自虐はやめよう、「ガラパゴス」かどうかは顧客が決める

ここ最近読んでいた記事のなかで目を引いたもののひとつに、「国家ブランド力」で日本が60か国中でトップに立った、というトピックがありました。アンホルト-イプソス国家ブランド指数(NBI)というもので、フランスの調査会社イプソスと、国家イメージ分野における世界的権威サイモン・アンホルト氏が、2008年から共同で実施している、国家ブランド力を評価するグローバル調査です。

NBIでは、「輸出」「ガバナンス」「文化」「人材」「観光」「移住と投資」の6つのカテゴリとそれぞれの詳細な属性について、世界各国の調査対象者にアンケート調査を行って評価を行っています。多様な切り口で各国の印象を評価しているようで、NBIの総合ランキングはその言葉通り、国家ブランドの総合的な評価と言えそうです。

わたしが関心を持ったのは、日本が国際的な評価指標でトップになったとはずいぶん珍しいな、ということだけではありません。その詳細な評価を見ていくと、興味深い点がいくつか見受けられるのです。

例えば、日本は上記6つのカテゴリのうち「輸出」が強いと評価されたといい、科学技術への貢献、場の創造性、製品の魅力といった属性で1位だったそうです。

いずれも、日本の国内では「陰りが見えてきた」などと批評されることが多い分野ではないでしょうか。さらには、ガラパゴスだとか、過剰な機能だとか、そうした自虐もよく聞かれるような分野である気がします。

ほかにも、国家としてのパーソナリティを評価する質問において、17種ある特性のうちで日本が唯一1位を獲得したのは、なんと「創造的」でした。ちなみにパーソナリティの特性については、ポジティブな特性とネガティブな特性が共に評価されているのですが、日本人だけにアンケートを取ったら「問題が多い」に票が集まりそうです。

そんな結果を見て感じたのは、「支持と尊敬というのは自然に集まるものなのであって、それを獲得しようと注力するものではない」ということです。

思えば「ガラパゴス」ということばは、個人的には、日本が携帯電話の通信規格をいち早くインターネット接続に対応させ、その先進的技術を世界に広めようとして失敗した、という経緯の中で広まったものだと理解しています。この事例のほかにも、「日本は技術で勝ってビジネスで負ける」などとはよく言われてきました。ただ、その指摘の根底にあるのは、要は覇権主義的な考え方であって、そうした野心や魂胆はすぐに見抜かれ警戒されるわけで、容易に行かないのは当然です。近年台頭する某国の振る舞いを見て多くの国が何を感じているか、というのと同じです。

一方で、そうした野心も魂胆も持たず、ただ地道に自らの取組みや良い側面を対外的にアピールし、それが評価されれば、支持や尊敬は自然と集まる。NBIにおけるトップというのは、それを象徴しているように思えるのです。

いまITにおいて世界のスタンダードとして不動の位置にある米国企業は、どの企業も、ビジネスを始めたその時から「世界を牛耳る」などとは考えていなかったのではないかと、わたしは考えています。彼らの視点がもともとグローバルなだけなのではないでしょうか。自国内のリーグで行うプロスポーツの王者決定戦を「ワールドシリーズ」と躊躇なく呼ぶ人たちなわけですから。

現代は、隠そうと思っても、情報はネットで瞬時に世界中に伝わってしまう時代です。軸を明確に据え、地道にそれを体現する努力を積み、周囲に向けて提供価値の訴求や啓もうを続けていくという、ただその取り組みに集中することが、大事なのではないでしょうか。あとは神のみぞ知る。反応を見て軌道修正していけばよい。経営者が考えていることのスケールが大きいかどうかは重要です。ただし、顧客の支持や評価に関することをコントロールしようとすると、余計な力が入っておかしな方向へ走るように思います。

「自分自身でできること」が、限界を決める

昨年中の仕事の活動を振り返ると、結局のところ「自分でできることが自分の限界を決めてしまう」のだという(当たり前の)ことを多く実感させられたように思います。

昨年は、製造業の企業に触れる機会が複数ありました。これまで脈々と広まってきた「現場のカイゼン」に基づくシゴトの仕組みは、どの工場にも一定程度カタチがあるのは確かなようです。ただし現場に至る前の、事業戦略から生産計画を立ててそれを現場に作業展開するまでの「生産管理」については、企業によって相当にレベル差があることを実感しました。その理由は、生産管理をロジカルに仕組み化して実践することは、難易度が高いからです。その会社にとって「できないこと」は放置されがちだということです。

また、営業組織の支援を様々に行ってきて感じたのは、課題があることも、変えなければこの先成長しないことも、頭では理解しているはずなのに、強制力が働かない限り、いつまでも同じ所を堂々巡りしているチームが圧倒的に多いことでした。慣習を変えられない理由は、変えるための具体的な行動を自分たちの力では組み立てられず、目指すべき姿が彼らにとって「できないこと」になるからです。何の実にもならないようなつまらない進捗報告でも、毎回毎日だと、みんな慣れてしまってそれがフツウになっていきます。まるで生活習慣病のようで恐ろしいことです。でも実はその「できないこと」は、ちょっと背伸びすればできてしまうことに、無理やり取り組んでみてようやく気づきます。

従来からの取り組みがうまく行かなくなり方針転換を図ろうとする時、その前に、組織としてのそれまでの取り組みを総括するべきです。しかし、当事者たちの力だけではまともな言語化というのはできないものです。考えてみれば当然なのかもしれませんが、うまくできなかった人たちが、自分の出来なかったことを自分の力だけで分析評価するというのは、無理難題と思われます。解けなかった数学の問題について、解答を見ずに自分で解答をつくろうとしていることと同等です。そうかといって、彼らが第三者による指摘を素直に受け入れるかどうか、受け入れたとしてもその内容を咀嚼し応用できる能力があるか、というのは、また別の「できないこと」かもしれません。こうした課題には、最終的には自ら気づいて自ら腹落ちしないと、本当の意味での課題にはならないのです。

ある時、某社のCIOの話を聞く機会がありました。顧客ではないので書きますが、この方はデジタルマーケティング畑で長く勤めて経験が長く、一方でシステムを作ったことがありません。話の筋はおよそ、デジタルを「使う」観点からくるもので占められ、デジタルで「つくる」発想がないがために、CIOとしては世界観が限定されているように感じられました。残念ながら、CIOという役職は、マーケティングを知っているだけでは務まりません。そのことに、ご本人は気づきがないのかもしれません。要職を務める人たちからよく聞く悩みのひとつは、率直に言ってくれる人が周囲にいなくなること、です。もったいないなという感想を、内心では持ったことが思い出されます。

自戒を込めて言えば、結局のところ、自らが「できること」をできるだけ増やし拡げていく努力を不断につづけなければ、自分の出来ないことに気付くこともできずになおざりにし、最終的には、できないことに飲まれて衰退していくのだろうと思います。

もちろん、ひとりで何でもできるようになることは、当然ながらできません。できる他人に何かを任せることが必要になります。ただし、自分では全くできないことを他人に任せるのは、簡単そうですが実際は容易なことではありません。実際にやってみるとわかることですが、そもそもどのように仕事を頼めばいいのかさえ、わからないはずです。さらに、ある程度はわかっているうえで他人に委ねるのでなければ、他人のアウトプットの良し悪しを判定できません。結果として、相手にコントロール権を奪われることになります。

渡してはならないコントロールを相手に渡してしまうのが最悪の筋書きになりますが、自分にできないことについては、それがクリティカルなのかどうかさえも往々にして判別がつきません。

例えば、英語の読み書きのスキルは、生成AIの登場によって、もう必要ないかもしれません。英語が不得意だった人たちにとっては福音と言えます。ただし、ChatGPTが生成した電子メールの本文を本当にそのまま相手先に送っても問題が起こらないか、ChatGPTが作ったスピーチの原稿をそのまま顧客や社員に向けて流してしまっても本心が伝わるのか。その判断は、自分がある程度は英語ができないと、判別がつかないはずです。日常会話レベルの事務的なやり取りであればどうでもよいかもしれませんが、適用したい場面がクリティカルであるほど、気持ちを漏れなく的確に伝えたいと思う場面ほど、生成AIの言うとおりでよいか否かの判断は重要になります。こうしたこともまた、英語という言語が、日本語と比べるとハイコンテクストな言語的特徴があり、ひとつの言葉の意味の守備範囲が日本語のそれよりも一般的に狭いということを知っていなければ、他人から重要だと言われてもまったくピンとこないかもしれません。

企業におけるデジタルの選択肢は、この先もますます増えていきます。技術の向上に比例して、デジタルがビジネスに発揮できる影響力や破壊力は、さらに増していくでしょう。無数に出てくるデジタルソリューションやツールの中から、自社に相応しいものを探し出して選び取る能力が、利用する企業にますます重要になっていくことになります。

さらに言えば、そうしたソリューションやツールを適材適所で活用するには、会社の仕事のしくみをデザインする能力がますます重要になっていきます。自分でデザインできる会社ほど、デジタルをテコにした独自のしくみを発展させて成果に繋げるでしょう。自分でデザインできる能力を持たない会社ほど、デザインすることの必要性さえ理解ができず、自身で自身を変えることができずに衰退していくでしょう。

自分で考えることが「できない」企業ほど、ITは、丸投げ対象のコスト要因にしか見えないはずです。自分で考えることが「できる」企業ほど、ITは、ビジネスで利益を出して必ず手に入れたい魅力的な道具に見えることでしょう。業界で一流を目指すなら、どちらになりたいですか?

わたしがこれまで見てきた「元気のいい会社」は、総じて健全な危機意識を常に高く持っていて、それでいてメンバーの多くがビジネスへのチャレンジを楽しんでいるように見える組織でした。新しい年の初めに際して、わたしは「自分でできることをさらに増やす」ことを肝に銘じて、新しい提供価値を増やせるように、また仕事を始めていきたいと考える今日この頃です。

名リーダーなら、まずできている行動

先日、米OpenAIのアルトマンCEOが電撃的に職を解任され、その4日後に復帰を果たすという出来事がありました。同氏が取締役会によって解任された際、同社の従業員の大半が団結し、CEO解任を取り仕切った現在の取締役が退陣しないなら自分たちが退職すると表明したといいます。その数は従業員の9割とも言われていました。アルトマン氏はよほど優れたリーダーとしてリスペクトされていたのだろうなと、このいきさつを知って感じました。

方や国内では、管理職に昇格するもその役割になじめず挫折するビジネスパーソンが続出しているといいます。先日の日経ビジネスの記事では、その様相を「罰ゲーム」と表現していました。

スタートアップのCEO職と、企業の中間管理職を比べるのでは、違いが大きすぎるのかもしれません。後者は、わたしに言わせれば権限も立ち位置も中途半端で、いわゆる「板挟み」になりやすい立場でしょう。やりたいことを明確に持っていても、周囲に振り回されてしまって思うようにならないこともよくあります。なかなかつらいのは間違いありません。しかし一方の前者はつらくないのかといえば、そうでもありません。CEOは全方位でその能力を評価されてしまうところがあると思います。得意な事だけ突出しているのでは、CEOの能力として足りません。高く評価されることが人間的な魅力につながり、それで人がついてくる、という構図です。魅力のないCEOの会社に、人は集まりません。人が集まらない会社は頓挫していきます。ある意味、中間管理職より厳しい立場です。

違いはありながら、両者に共通して必要なコンピテンシーはいくつかあると、わたしには思えます。そのうちの主要な特性は「リーダーシップ」でしょう。

一般社員から管理職に昇格した人を見ていると、いままで職務上要求されなかったリーダーシップを昇格と同時に要求されるようになることで、勝手がわからず苦しむケースや、少々曲がったリーダーシップを発揮してしまうことでメンバーの反感を買ってしまうケースなど、様々な問題が見受けられます。

一方で、スタートアップや小規模な企業のCEOにも、問題があるケースは見られます。こうした会社が抱える問題のほとんどは、その原因が経営者にあることが多いものです。小規模な企業では、ミッションやビジョンを(意義のあるかたちで)持たないところも珍しくありません。リーダーシップというものについて突き詰めて思索したことがない経営者が多いのではないかと、個人的には感じています。

リーダーシップという特性に、唯一絶対的な解はありません。それぞれ経営者やリーダーにそれぞれのスタイルやポリシーがあってよいと思いますし、現実、名経営者といわれる人たちを見ていても、そのリーダー像は千差万別です。

ただし、わたしが考えるに、名だたるリーダーができている行動には、共通した要素も多くあります。例えば、次のような行動です。

「旗印を掲げること」: そのリーダーなりの見識をもって現況や将来を見極め、目指すべき方向を決め、それをわかりやすく表現する。それをメンバーに示し、それによって人々を前向きに動機づける。

「構想を設計すること」: 自らや会社が持つリソースや手段を活用することで、どのようにして目指すべき方向に向かうか、どのように目標を達成するか、提供したいと考える価値をどのように実現するのか。そのシナリオや全体像を具体的に描く。それを示し、周囲の人々に実際に活動してもらう。

「環境を整えること」: 人間関係、職務環境、業務に必要な道具、外部や他社との連係や交流、情報の流通、行動に対する評価の仕組みなど、メンバーが任務を遂行する上で必要になる環境と雰囲気を整える。整備した環境によって、個々のメンバーの能力が相互の掛け算で発揮されるように促す。

このようなことを実践したうえで、日々の業務遂行において直面する課題に対して「判断と決断を行うこと」。判断は、必要な情報が手元に揃えば可能だが、そのためには必要な情報が手元に届けられる仕組みを整えなければならない。一方、決断は、胆力と時宜が問われるものであり、必要な情報がなくても的確に行わなければならない。そのためには、「ぶれない軸を持っていること」が前提になる。時々、これを強情や意固地と取り違えている例がみられるが、もちろんそれらとは異なる。

わたしが観察していて素晴らしいなと思うリーダーは、上記のことがすべて淀みなくできています。ただし、事例は少ないですが。

一方で、問題があるなと思うリーダーは、上記のどれかが欠けている、のではなく、すべてにおいてまったくダメか、どれも中途半端で欠陥が目立つか、です。もちろん、わたしの顧客でない方には、そんなことを思っても直接お伝えはしません。

経営者の方々は、自らの欠陥に自分で気づくしかありません。一方、みなさんの会社の中間管理職の方々については、適切なかたちで気づきを与えてあげて、未熟な能力を伸ばすように働きかけていただきたいと思います。日常の業務に沿ったかたちで訓練されていく工夫があれば、リーダーとしてのスキルは伸びていくでしょう。誰も教えてあげずに放置するから、「罰ゲーム」だと思われてしまうのではないでしょうか。

あんなリーダーになりたい、とリスペクトされるような人材が出てこない会社は、やはり将来危ういです。

「一生懸命に働く」のは、美徳ではない

「身を粉にして働く」「艱難辛苦を耐え抜き成功する」「懸命に取り組む」。少なくともかつての日本の職場では、こうした精神は美徳として扱われていたようなところがありました。現代ではどうなのかはっきりしませんが、いろいろな職場を見てきた個人的な経験から申し上げて、いまでもそんな精神が少なからず残っている傾向はあると感じています。

一意専心で打ち込み、様々な難題を克服して目標を成就する姿は、美しいものです。アスリートや職人などを見ているとそう感じます。しかし、こと企業の組織においては、「一生懸命に働く」ことは美徳ではないと思います。

誤解を恐れずに言えば、優れたパフォーマンスを出せる組織とは、同じ成果を他の組織よりもラクして生み出せる組織のことだと、わたしは思います。そういう状態のことは、一般には「生産性が高い」と呼ばれます。

努力を重ねることが無駄であると言うつもりなのではありません。努力の方向性を問題にしようとしています。一生懸命に頑張るのなら、「いかにラクをして、いまと同じ、さらにはいまよりも高い成果を生み出せるか」を考えることに力を注ぐべきなのであって、そうではない方向に注力すべきではない、ということです。仮に成果が挙がっていたとしても、ラクではないやり方で実現されているのなら、それは何かがおかしいのです。

ところが、ありがちな傾向として、一生懸命に頑張っている人に対して「その内容は問わず」ポジティブに評価する、ということがよく見られます。個人の評価がそれでよくても、組織のパフォーマンスという観点では、「一生懸命頑張る個人にその仕事をさせていていいのか」という評価をしなければならないのですが、問題を直視せずに満足している組織が少なくありません。

例えば、ある事業や業務において、組織にいる特定の人物の能力が著しく高いおかげで成果が生み出されていることが、小さい組織ではよくあります。そうした「スーパーエース」(時に経営者自身だったりします)を組織は称え、周囲は尊敬のまなざしを送るわけです。しかしそうしたスーパーエースは、組織にとっては “SPOF”、 つまり「単一障害点」です。属人化は、組織を脆弱にします。スーパーエースが活躍するような企業やチームは、わたしに言わせればシゴトを仕組み化する努力をしていません。努力を正しい方向で実行していないツケは、スーパーエースが何らかの理由で稼働しなくなった時(会社を辞める、病気で仕事できなくなる、家庭の都合に身体を取られる、職場を異動する、等)に顕在化することになります。

毎日押し寄せる問題を、次々さばくのに一生懸命になっている組織もよくあります。こういう組織は往々にして、計画を立てる能力が弱いことが要因でそのような状態になっています。毎日一生懸命に仕事していますから、周囲はポジティブに捉えます。しかしそのような仕事は、まるで RPG のように、出会った敵を順番に次々やっつけているだけのことです。果てしなくモグラたたきを続けるよりも、そもそもモグラが出ないようにするにはどうしたらよいのかを考えるべきなのですが、「没入」してしまっているとそういう発想はできないものです。

業務効率化のつもりで IT ツールを導入していても、ラクに仕事をしていないケースはたくさん見受けられます。例えば、会社や部署に「エクセルマスター」のような人物がいることがよくあります。この人物は確かに、スプレッドシートの取扱いに長けている達人です。しかし、取り組んでいる実作業はというと、大量のデータの打ち込み、転写転載、比較、正常性確認、流し込み、ファイルの送受信、といったものだったりします。コマンドや関数を駆使して作業そのものは高度であっても、つまるところ「デジタルツールを使ってマニュアルワーク」しているわけです。「そもそもその作業をやめられないのか」というようなことを考えるべきなのですが、達人は往々にして、その道具を使うこと自体をやめるという発想ができません。

なにか突発的な問題が勃発した時に、すぐに人海戦術で突破を図ろうとする組織も、よく見かけます。人が頑張って取り組むのが一番近道である、という考えです。確かに、稼働する人を増やして解決するほうがよいこともあるでしょう。しかしそれは、対象となっている業務の仕組みが的確に設計されていて、新しい人が入ってきたとしても短時間で業務をマスターし処理を担えるように完成されていることが前提です。イレギュラー対応だらけ、例外処理だらけ、の業務では、新しい人たちの頑張りは希薄化されてしまいます。そして、そういう現場ほどマニュアルも整備されていません。仕組みが弱い組織の業務に単に人を増やしただけでは、内部が混乱し、指示が滞り、下手をするとコントロールできなくなってチーム管理が崩壊します。人を増やせば増えた分だけ工数は掛け算で増やせる、というのは幻想です。

繰り返しますが、一生懸命に仕事を頑張るのは、個人のレベルでは美しい努力ですが、組織のレベルでは美徳ではありません。生物であるヒトの進化を原始人の時代から振り返れば、それはつまるところ、「どうしたらもっとラクに生きられるか」を一生懸命に考えて取組み、解決をしてきた歴史なのです。極端な例えですが、従業員の1日の勤務時間を4時間にしてもなお他社以上に収益を挙げるにはどうしたらいいか、ということを一生懸命考えるのが、生産性を高める方向に向かう正しい努力なのではないでしょうか。

DXを本当に実践できている組織が、持っている力

当社では、DXの推進や取り組みにご関心をお持ちの企業様に向けて、「組織としてのDX推進力」を無料で診断するサービスを、ご希望される企業様に提供しています。

ビジネスのデジタル化やデジタル技術の活用に、これから取り組もうとされている企業も、すでに何らかの取り組みに着手されている企業もあり、状況は様々です。ただやはり、スムーズに取り組みを軌道に乗せていく企業はあまり多くないように見えます。立ち上がっていかない要因はいくつか考えられますが、課題認識のヒントになるような情報が提供できればと考えて診断を行います。

わたしが複数の事例を見て思うところのうち、DX推進のポイントになる要素のいくつかを、このコラムで紹介したいと思います。

まずひとつは、「技術より環境づくり」ということです。実は、ITには自信を持っていた企業や、IT担当者がすでに社内にいる企業が、DX推進となるとさっぱりうまく行かない、というケースは珍しくありません。進められる環境が整っていないことが、主な要因です。

「環境」ということばは厄介で、いろいろな意味が含まれています。ここでは例えて言うなら、「種をまく前に、土壌を整えたのか」という話に近いかもしれません。新しい取り組みが進められるだけの体制、人材の配置、技術の整備、知識の吸収、評価の仕組み等々、「土を耕して肥沃にしておく」必要がそもそもあるのに、何も整えずに進めようとしているのではないか、ということです。

環境を整えるのは、言うまでもなく経営者と経営幹部の仕事です。よって「DXでなにかやれ」という指示をするだけの経営者は失格、ということになります。

次に、「業務の仕組みを設計する能力の優劣」です。DXが、デジタルを前提として新たなスキームを備えたビジネスを展開し新しい価値を創出すること、を意味するのだとしても、単なる既存業務の効率化に留まるものもDXだと呼んでいるとしても、いずれにしても業務の仕組みを紐解いて俯瞰し設計する能力は、必須なはずなのです。

しかしかなりのケースで、この能力は軽視されていると感じます。Transformationしようと思うのなら、業務のやり方、業務のあり方、から根本を問う取組みが必要になるはずです。ところが、DXの ”D” のほうに引きずられて、無意識のうちにITの領域の話だと思い込んでいるふしが見受けられます。

例えば、DXを推進しようと意気込んで、社外からITの専門的経験が深い人材を幹部として受け入れ、CIOやCDOに据えたというケースはよく耳にします。しかしそうした人材を選定する際に、ITのことは重視しても、業務設計の能力についてはまったく評価していないのです。ITスキルと業務設計スキルは、別の能力です。そして、両方とも高いパフォーマンスを発揮できるという人はかなり少ないのが実情です。

そうした選定を行って受け入れた「ITの専門家」は、情報システム基盤を設計することはできるかもしれませんが、社内の業務の仕組みを紐解いて図式化する能力が往々にしてありません。結果的には、流行りのITを使って現場レベルに留まる成果を挙げる程度になる可能性が高いでしょう。それで会社として満足感があるなら良いのですが、業務はそのままであればビジネスは根本的に何も進化していません(=Transformationしてはいません)。ビジネスの成長発展という観点で見れば顕著な成果にはならないでしょう。

また別の要素としては、「いろんな意味でのコミュニケーション力の高さ」も必要です。デジタル技術が何をドライブするのかと言えば、煎じ詰めれば「情報の流通」だと思います。情報の流通が高度になって何がよくなるのかと言えば、それは人と人の間のコミュニケーションです。情報を使うのは結局は人間ですから、人間がそうした情報を使いこなせること、またその情報を優れた成果に繋げること、が必要で、それは人間が意図して実行しなければ実現しません。

この「コミュニケーション」ということばも厄介で、いろんな階層のいろんな分野でのコミュニケーションが含まれます。ただ、ざっくりとした言い方ではありますが、社内・社外を総合的に見据えて大きな成果に繋げられる情報流通の仕組みを作り込んでいく、という意識が必要なのだと思います。一見するとデジタルっぽくないけれど、実行面ではデジタルでかなり活性化できる領域です。

ただしコミュニケーションは、デジタルツールで実現できるものもありますが、組織が意図して整える環境に依存するものもあります。DXがうまく進む組織というのは、経営者から現場レベルまでの伝達、部門間での連携、社外の専門家やベンダーとの協調、外部知識の取込みや収集、現場で得られた経験や知見のフィードバック、といった、様々なレベルのコミュニケーションパスが発達しており、またそれらが有機的に融合している印象があります。

それらは一朝一夕で構築されたものではなく、一定の目標のもとで、時間を使いながら積み上げられたものです。ただし、無意識のうちに積み上げられるものでは決してなく、「一定の目標」があるからこそ、一貫した思想のもとで包括的な仕組みが出来上がるのだと思います。少なくとも、デジタルツールの導入で即実現するようなものではありません。逆にツールの導入がシゴトの足かせになってしまった組織の例ならいろいろあります。

いくつか取り上げてみましたが、他にも様々な要素がありますし、細かい話をし始めるとさらに深くなります。その中からひとつ言えることは、これは流行に飛びついて取り組むものではなく、経営者がまずは「DXとは何ぞや」ということに対して深く洞察し、一定の答えをもって旗を掲げ、前に進める環境を整えていく、そうした進め方が必要なのだろうということです。「どうしてDXなのか」という問いに対して、独特の答えを持っていることが大事でしょう。

そもそも本質的には、何十年も前から言われてきたことの焼き直しがDXであるということを、改めて認識すべきだと思います。

世間の雰囲気に甘んじている企業の行く末

わたしはお店の観察が結構好きです。スーパー、コンビニ、ドラッグストアなどは、入るとくまなく見て歩いて、商品や価格をよく観察しています。商品価格の物覚えと相場感覚は、おそらく日常的に家族のものを買い物する女性の方々に負けていないと自負しています。

あまり関心のない方は気にならないかもしれませんが、店の商品棚には、その店またはその企業の個性やこだわりが色濃く表れていると思います。生鮮品を見れば店によって鮮度が違う、加工品を見れば同じメーカーの同じ商品でも店が違うと扱いが違う、総菜に並ぶ品物の中身やサイズを見ればその店が何を気にして(または気にしないで)売ろうとしているかが違う、違う曜日に行って比較すればその店の販売政策を想像できる、等々。回る店が多いほど、おもしろいなあと思って、たいして買わないのについつい長居してしまいます。

最近、毎日低価格(EDLP)をウリにしていたスーパーが、人知れずその方針をやめて行っていることを直感しています。会社に確かめたわけではないので事実かどうかはわかりません。ただ、消費者目線で見れば、小さいけれど様々な状況証拠からして、明らかに方向性が変わりました。ひとことで言えば、「もう安くはない」のです。

それを感じているのはウォッチャー気取りのわたしだけ、と言いたいところですが、実は違います。おそらくほぼ間違いなく、その店に入店している客の数も以前に比べて減っています。

一方で、その近隣にある別のスーパーのほうは、客足が明らかに増加しています。わたしの足もまた、気づけばその店のほうにより多く向くようになっていました。

その店は以前から、安売りの店ではありません。ただ、品目を絞って毎日異なる商品を割引して販売するポリシーで、以前からそれは変わっていません。割引後の価格を見ていると、近隣商圏の小売店(数は比較的多いほうです)の中でも最低価格を付けている品目も、実際に多くあります。ただそれは、「これだけ値上がりした今となっては」ということで、この店が割引に力を入れるようになったから、ではありません。

おそらく大多数の近隣住民は、いまとなっては後者の店のほうがオトクであると判断して、そちらに足が向くようになったのだろうと思います。やはり、敏感に反応しているのです。

後者の店は、「ポリシーを変えない」ということに多くの労力を割いているのだと、わたしは感じています。世間のメーカーや生産者がこれだけ値上げラッシュを繰り返す中で、そこだけは店として変えない、それが顧客への提供価値である、という一貫したこだわりを感じます。

一方で前者の店は、世間が値上げしているので自社も(実質)値上げする、という方向に「甘んじた」のだと思います。

本来値上げという行為は、値上げする分の付加価値を伴って行うものです。従来より高い価格を支払ってでも得たい付加価値が伴うなら、顧客は納得して支払います。顧客に納得感を与える付加価値の実現には、当然に企業努力が必要です。しかし、ここ最近の値上げのほとんどは単に、原価やコストが増えたから負担してください、というものでしかありません。

そういう風潮を受けて、顧客はどうしているかと言えば、社会の雰囲気から仕方がないと思って黙認しているようでいて、多くは少しでも安く売っている場所を模索して選別しようとしているのです。結果として、企業は売上は確保しているかもしれませんが、来店頻度や商品点数ベースでみると前年を下回っているところが多いはずです。

買う側の顧客は、企業がいま実行している値上げにはなんの付加価値もないことを、言葉にはしないところで感じているのです。

いまの世間の雰囲気に甘んじている企業は、近い将来、低価格高付加価値の商品を出してくる企業が現れて、雪崩を打ってなすすべなく敗退するだろうと、わたしは考えています。

見方を変えれば、いまのような時期は、価格競争力を強みにするディスラプターが将来に向けて胎動を始める時期なのかもしれません。そのうち市場に衝撃を与えるビジネスモデルを実現して台頭し、一気に市場を席巻するようになれば、思考停止していた既存企業はなすすべがないでしょう。

「変われない自分」を「変われる自分」に変えるコツ

”最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。”

進化論を唱えたイギリスの科学者ダーウィンが言ったとされるこの名言は、実はダーウィンが発言した言葉ではないという指摘があるようですが、その意味するところに関しては、多くの人が納得するものだろうと思います。

一方で、この言葉が多くの人々の教訓となり得ている理由は、そもそも人間というのは変化を嫌うという特性があるからだと、わたしは考えています。いままでのやり方、考え方、習慣などを変えたくない性質は、年齢が高くなるほどに顕著になる傾向があるようで、脳科学の分野でもこれを裏付ける研究があります。

わたし自身にも、これは大いに心当たりがあります。考えた末、工夫した末に、一度固めてしまったやり方、もしくは慣れてしまったやり方は、基本的に変えようと思いません。一方で、考え抜いたつもりでも、だいだいそれは100点満点の方法ではありません。仮にそれが、考えた時点では100点満点だったとしても、時間が経ち状況や条件が変わると100点ではなくなるのです。常に、自ら問題を探して発見し、やり方を変えるべきなのです。しかし、アタマではそう理解していても、いろんな「できない理由」を付けて、変える行動にはなりません。

そしていざ、外堀を埋められて、慣れ切ったやり方に対する変更を余儀なくされると、そこでものすごく抵抗を感じて、まだ立ち止まるわけです。

しかし、わたしの場合はこの悪癖に対策を打つことを考えて実践し、まだ道は半ばではありますが、一定の成果を得ています。抵抗がささやかなうちに、それを押して変更を実行できる自分になるように仕向けています。生活習慣やトレーニング方法など、大小何度も改善を実践してきました。そして、自身のなかの抵抗勢力を克服して変化を断行してみるとやはり、変えてよかったと思うことがほとんどです。

どうやって実践しているのか、現時点でのわたしの工夫を3つほど紹介します。ちなみに以下で紹介するものは、ビジネスシステムの設計理論の研究からヒントを得たものばかりです。

ひとつめが「数字で見えるようにする」。いま目指している物事の目標値、その目標に到達するうえでの中間指標や補完指標になるような事項の数値など、取組みの全体像が数字で見えるようにします。怠ける自分、目をそらしたい自分、を動かそうとするとき、数字が見えた時のインパクトは絶大です。特に、それまで全く気にしていなかったことが数字になって表れて、それが無茶苦茶な結果だったときのショックは、計り知れないものがあります。

もちろん、その測定方法は自ら納得するように設定し、数字が意味することが自分で明確に理解できていることが前提です。他人によって設定された測定ではインパクトもショックも感じません。会社で健康診断を受診して、結果の数字を見ただけではなんとも思わないのと同じです。

また、可能なのであればその数字を周囲に全面公開し、「その数字をいつまでにこう変える」などと宣言したりすれば、より逃げられなくなります。

ふたつ目は「手法や方法を多く知る」。いざやり方を変えようと思っても、どう変えたらよいのかを知らないと、そこで思考が停止します。やり方が分からないと、変える行動に移ることはありません。変えるならどういう方法が取れるか、どのような考え方をすればいいのか、多くのノウハウを知っていることが重要です。

こうした方法の獲得では、信頼できる情報源から得られた情報を基に、普段から自分なりにできるだけたくさん分析していることが大事です。ただ見聞きしただけ、ネットで調べただけ、知り合いに聞いただけ、という程度では、自分がやりたい工夫に適合しないことが多々あります。変えなければならないと示唆される対象に自らが拘っていればいるほど、または決断が重要な局面であればあるほど、これは当てはまります。選択できる方法を知っているほど、具体的な行動を発想しやすくなります。

三つ目は「常に新しい情報を取り込む」。新しい情報のインプットは、「変えなければならないかもしれない」と思い至る大きなきっかけになり得ます。おそらく自分が関心を持つトピックには、他にも多くの人が関心を持ち、日々研究や実践が行われ、工夫がされています。その結果としてベストプラクティスが継続的に更新されていきます。昨年まではこれがベストと言われていた方法でも、翌年になったらそれを上回るベストが出てくることはしばしばです。常に新しい情報が得られるようにしておくことが大事です。ふたつ目とも重なりますが、信頼できる情報源や支援者を持ち、継続的に情報が得られるような状態を作っておくことです。

そして、これらの工夫の根底には、自らの取り組みかたが「仕組み化」されていることがあるのを、忘れてはいけません。

そもそも、明確なロジックがなければ測定ポイントを設定できず、数値化はできません。また、仕組みがないところでなにか工夫をしようと思っても、どこをどのように改善すればよいのか見当はつかないのです。当てずっぽうな勘に頼った変更をしてみたり、他人が薦めたやり方を盲目に取り入れたりする人というのは、だいたい仕組みを持っていません。

さてここまで、ライフハックのようなことが書き綴られてきたように思われているかもしれません。もちろんライフハックとしても有効だと思いますが、「会社」や「組織」に置き換えても同じ論理が成り立つと、すでにお気づきでしょうか。

そうお気づきになられたら、このコラムが「会社経営」の話であると意識を置きなおして、ぜひもう一度冒頭から読み直してみてください。

「企業理念」と「ミッション」と「パーパス」は、どう違うのか

わたしは、3つとも同じことを言っているのだと思っています。ですから、企業理念を持っていた会社がわざわざミッションを定義する必要はないと思いますし、ミッションを定義していた会社がわざわざパーパスを定義する必要もないと、思います。

ただし、それが会社にとってどういう意味をもつものなのか、どういう目的で定めるものなのか、その定義は明確にしておくべきでしょう。

私見ですが、そうした定義があいまいなままに「流行しているから決めておこう」とそれっぽい言葉を置くことが目的になって定められてしまったような、魂のこもっていない「企業理念」が横行したから、次々と新しい用語が登場してきたのではないでしょうか。元から的確な決定と運用がされているのなら、別の言葉は生まれてこなかったはずだと考えています。

企業理念が的確に定められているなと感じるとき、その言葉からは、その会社が顧客、ひいては社会に対して、どのような価値を提供しようとしているのかが、端的にイメージできるものです。法人の存在意義は、その法人が社会に提案する価値が人々から支持されることで、表されるのだと思います。人々から支持されていることの証しは、結果として売上と利益によって量られるわけで、その意味で企業理念は、その会社の商売の根幹をなすものです。企業理念はビジネスの成果に直結するものであり、そこに並ぶ言葉が単なる絵空事であれば、それは世間に見抜かれてしまいます。

その意味でわたしは、利益を出すこと自体に苦労している小さな企業であっても、企業理念を明確にし、社会に対して何を成したいと思っているのか表明することには、意味があると思います。

理念を何も示さない会社は、「売れれば何でもよい」「ビジネスが大きくなればそれでよい」と思っている会社、と見られても仕方ありません。もちろん、利益があがらない会社は、立派な理念があろうとも淘汰されるまでです。そんな綺麗事は売れてから考える、という事業家も実際にいますが、後から人がついてくるリーダーとしては相応しいだろうかと、個人的には思います。

また企業理念が的確に定められている会社では、社員がそれを誇りにし、その言葉に啓発されています。自分の仕事に対するモチベーションや業務上のポリシーとして深く根付いています。

採用の時点で企業理念が示され、それに共感してくれる人材が採用されるので、当然といえば当然ではあります。ただ、そもそも採用の時点で企業理念が示されることがない会社、もしくは企業理念に根付いた価値観の共有が具体的に確認されないで人材の選考が進む会社のほうが、圧倒的に多い印象があります。そうしないのは、企業理念が会社の提供価値を示すという意識がないからなのでしょう。

企業理念が浸透している会社は、日常から企業理念を意識するような取り組みが実施されています。経営者から幹部へ、幹部から現場のリーダーへ、現場のリーダーから従業員へ、または経営者から直接従業員へ、様々なパスが実際に運用されて、理念が伝わり、日常の業務遂行へと結びついています。そうした機会を通して、社員が様々な場面で、企業理念に謳われている内容について深く考える機会があります。そうした個人レベルの学びが蓄積されることで、一貫した行動が生まれます。

そして企業理念が明確な会社ほど、会社の中で実行される仕組みが、その理念に基づいています。企業理念がその会社が顧客に提供する価値を謳っているのであれば、それを具体的にどう創出するのかが、ビジネスの仕組みの設計です。結果として、企業理念を具体化したものが、ビジネスの仕組みと言えます。ビジネスの仕組みによって、企業理念が絵空事でなくなるわけです。

このようにしてすべてが企業理念を軸につながっていれば、その言葉は企業理念として魂を持つと思います。そういう企業理念が存在しているのなら、ミッションも、パーパスも、必要はありません。

同様な話として、「ビジョン」という言葉の位置づけもよく議論になります。会社によっては、ミッションとビジョンの位置取りを互い違いに解釈して定義している向きも見受けられますが、どちらでもよいと個人的には思っています。ただし、企業理念と同様に、会社がビジョンをもつ意味、ビジョンを定める目的、その定義を明確にして、言葉を選ぶべきでしょう。そして、定めたからには、ビジョンを具体的な行動によって実現していくことが経営者に求められることも、忘れないでいただきたいと思います。

DXを語る前に、まず「ITの運用」ができるか

2022年10月末に、大阪急性期・総合医療センターという病院でシステム障害が発生し、通常診療が全面停止する事態になりました。

その原因となったのは、ランサムウェアによる攻撃でした。電子カルテシステムを含む院内のデータが暗号化されて利用できなくなり、緊急手術以外の外来診療の一時停止を余儀なくされたのです。同病院は、攻撃者から脅迫を受けながらも、全システムを再構築により完全復旧させる方針を決断し、それに3カ月程度かけることにしました。

聞くところでは、この規模の大病院になると、医療機関としての総合的な運営コストは、1日当たり1億円程度になるのだそうです。通常診療ができないということであれば、そのコストがただ毎日出ていくだけの日々を、約3カ月の間過ごすという決定を下したことになります。それでもシステムの全面再構築の道を選んだわけですから、容易な判断ではなかったでしょう。

その攻撃被害の原因や再発防止策を検討した調査報告書が、2023年3月末に公表されました。

報告書では今回の攻撃を許した原因を整理して指摘しており、部外者の我々も対策を考えるうえで参考になる内容になっています。その中でわたしが注目したことのひとつに、攻撃者の侵入のきっかけになったとされている、外部の給食事業者の存在があります。

攻撃者は、同病院の入院患者向けの給食提供を業務委託で行っていたこの事業者が所有するファイアウォールを破って侵入し、その会社の業務サーバーを乗っ取りました。そこで、同病院のサーバーへの認証情報を得て、同病院が管理する給食サーバーへ横展開していったということです。

このファイアウォールは、給食事業者のシステム構築を担当したベンダーがリモート保守で用いるために、外部からのアクセスを可能にするように認証設定されていました。ところが、ファイアウォールの装置自体がもつ脆弱性が放置されていた状態でした。その脆弱性を突かれたため、アクセスのためのIDとパスワードが窃取されたといいます。

わたしがなぜこの給食事業者に注目したかと言えば、この事業者は侵入のきっかけを作ったそのファイアウォールについて、「存在を知らなかった」と答えているというからです。

このような話、つまり、自分たちがどのような装置や機器を使っているのかを全く把握していない(特に中小)企業というのは、典型的な「あるある話」です。厳に改めるべきことなのです。

そもそも、ITを導入する企業が十分認識すべきことがあります。それは、何らかのITを導入する時点で、その企業には「運用業務」が発生するということです。

運用業務とはつまり、自社が管理すべきIT関連の資産をすべて把握し、それらの資産の適切な取り扱い方法や設定を定めて、適切な動作を継続するように業務を設計して遂行する、というようなことを指します。このとき、自社の管轄ではないが自社のシステムへの影響が避けられない外部の装置やシステムについても、管理責任は軽減されはするものの、自社管理とほぼ同等のケアが必要です。

問題になったファイアウォールが、この給食事業者の資産だったのであれば、管理責任は給食事業者にあります。「存在を知らなかった」では済まされません。

もしベンダーの所有だったとしても、給食事業者がその装置の存在を知らなかったということは、由々しき事態です。ベンダーから説明を聞いていたにもかかわらず忘れていたのだとしたら、給食事業者の責任は免れません。そもそもファイアウォールのような装置では、外部からリモート接続させるなら必要な時だけに限定すべきであり、保守作業の必要がないときでも外部から内部へつながることを許容していたことが問題だと思います。

そうではなく、もし保守ベンダーが給食事業者に許可を得ずに黙って設置していたのだとしたら、ベンダーに対する損害賠償責任が問われかねないようなことに思えますが、装置は会社の管轄区域内に設置されていたのですから、自社内に置いてあるものに何も関心を示さないというのもまた問題です。犯罪者が無断で置いた盗聴器や盗撮カメラに、何の関心も示さず放置するのと同じことです。

ベンダーの説明責任などの問題は多かれ少なかれあると考えられる一方で、装置の運用に対するユーザー企業の認識の甘さ、管理責任の欠如、利用者としての管理努力不足といった道義的な責任は、免れるものではないと、わたしは考えます。仮に、導入したシステムの運用を全面的にベンダーに委託したとしても、最低限の運用管理業務は必ずユーザー企業側に残り、それを負わなければなりません。運用を完全放棄することは、いずれにしてもできないのです。

そういう自覚がないままITを導入する企業が、特に中小レベルでは多すぎるように、個人的には感じています。

ここで経営者の方々に申し上げたいのは、このランサムウェア攻撃被害における給食事業者の責任問題のことではありません。ITを利用する企業はいずれも、ITを会社として利用する時点で、それがいかなるハードウェアやソフトウェア、またはクラウドサービスやツールであったとしても、社内には必ずなんらかの「運用業務」が発生すること、そのために何らかの体制面での措置が必ず要求されること、です。

その対応には、ITを用いたシステムの構成や設定などについて、ユーザー企業自身が少なからず勉強し理解する必要が出てきます。

それがどうしても出来ない、やりたくない、のであれば、会社でITを使ってはいけません。気安く使えば、いつか然るべき時に、この事件の給食事業者のようなことになるでしょう。

いま一度、「企業におけるIT利用は、電気屋で家電を買ってきて使うのとは違うのだ」と認識いただきたい。切に願う次第です。

そのDX教育、「ずっと続ける」覚悟はあるのか

いま企業では、DX人材育成がブームなようです。「リスキリング」というバズワードも流行し、その文脈でも拍車がかかっているように見受けられます。

先日本屋で立ち読みをしていたら、それにまつわる講演イベントがあるということで店内に案内放送が流れたのですが、アナウンスの方が最初から最後まで「リスキング」と連呼していました。横文字ってみんな慣れないのに、マスコミが流行らせようとするのはなぜ横文字ばかりなのでしょうか。

それはさておき、デジタルを業務で取り扱うのが当たり前の時代になり、すべての社員にITリテラシーを高めてもらおうという取り組みは正しい方向だろうと思います。ただ、ITという分野の特性をどれほど認識してカリキュラムを考えているのか、疑わしい例も少なからずあるように思います。

言ってしまえば当たり前に聞こえるかもしれませんが、ITは常に進化を続けています。しかもその速度は、他の分野に比べて相当急速です。去年まで言っていたことが今年になったら変わってしまった、新しい方向になった、という話があっても、まったく不思議ではありません。ブームになったある技術やバズワードが、5年したらすっかり聞かなくなる、ということも珍しくありません。

ということは、一度学んだ知識がすぐに古くなり、場合によっては知っていても意味がなくなる、という状況が大いにありえるということです。そうだとすれば、一度決めた研修をひととおり済ませて合格すれば免許皆伝、というわけには行きません。

つまり、「全社員対象にDX教育をやるのだ」というのなら、全社員に対して常に知識のアップデートをかけていくという仕組みを作らないと、その効果は相当な速度で低くなっていくわけですが、そこまで考えて教育の仕組みを構築しているか、ということなのです。

これは、技術だけの話ではありません。

例えば AI(人工知能)の分野は、煎じ詰めればデータリテラシーの話に帰結します。いかにデータを取り扱うのか、どのようなデータなら問題がなくどのようにデータを扱うとリスクがあるのか、を知ることが重要になります。取り扱うデータによっては、法律が絡みます。もし外国相手の事業をしている企業なら、外国の法律まで考慮に入れる必要が出てきます。法律ですから、不意に変わったり追加されたりします。そうした動向や規制も、知識のアップデートの対象になるのです。

DXに関しては、学びのアップデートの領域、その頻度、というのは、大きくなる(増える)か、変わるか、その両方か、という方向しかありません。

そうなると、DX教育をするのであれば、結局のところ組織にとって最も重要になるのは、DX教育の「仕組み」を構築する人材の目利き力、俯瞰してトレンドを把握する能力、流行から本質を読み取り重要度を分類できる能力、ということです。

そうした能力を持つ人材がいないと、世間やマスコミが流す雰囲気にすぐに振り回されることになるだろうと思います。

DXの文脈で言えば、例えば「先端知識」ということばに惑わされるケースです。

あるITについて「先端」が謳われることが多くあります。「先端」と言われると、知らないと乗り遅れてしまいそうな重要なことに聞こえてきます。ただし、どの分野でもそうですが、「先端」と呼ばれる技術はおよそ、ピンポイントの領域に特化しています。ITの分野で言えば、データサイエンス、プログラミングの新言語、パブリッククラウドの新サービス、セキュリティ技術、ロボティクス、等々いろいろありますが、どれもピンポイントの領域の話です。そこだけを見つめて重要視してしまえば、他の領域は疎かになり、全体から見ればバランスを欠きます。

ある特定のITによって自社のDXが完全に達成できるということは、あり得ません。自社において重要なDXの全体像、自社の事業にとって必要な人材のスキルセットや人材構成のポートフォリオ、を描けていない状態で、「先端」という言葉に惑わされれれば、自社にとっては混乱しか招かないような「先端」ITに注力しようとしてしまう無駄を犯しかねないでしょう。

DX教育を通して社員のリスキリングを推進したいと思うなら、必要なのは、膨大に広がるDX分野から自社にとって必要な領域を抽出して全体像を構築できる人材をまず持つこと、そして、常にIT分野をウオッチしつづけて自社のポートフォリオをアップデートできる能力を組織に維持すること、をまず考えてほしいと思います。全社員に本格的な教育を施すなら、それからです。教育だから研修プログラムを作ろう、というのは、少なくともDXの領域では短絡的な発想です。

「そんな人材、社内にいない」のなら、全社員の教育の前に、おカネをかけてそういう人材をまず育成してください。一人や二人を特殊訓練するのであれば、相当に密度の濃いものであっても投資としては大きくならないでしょう。特殊訓練のしかたがわかりませんか?手っ取り早い方法としては、DXの分野を「俯瞰的かつ深く」理解している人を外部で見つけて、経営者がその人と仲良くなって、多角多面に助けてもらえるようにするのもいいかもしれません。