わたしがかつて勤めていた会社は稲盛和夫氏と深いかかわりがあり、社内では稲盛氏の哲学を語る言葉が多く交わされていました。もう何十年も前の話なので内容はほとんど忘れてしまっていますが、そのなかでなぜか、「動機善なりや 私心なかりしか」という言葉だけ、いまでもよく思い起こされます。
私見ですが、エンジニアというのは典型的に、技術的にやれること、技術的に可能なこと、技術的にやりたいことは、やってみたいと考えるものだと思っています。およそそのときに念頭を占めるのは「技術」、すなわち「私心」です。顧客がほしいものは何なのかという視点が抜けがちなのです。顧客はドリルが欲しいのではなく、穴が欲しい。わたしもエンジニア上がりですので、「動機善なりや 私心なかりしか」という言葉を自戒をもって心に留めようとしていたのかもしれません。
最近、決済を完全キャッシュレス化する店舗をオープンすると、某外食企業が発表しました。注文をセルフ式にし、決済で現金を取り扱わないことによって、従業員の間接業務を軽減するとしています。また取り組みが成功すれば、ほかの店舗にも広げるとしています。
人手不足が深刻など事情はあるでしょう。しかし、少額の場合は特に現金決済するケースが現在では主流である日本において、現金決済を一切断るレストランというのは果たして「動機善なりや」なのか、わたしには疑問です。
こういう取り組みではほとんどの場合、浮いた労働力を顧客満足度向上につながる作業に充てる、などと企業は主張するのですが、本当にそのシナリオまで描いて取り組んでいるのでしょうか。
わたしが先日不意に入ったある食堂は、テーブルにタブレット端末が置いてありセルフ注文する形式でした。これもまた従業員の間接業務の軽減策なのでしょうが、その従業員たちが店内で何をしていたかといえば、フロアで接客するでもなく、全員が厨房近くにただ立っているような状態でした。客に呼ばれないので、あまりやることがないのでしょう。
わたしはキャッシュレス決済に反対しているわけではありません。「動機善なる」取り組みとしては、スポーツの公式試合を行うスタジアムの例があります。先進的なスタジアムの取り組みで、チケットからグッズ販売、飲食店での購買など、あらゆる体験を電子化しようという構想が進められています。
スタジアムでの観戦は、人気の高い試合である場合は特に、売店での行列は時に集中して激しくなることがあります。この状況で現金決済していれば、行列に拍車をかける可能性が高くなります。もし電子決済できればレジでの混雑緩和に大きく貢献し、顧客は確実に喜びます。
また、スタジアムはたいてい広いので、どの店で何を売っているかをきちんと把握するのは顧客にとってなかなか面倒です。席を立てる時間に限りがある状況であるほど、座席の近くで用事を済ませるのが普通でしょう。そこでもし、利用者の属性と顧客の決済情報を結び付けて商品や売店のレコメンドなどができれば、店を探す時間の短縮につながって顧客はうれしいはずです。
同じキャッシュレス決済の話ですが、どちらのほうが期待を持てるビジネスに感じられるかは、言うまでもないと思います。
デジタル化という取り組みは、エンジニア的発想に取りつかれるほどに、つまりデジタルそのものが目的になるほどに、「私心」満載になりやすくなると感じます。これは、顧客に関連したデータ取得や分析などでも同じです。そういう「先進」事例を、マスコミがあたり構わず好事例であるかのように報道していることが少なくないように見えるのが、個人的に最近気になっているところです。