、データを見ることによって何がしたいのか。見えるようになったデータから何をどのように達成して成果にするのか。

現実味のあるシナリオが的確に描かれていれば、必要十分な「見える化」となって、末永く自社のビジネスの仕組みに活かされるはずです。

当然ですが、「見える化」の受益者が経営者であるなら、システム要求の整理には主体となって参加すべきでしょう。

デカい会社よりも、ハヤい会社を

今から25年ほど前、大学の研究室で初めてMosaicなるものをコンピュータ画面で目にしたとき、それがいったい何の役に立つものなのか皆目見当がつかなかったことを、よく覚えています。

“Mosaic” とは、現在のWebブラウザーの原型となったソフトウェアです。その後どうなったかは、みなさんご承知のとおりでしょう。このように、わたしにはあまり先見の明がないのですが、年頭くらいはボヤキよりも前向きなことを書きたいと思い、少々慣れない将来予測をしてみたいと思います。

私見では、ビジネスを成功に導くために、当面は「ちょうどよい規模の驚速企業」を目指すのがよいのではないかと考えています。

ここでいう「ちょうどよい規模」とは、大きくてもダメ、小さくてもダメ、いわゆる「足るを知る」ということです。

まず、当面は大きなものを作ってはいけないと思います。大きなものは、全体制御も微調整も難しい。全体で信頼性を維持するのが困難であり、一部でも壊れればその影響が大きくなりかねない傾向があります。それに、柔軟性も通常はありません。何か課題を抱えた時、すぐに課題のある部分だけ直したくなりますが、たいていそれは理想的な解ではありません。そうわかっていながら、全体を考えようとすると複雑で面倒なので、部分的に直してしまいます。つぎはぎを継続するうちに無理が出るようになり、いつしか仕組みの効果や効率が落ちていきます。そしてそれが破たん寸前になるまで、当事者たちは問題にしません。

大きなものの末路とは、およそこうしたものです。

だからと言って、小さいものであればいいわけでもないと思います。小さいものにフォーカスすると、必ずそのうち、小さいもの同士を連携させたくなります。それが不幸の始まりです。始めのうちは繋いで幸せですが、徐々に調子に乗っていくと、構造が複雑化していきます。複雑化したものは、大きなものと同じです。しかも厄介なことに、人間は、複雑が極まってコントロールできなくなって初めて、それが複雑であることに気付く生き物なのです。

ちょうどよい規模であることがなぜ必要なのか。その理由は「驚速」にあります。これからの時代、企業は「常に速い」ことが要求されるだろうと思うからです。

その要因は、ITがもたらすスピードと処理能力です。資本がなくてもITのパワーを享受できる時代になったいま、これに対応できる人間や組織であるかどうかが問われます。ニーズに対して驚速でアウトプットを出せる企業が勝ち、遅かった企業は、場合によっては秒単位の遅れでも、淘汰されてしまうかもしれません。

ただし、速ければよいというわけでもありません。精度も問われます。速くアウトプットできたとしても、すぐにもろさが露呈する企業は、やはり淘汰されるでしょう。ITと、それを駆使する組織、安定した質を実現できる仕組み、すべてが問われます。これが、「常に速い」という意味です。

これからビジネスに要求される「驚速」を実現するための現実解が、現時点では「ちょうどよい規模」であることだろう、ということで、目指すべきは「ちょうどよい規模の驚速企業」と考えました。

ところで、「ちょうどよい規模の驚速企業」という目標のうち、「ちょうどよい規模」というのは「当面」に限られる話です。「ちょうどよい」時代の後には、「デカいのに速い」企業が主役になるだろうと思います。

そういう企業はしばらく出てこないだろうと思いますが、冒頭に申しあげたとおり、わたしには先見の明がありませんので、悪しからずご了承ください。

有価証券報告書は、ロボットに作らせる?

日産自動車前会長による有価証券報告書の虚偽申告の事件は、世間に大きな衝撃を与えました。報酬を過少に見せるという、経営者として、組織のトップとして、決してしてはいけないことを常態化させていたようだと伝えられています。日本を代表する自動車メーカーのひとつである同社の大変な危機を救い、ブランドを守った功績のあるカリスマ経営者であることはいささかも疑いの余地がありませんが、欲望を端に発するような不祥事は栄光も善行も帳消しにしてしまいます。

非難されるべきこと以外のことまで持ち出して一緒くたにする、こういう時のマスコミの批判のしかたのイヤらしさはともかく、わたしは報道を見ながら「こういうものこそロボットにやらせればいいのに」と考えていました。

ロボットによる自動化の使いどころには、いくつかの考え方があると思います。それを考えるのも、しくみのデザインです。その切り口のひとつが、人間による不正や犯行の抑止です。

機械には、感情がありません。意志がありません。空気も読めません。この特性は、人間の気持ちに配慮するような対応を実現しようとする場合にはマイナスに働きますが、不正の抑止という側面ではプラスに働きます。機械が自らの欲望に負けて不正を行うことはありません。

以前、アマゾンの物流センターの話を聞いたことがあります。そこで使われているオレンジ色をした箱形の搬送ロボットの話は有名ですが、実はこのロボットが動作する商品棚のエリアには、人間が立ち入ることはできないのだそうです。なぜなら、商品棚のある場所に人間が自由に立ち入れるようになっていると、商品を盗む作業員が出てくるリスクがあるから。また、配送する段ボール箱に出荷ラベルを貼る作業も、ロボットが自動で行い、人間の介入は許さないのだそうです。なぜなら、そのラベルに書いてある宛先は個人情報であり、プライバシー情報を持ち出す作業員が出てくるリスクがあるから。

人間による不正が行われるリスクがある業務プロセスを見極めるという考え方は、欧米ではよくあるアプローチとはいえ、さすがアマゾン、よく考えていると感じました。

そんなことを思い出しながら、有価証券報告書もロボットがつくればいいのにと思いつつ、同時に、たぶん誰もやろうとしないだろうなとも考えました。ロボットに仕事を奪われる経理部門の人たちが拒絶反応を示して、購入を許容しないかもしれません。自ら積極的に導入を考える経営者がいるかといえば、そんなふうにリスクヘッジをしようとする経営者はそもそも、不正を働こうなどという欲求は持ちえないでしょう。

そのデジタル化、動機は何か

わたしがかつて勤めていた会社は稲盛和夫氏と深いかかわりがあり、社内では稲盛氏の哲学を語る言葉が多く交わされていました。もう何十年も前の話なので内容はほとんど忘れてしまっていますが、そのなかでなぜか、「動機善なりや 私心なかりしか」という言葉だけ、いまでもよく思い起こされます。

私見ですが、エンジニアというのは典型的に、技術的にやれること、技術的に可能なこと、技術的にやりたいことは、やってみたいと考えるものだと思っています。およそそのときに念頭を占めるのは「技術」、すなわち「私心」です。顧客がほしいものは何なのかという視点が抜けがちなのです。顧客はドリルが欲しいのではなく、穴が欲しい。わたしもエンジニア上がりですので、「動機善なりや 私心なかりしか」という言葉を自戒をもって心に留めようとしていたのかもしれません。

最近、決済を完全キャッシュレス化する店舗をオープンすると、某外食企業が発表しました。注文をセルフ式にし、決済で現金を取り扱わないことによって、従業員の間接業務を軽減するとしています。また取り組みが成功すれば、ほかの店舗にも広げるとしています。

人手不足が深刻など事情はあるでしょう。しかし、少額の場合は特に現金決済するケースが現在では主流である日本において、現金決済を一切断るレストランというのは果たして「動機善なりや」なのか、わたしには疑問です。

こういう取り組みではほとんどの場合、浮いた労働力を顧客満足度向上につながる作業に充てる、などと企業は主張するのですが、本当にそのシナリオまで描いて取り組んでいるのでしょうか。

わたしが先日不意に入ったある食堂は、テーブルにタブレット端末が置いてありセルフ注文する形式でした。これもまた従業員の間接業務の軽減策なのでしょうが、その従業員たちが店内で何をしていたかといえば、フロアで接客するでもなく、全員が厨房近くにただ立っているような状態でした。客に呼ばれないので、あまりやることがないのでしょう。

わたしはキャッシュレス決済に反対しているわけではありません。「動機善なる」取り組みとしては、スポーツの公式試合を行うスタジアムの例があります。先進的なスタジアムの取り組みで、チケットからグッズ販売、飲食店での購買など、あらゆる体験を電子化しようという構想が進められています。

スタジアムでの観戦は、人気の高い試合である場合は特に、売店での行列は時に集中して激しくなることがあります。この状況で現金決済していれば、行列に拍車をかける可能性が高くなります。もし電子決済できればレジでの混雑緩和に大きく貢献し、顧客は確実に喜びます。

また、スタジアムはたいてい広いので、どの店で何を売っているかをきちんと把握するのは顧客にとってなかなか面倒です。席を立てる時間に限りがある状況であるほど、座席の近くで用事を済ませるのが普通でしょう。そこでもし、利用者の属性と顧客の決済情報を結び付けて商品や売店のレコメンドなどができれば、店を探す時間の短縮につながって顧客はうれしいはずです。

同じキャッシュレス決済の話ですが、どちらのほうが期待を持てるビジネスに感じられるかは、言うまでもないと思います。

デジタル化という取り組みは、エンジニア的発想に取りつかれるほどに、つまりデジタルそのものが目的になるほどに、「私心」満載になりやすくなると感じます。これは、顧客に関連したデータ取得や分析などでも同じです。そういう「先進」事例を、マスコミがあたり構わず好事例であるかのように報道していることが少なくないように見えるのが、個人的に最近気になっているところです。

サービスは、イノベーションより「見せかた」がむずかしい

最近、製造業の企業が事業をサービスやソリューションの提供にシフトしているとして、話題に上ることが多くなっています。

例えば、トヨタ自動車は先日、「自動車を作る会社から、“モビリティカンパニー”にモデルチェンジをする」と、社長自ら宣言しました。また、今月開催される国内最大の家電・IT見本市「CEATECジャパン」では、コマツやファナックといった”機械メーカーの雄”ともいえる企業が、「製品」ではなく、自らが仕掛ける「サービス」について基調講演するということで、話題になっています。

この背景には、あらゆるものが「つながる」ようになっているという傾向、そして、つなげる部分を担うプレーヤーが業界を制する立場になりやすいという実情があると思います。モノづくりに高度な技術は相変わらず必要であるものの、モノを作っているだけでは価値提供として足りない時代になってきたということでしょう。

実は、トヨタ自動車がこのような「宣言」をしたというのは、個人的には内心ほくそ笑んでいるところがあります。わたしは2012年1月の当コラムで、同社を話題にして、『自動車会社は今後自動車を「端末」として扱い、ケータイなどの「端末」と同列化しながら、それらをつないでサービスを展開する「プラットフォーム事業者」を目指したらどうか』と書き記していました。まさに、趣旨を同じくするような「宣言」をしたわけです。

ここしばらくの間は、多くの企業で「サービス化」の動きが加速していくだろうと見込まれます。ただ同時に、おそらく相当の企業がまず壁にあたるのではないかとも思っています。

サービスを作るには、顧客にそのサービスを「どうやって見せるか」という観点が重要であると、わたしは考えます。例えば、同じ飲食店をやるにしても、店をどう見せるか次第で、顧客に映る魅力がまったく変わってしまい、差がついてしまうということです。

このように言うと、ブランドプロデュースのようなことを想像されてしまうかもしれませんが、そうではありません。「どうやって見せるか」とは、顧客にサービスをどうやって使ってもらうのかであり、どう利用してもらえれば顧客が喜ぶかということです。ブランド価値があるのかどうか以前に、それはサービスを提供する企業自身が、こだわりを持って作り込むことです。

サービス提供に失敗する企業は往々にして、この部分をうまく作り込めていないか、そもそもよく考えていない傾向があるように感じています。結果として、魅力を感じない「フツウ」のサービスに顧客には映り、積極的に選ばれないわけです。

見せかたをよく考えなくても、ブランドやブームを前面に出してマーケティングすれば、それでもビジネス的に成功はするでしょう。しかし、だいたいの場合それは一時的です。そのうち中身の本質を顧客に見抜かれるようになり、飽きられて「フツウ」になっていきます。大事なのは、華々しくマスコミに取り上げられることよりも、永く顧客に支持されることではないでしょうか。

特に技術を活用したサービスの場合、こうしたことを真剣にデザインしていないと、単なる技術のつなぎ合わせのようなサービスになります。そういうものはすぐに真似ができ、すぐにそれを超えるサービスを出されてしまいがちです。

技術競争は、価格競争に似て、リソースの消耗戦になっていきます。資金や人材が潤沢な大手企業には決して勝てません。また大手企業にとっても、そうした競争の先に「イノベーションのジレンマ」が待ち受けているということは、すでに過去の歴史が証明しています。

もしサービス提供を本格的に考えるのなら、流行に駆られて先走る前に、まずはしっかり「どうやって見せるのか」を考えることをお勧めしたいと思います。デジタルなどは、その仕組みやロジックを考えた後の話です。

お客さまの話なのに半分くらいしか信用しない理由

わたしのような、業務分析を行うスキルを持つコンサルタントは、企業の支援に入る際に、その前段として「監査」と呼ばれる行為を行うことがあります。なにぶん言葉が威圧的ですので、お客さまに直接「監査します」と申し上げることはほぼありません。そう言わずに、そういう調査活動をしています。

これは、初めて関わる顧客について深く知るということが主目的ですが、この「深く知る」にはいろんな意味が含まれます。

例えば、訪問先の企業において経営者やリーダーの方々からお話をうかがいます。すると、出てくるのは9割がた「素晴らしく優秀な話」です。素晴らしい実績、優秀な人材、機動的な体制、クオリティの高い仕事、高度な技術、興味深い取り組み、獲得した褒賞資格認証、等々。

感心しながらお聞きしていますが、その時点では内心、話半分で聞いています。本当にすごいのかは、客観的に検証する必要があるためです。

見下すような気持ちは毛頭ないのですが、話を聞いただけでは、コンサルタントはまだ疑っているのです。これは個人的な性格の問題でもありません。一応、理由があります。次のエピソードを例に説明したいと思います。

ことしの2月、産業総合研究所(産総研)は、標的型攻撃により外部から不正アクセスを受けたことを明らかにしました。その後、去る7月にその詳細と対応方針をまとめた報告書を公表しています。

A4用紙50枚にわたるその報告書によれば、不正アクセスは昨年10月末から今年2月にかけて継続的に実行され、研究所管内のあらゆる業務システムに不正にアクセスをされたとのことです。犯人は、4カ月間かけて不正なログインを次々と成功させていったようです。

不正アクセスを許すに至った大きな要因としては、脆弱なパスワード設定をしていたアカウントの存在、サーバー設定の甘さ、などと結論付けています。

産総研といえば、著名なセキュリティ研究者が在籍するなど、国を代表する研究機関のひとつです。従前から、世間並み以上の情報セキュリティマネジメント体制がありました。CISO(最高情報セキュリティ責任者)もいて、委員会組織もあり、各部門にも情報セキュリティ責任者がいました。外部委託して運用監視もしていましたし、パスワード設定の所内規定もきちんとありました。

このインシデントが起こる前に、産総研の情報セキュリティ対策について(単に)話を聞けば、(専門家を含めて)ほとんどの人が「十分な体制だ」と評価したに違いありません。おそらくその気になれば、情報セキュリティ分野で国際的に価値が認められている「ISMS(ISO27001)」認証が取れるくらいのマネジメント体制だったと思われます。だからこそ、おそらく犯人の最大の目的であったであろう、機密情報の漏えいには至らなかったのでしょう。

しかしながら現実は、標的型攻撃には少なくとも4カ月間気づかず、気づいたきっかけは監視の結果ではなくまったくの偶然、不正を許した最大の要因は(報告書曰く)「キーボード配列をなぞっただけの安易な」パスワードやサーバー設定の甘さでした。

このエピソードから教訓として得られるのは、シゴトの仕組みというのは「実際に実行されて初めてその意味を成す」ということです。体制がある、ルールがある、機能がある、手順がある、だけでは不十分で、組織が完全に実行しなければ(または実行できないならば)、決めていることのすべてが無意味になりかねないのです。

産総研でも今回、その点に大きな反省を示しています。報告書には今後の対策が整理されていますが、その多くは管理体制の見直しと強化です。

わたしのようなコンサルタントが、話を聞いただけでは信じない理由が、ご理解いただけたでしょうか。話を聞いた後、それを裏付ける行動が実際に示されるかどうかを、必ず確認しに行きます。「監査」とは、かみ砕いて言い換えれば、「言っていることとやっていることが一致しているかを確認する」調査活動のことです。一致していない場合、そこに克服すべき問題があることが多いのです。

「ビジネスのデジタル化」も、いつか来た道

「デジタルビジネス」やら「ビジネスのデジタル化」やら、そんなフレーズが様々なかたちで耳に入ってきていることと思います。マスコミが連呼し始めるにつれ、急に焦りを感じ始める経営者の方もいるかもしれません。

ここで短絡的に「デジタル化を何かやれ」と社内で言い出す前に、デジタルビジネスとはどういうことなのか、まず考えを深めてみてください。

会社や事業にデジタルを取り込むとは、どういうことでしょうか。いま流行りのAIだとか、IoTだとか、RPAだとか、そういった技術を導入すればデジタル化は成就するのでしょうか。

デジタル化とは言いますが、新しい話なようでいて、行われることの実態は昔からある「機械化」と何も変わりません。人の作業が機械で実行できる、それによってビジネスのあり様まで変わる、というのが本質です。

機械化は、これまでも人間の働き方に大きな変化をもたらしてきました。

18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命では、産業機械や動力技術の発達により、従来の手作業ではありえない生産性を実現することになりました。大量生産と大量流通の実現により労働者の働きかたも大幅に変わることとなり、それが「仕事を奪われる」恐れを生み、労働者の暴動に発展することもありました。

もう少し最近で言えば、かつて電話が贅沢な通信手段であったころ、電話回線の接続は交換手という労働者たちの人力で行われていました。この仕事のしかたでは加入者の収容に限度がありましたが、自動交換機が発明されて以降、従来とは比較にならないほどの数の加入者を安価に収容することができるようになりました。電話が一般に普及する一方で、交換手という職業は姿を消しました。

つまり、デジタル化もまた機械化と同様に、会社のアウトプットのしかた、業務のしかたを大幅に変革する取り組みになるということです。歴史が示すとおり、デジタルにしてお手軽に完了する話ではないのです。そして、現代のコンピュータがもたらす技術的インパクトは、過去の機械のそれと比較にはなりません。そう考えれば、過去よりもより高度で複雑な成り行きを想像しなければならない状況にあるはずです。

従ってデジタル化に取り組むのであれば、会社としてそもそもどういう未来を追求するのか。そのアウトプットは世間に役立つものなのか。そのアウトプットのために自社のビジネスのどの部分に何を適用すればよいのか。どこまでデジタルを追求すれば目指すものに適うのか。それによって仕事のしかたをどう変えるのか。その変更に自社はどう適応できるか。そのような思考のもとで、自社のビジネスのしくみをまず考え直す。それが、デジタルよりも先にやることであるはずです。

その考えが浅いうちに世間のバズワードに踊らされると、その「デジタル化」は、コストはかかっても大した意味は出せない、むしろ混乱しか招かない、よくある悪しきIT導入と同様に終わることでしょう。

見かたを変えれば、普段からビジネスのしくみを意識し、シゴトのしかたをつくり上げてきている企業にとっては、デジタル化は結構ラクに対応できるトピックなのです。いま「デジタル化」で顕著な成果を挙げている企業は、およそそういう企業です。

「ウチはそこそこイケてる」という認識は、だいたい甘い

自分の会社の実力について、一流とまでは思わないが少なくとも平均以上ではあるだろう、と思っている人は多いようです。

わたしは仕事柄、少なくない企業の業務の実態を観察していますので、拝見すればどの程度のレベルなのかは判断がつきますが、過去には「ウチはそれほどレベルが低いとは思っていない」とはっきりおっしゃる方もいました。

しかしながら、私見では多くの方々の自己評価はおおむね「甘い」と言わざるを得ません。世の中の会社の半分は「平均以下」であるという真理を、一度認識することが必要だと思います。

何らかの根拠をもって「ウチは十分イケている」とおっしゃるなら、問題はありません。もし根拠になるものを持ち合わせていないなら、ほかの会社の仕事ぶりを積極的に観察しに行くことをお勧めします。

経営者であれば、いろいろなツテをお持ちだろうと思います。訪問したいと思えば多くの機会があるでしょう。業種業態をえり好みせずに、多くの企業の業務をご覧になるとよいと思います。

会社訪問のほかにも、経営者がほかの会社を観察する方法はあるでしょう。自分が動きさえすれば、あらゆる機会において、ほかの会社の実力をうかがい知ることができるはずです。

たとえば、株主総会などもそうです。

株主総会では、その会社のトップが議長を務めて議事を進行していきますが、その会社の実力がうかがい知れるのは、質疑応答の時間です。多くの株主から、様々な関心ごとについて質問が投げかけられます。

その会社の実力が見えるのは、その受け答えです。質問の内容によって誰が回答者として登壇してくるか。想定問答に従って通り一遍の言葉をいわば「読上げ」しているだけなのか。的確な理解のもとにわかりやすい言葉で回答しているのか。厳しい質問にどう答えるか。議長は補足説明などにどう対応するか。

優れた企業は、延々と投資家の質問を受け続け、どの回答もレベルが高い。それに加えて議長が的確な補足をすると、トップの実力が高いことまで理解できます。

ある金融系の企業では、ブロックチェーンに関する質問を受けて、担当役員が回答した後、議長であるCEOが補足で、事業面と技術面から極めて的確な説明を行いました(もちろんカンペなどありません)。表面的な理解では決してできない説明をしたのは、すぐにわかりました。そういう受け答えを聞くと、この会社はしばらく問題ないなと納得するものです。

会社訪問に行ったとしても、ただ案内されたものを見て感心しておしまい、では何も見抜けません。その会社の業務について、またその会社を支える仕組みについて、どれだけ関心があるかが問われます。関心があれば、ほかの会社の実力、さらには自社の真の実力も、見えてくると思います。

「データは客観的」のウソ

ビッグデータ、ビジネスインテリジェンス、人工知能(AI)と、ここのところデータ活用を軸にした話題に事欠きません。かつて “Data is the new oil.” と謳われ、データが持つ潜在価値と将来性がクローズアップされました。データを持つことは競争力の格差につながると考える企業は、その収集と集約に躍起になっているところです。

データのどこに価値があるのかと言えば、それは人間には見えないもの、感じ取れないものまで含めて、事象をデジタル化して記録するところにあるのでしょう。

事象によっては、すべてを捉えようとすればそのデータ量は膨大になることがあります。または、ものによっては一瞬で完了してしまうような事象もあります。膨大であっても高速であっても、データにすることで利用が容易なかたちで収めることができる。データが事象を説明しているので、観察や分析ができる。結果として、新しい知識の発見につながる。こういうことが価値となるのだろうと思います。

そのように考えると、事象を捉えたデータというのは、きわめて客観性が高いもののように思えてきます。私見では、多くの企業が「データは客観性が高く、正しい」という理解をしているのではないかと感じています。

しかしそれは、大いなる誤解です。データは、実際には「主観の産物」です。

データは、オイルと違って天然に存在する資源ではありません。データは、取得すべくして人間が設計するから、取得できるモノです。どのようにデータ化するかの設計は、人間の主観で行っています。そうである以上、得られるデータも、主観の域を脱することはありません。

例えば、「気温」はどうでしょう。気象庁が公式に各地の気温を発表しています。疑いようのない、正確なデータです。ところで気温はどのように計測されているかご存知でしょうか。日本の気象庁では、地表面から1.5mの高さで測定することが基準とされています。

この ”1.5m” というのは、人間の主観です。そもそも気温は、地表面から成層圏までスペクトル状に分布し、両端では大きく異なります。夏場において、ベビーカーに乗った幼児が感じる「気温」は、気象庁発表の「気温」よりもかなり高い、とはよく聞く話です。それでも気温を1.5mの高さで測定する「主観的」な判断に誰も文句を言わないのは、多くの人にとって生活実用上問題がないからにすぎません。

主観的に設計した結果としてデータが取れるのであって、設計しなかったデータはもちろん取れません。そういえば、もうすぐサッカーのW杯が始まりますが、サッカーにおいてはフォーメーションが重要だと言われます。選手をどのような配置でフィールドに並べ、局面に応じてどのような連動をさせるかが、勝敗に大きく影響するというわけです。

これが理解できているサッカー玄人の分析者なら、効果的な戦術を導こうとするとき、試合中のボールの動きだけでなく、ボールを持っていない選手の動きまでを含めてデータを取得し、分析しようとするでしょう。玄人にとっては何のことはない話です。

一方で、わたしのようなサッカーの素人だったらどうでしょうか。戦いかたを知らない素人に試合をさせると、往々にしてほぼ全員がボールに寄っていく動きをするものです。ボールにしか注目していないのです。そういう素人がサッカーの試合を分析しようとしたら、ボールを持った選手とボールの動きのデータしか取らないかもしれません。仮に玄人が取ったデータを利用して分析するとしても、素人は興味も関心もないので、ボールを持っていない選手の動きなど見ようともしないと思われます。この場合、ボールを持たない選手の動きに関する知見は、どんなに頑張って分析しても得られないでしょう。

こうしたことは、ビジネスの現場でも多数起こっているのではないかと推察します。つまり、設計時点で考えが及んでいないデータは、分析されないどころか存在さえできないということです。それは、データが「主観の産物」だからです。

別の観点でもうひとつ。データは取得が終わった時点で「過去のもの」になり、必ずしも「いま」の分析に有効ではないかもしれません。

例えば、顧客向けに満足度評価のアンケートを継続的に取っているとします。あるとき、アンケートの質問を改善したとします。そうすると、回答する顧客が質問に対して感じることが変わり、結果として回答の傾向に影響が出ます。

こうなると、前のバージョンのアンケートで取得してきたデータとは、単純比較できなくなります。アンケートを変えたいと思うということは、何らかの形で評価したいことが変わったということです。その時点で、蓄積してきたデータはもう使えなくなります。設計を主観的に行っている以上、その主観が変われば、取るデータの意味合いも変わり、どれだけの蓄積があろうとも過去のデータは無用になるのです。

このように、データは「主観の産物」です。あなたが想像できないものは見えません。森羅万象が取れることもありません。他人が取ったデータは、自分が欲しいデータではないかもしれません。自分でよく考えることなく単にかき集めているだけでは「使えるデータ」は手に入らないと認識することが、データ活用の始めの一歩になるのではないかと思います。

話題の技術に踊らされる会社 踊らされない会社

AI(人工知能)が巷で話題になると、「ウチも AI を使ってなにかやれ」と部下に指示する経営者。

信じたくはありませんが、本当にいるのだそうです。

「ウチの商品・サービスにAIを適用したら、○○が●●になって、これまでにない新しい価値が出せるのではないか」というような話をするのなら、ひとまず許容範囲です。そうではなく、「なにかやれ」とだけ言うということは、どう使うとよいと思っているのかについてはノーアイデア・ノープランであるのは明らかです。

経営者がそんな技術的なことに専門家並みに詳しいなど無理だ。こんな反論がすぐに返ってきそうですが、うまく技術を取り込む会社では、そんな言い訳は聞かれません。それでいて、経営者は技術の専門家では必ずしもありませんし、目指してもいません。ただ一点、的確に方向性を伝えなければ「まずいシナリオ」に嵌ることだけは、熟知しています。

まずいシナリオとはどういうことか。冒頭のようなかたちで指示すると、技術にフォーカスが置かれ、その検討がうまく行ったとしても、結果はビジネスに対してあまりインパクトをもたらさない「小粒なもの」になりやすい、ということです。

つまり、こういうシナリオです。特定の技術を自社に適用することが目的になると、およそ発想の方向は「その技術はウチの業務のどこに使えるだろうか」となっていきます。そしてその検討の結論は、「~の業務のうちの…の部分に適用できるかもしれない」となります。そして実際に実証試験を行って、たしかにうまくハマりそうだ、となるわけですが、それは所詮「ある業務のいち部分」でしかありません。

たしかにその業務だけで見れば、自動化なり効率化なりを実現しますから、現場としてはうれしいかもしれません。それがマスコミにおいて話題になっている技術だと、先進事例だとして取材に来られて世間に知られることになり、担当者は得意な気分になるかもしれません。

しかし、経営レベルから見れば、そのインパクトは「ある業務のいち部分」でしかありません。通常、「ある業務のいち部分」がビジネス全体に及ぼす影響は、大したことがありません。従って改善のインパクトも、大したことはないことになります。おそらくその会社の経営者は内心、「新聞で言われるほどすごくはないな」「まあそんな程度のものか」というような感想を持つでしょう。

そのような感想を持ってしまうのは、このシナリオを辿るなら、厳しい言い方ですが自業自得です。なるべくして「まあそんな程度」になっています。

ただし、このシナリオにおいて注意すべき例外があります。こと IT の場合、ある技術の採用が会社の業務基盤を根底から変えてしまう影響力を持っているケースが、時としてあります。その技術を採用することで、仕事のしかたがごっそり替わる、問題発生時に解決の仕方がこれまでと変わる、業務のやり方が縛られる、などということが起こりえます。

経営者が、技術の採用によりこうしたインパクトがあることに疎い(そういう類の技術に限って、そのインパクトが素人には分かりにくいのです)と、以前と違う状況になっているとはっきり気づいたときに、小さくないショックを受けることになるでしょう。そして、そこから元に戻すことは、もうできなくなっています。

マスコミはほとんど取り上げませんが、新しい技術を使ってポジティブな成果を挙げる企業は、その技術の適用を考える前に、自社のビジネスのグランドデザインがきちんとできています。事例を「きちんと」分析すれば、その会社がきちんとグランドデザインを描き、それを下敷きにして技術適用の検討を進めてきたのかどうかは、感じ取れることが多いものです。

グランドデザインがあるということは、その会社が実現したいことが明確に決まっている、ということです。ですから、新しい技術がその役に立つ可能性について、容易に判断がつくのです。

そういう会社の経営者は、「ウチも AI を使ってなにかやれ」などとは決して言わないでしょう。そんなこと言わずとも、社内で勝手に検討が進んでいるはずです。それが、グランドデザインを考えている会社とそうでない会社の差です。