AI(人工知能)が適用されるビジネス領域は、拡大の一途です。ChatGPT が衝撃を与えて以降、クラウドでのサービス展開も含めて、一気に応用領域が広がった感があります。また、その適用の範囲は、現場作業の置き換えや支援から、事業のコアとしての実装まで、あらゆる領域にわたります。
企業が本格的に AI を取り込んで業務に適用しているケースは、大企業ではほとんど行きわたっていると思われますが、中小レベルでは温度差があるでしょう。それでもこれだけ世間で話題になっているのですから、個人的にであれば遊び程度でも、対話型AIを触った経験がある方も多いのではないでしょうか。
企業が AI を活用しようとするなら、その取り込みかたについては十分に戦略的であるべきだと、わたしは思います。大手企業であっても安易な採用のしかたが散見されると思って見ています。
特に経営者がきちんと考えを及ぼすべき論点は、「使おうとしている AI が事業の根幹に影響を及ぼす可能性があるのかどうか」です。ChatGPT に情報を調べてもらう、知識を教えてもらう、資料をまとめてもらう、図や絵を書いてもらう、程度のことであれば、現場の好きなようにやらせてもそれほど問題はないでしょう。ただし、ビジネスの価値提供に大きく影響を与えるような使い方をしようとするなら、安易な方向に流れていかないように、経営が環境を構築することが必要です。
例えば、AI が適用される有力な領域に、翻訳があります。OpenAI など有力なテック企業が開発する大規模言語モデル(LLM)を基にすれば、あらゆる言語への翻訳がかなりの精度で実現できることが実証されています。これを用いて、様々な出版物に適応できるように AI モデルを改良し、価値を生み出そうとするスタートアップ企業も出てきています。
マンガの翻訳などはその一例で、マンガを多言語に翻訳するエンジンを開発するスタートアップ企業が複数出てきています。現状では、マンガやアニメには独特の言い回しが多く、翻訳には物語の背景に対する理解も必要で、単に LLM を使うだけでは精度が出ないと言われています。しかし、そうした背景、言い回し、ニュアンスなどを、マンガやアニメに最適になるように学習させれば、精度が確実に上がっていきます。要は、時間と労力の問題です。それに取組もうとするテック企業に、出版社が出資をして、翻訳を委託する動きがあるようです。
ご存じのとおり、日本のアニメやマンガは、海外で人気を博しています。今後ビジネスとして大きく伸びる可能性を秘めているでしょう。それに対して、翻訳の工程における精度を格段に向上させ、また格段に処理時間を短縮させて、海外市場に素早くコンテンツを展開できる可能性を、AI は持ち合わせています。きわめて有力な競争力のリソースになり得るテクノロジーです。
では、そうした競争力の源泉のタマゴと言えるリソースを、自前で持たなかったらどうなるか、出資する出版社の経営者は考えを及ぼしているのでしょうか。「ウチはITの会社ではないし、専門技術を持った集団がもう存在しているのだから彼らに任せるのが早い」などと考えて、易きに流れていないでしょうか。
今後、日本の人口が減少すること、つまり国内のマンガやアニメのファンは減少することは、すでに分かっていることです。一方で、海外では今でも人口が増えている国や地域が少なからずあります。海外でマンガやアニメの人気が順調に拡大していった場合、売上構成は海外が主、国内が従、になる可能性は十分想定されます。そのとき、多言語翻訳はビジネスの展開において、価値提供に不可欠なピースになるはずです。自前でやらないということは、事業に不可欠な要素を社外の別の会社に依存する、ということになります。
一方、AI 翻訳企業の立場で見れば、出版社にとって自分の会社が、事業存続のためになくてはならない存在になります。そうなった時点で翻訳の機能を果たすのみならず、海外への物理的な展開や配信まで機能的役割を果たせるようにビジネスを作り上げられていれば、アニメ・マンガ業界のプラットフォーマーになれる可能性も見えてくるでしょう。
そうした将来シナリオを今の時点で想像できているのなら、出版社の社長は、自前でAI モデルを育てないと「ビジネスの肝」を他社に押さえられてしまうという危機感にとらわれないとおかしいと思うのですが、いかがでしょうか。
AI は、データを食べて成長し、力をつけます。そのデータはどこから来るのかといえば、企業が自前で持つ情報から来るのです。その情報がビジネスの根幹をなす源泉であるほど、それを食べて成長した AI モデルがビジネスの根幹をなす存在になるのは自明です。AI モデルが成長して脅威を示すようになってから、そのデータはウチのデータなのだから返してくれ、使用料払ってくれ、と主張したところで、もう消化してしまったデータを取り戻すことはできません。そして、一度成長してしまえば、その能力は岩盤のごとく強固な存在になります。長年かけて強化してきた AI モデルに対して、随分後になってから自前で追いつこうと思っても、追いつけないでしょう。
AI を事業に活用しようとするなら、どのような用途に使おうとするのか、それは手間をかけて自分で育てなくてもいいのか、経営者が主体的に戦略を設計し、会社の方針として指示を出していく必要があります。そして、事業成長に AI が有力だとなれば、長期戦と捉えて AI モデルを自分たちで地道に育てていく環境を整えていく覚悟も必要です。
戦略もシナリオも考えずに易きに流れれば、上記の出版社のように、気づいたら外部のテック企業がいないと生きられない会社に成り下がるかもしれません。テクノロジーというのは、「ウチは技術の会社でないから関係ない」では済まない、もはやそういう存在なのです。