「知らない」を知る

経営者や経営幹部の方々とITの話をするとき、時々出くわすのが、「自分はどこまでITのことを知っているべきなのか」という論点です。

というよりもむしろ、「経営者である自分は、ITのことなど詳しく知っている必要はないはずだ」という認識を下敷きにしているように感じられます。ITに限らず、財務管理会計にしても人材育成にしても法律にしても情報セキュリティにしても、同じ話です。

誰しも得意分野と不得意分野があり、不得意分野は積極的に学びに行かないでしょうし、覚えようとするだけ時間の無駄に思えてくるでしょう。または、自分があまりその分野が得意でないことを見せたくない、という自尊心も働くのかもしれません。

しかし、残念なことに中小企業ほど、企業規模が小さければ小さいほど、その経営者はあらゆる企業運営の分野において万能である必要がある、とわたしは考えています。なぜなら、企業規模が小さいほど、その経営者個人の能力で、その会社の組織としてのパフォーマンスがほとんど決まってしまうからです。つまり、その会社の経営者が不得意なことは、そのまま、その会社の不得意分野になりますし、その会社にとって脆弱な領域になるのです。

もちろん、経営者個人があらゆる業務をこなす必要があるということではありません。しかし現実は、経営者がケアしようとしない業務領域は、その会社では管理が行き届かず気にされないのが、企業規模が小さくなるほど自然な成り行きです。例えば、ITを気にしたがらない経営者の会社は、たいていは組織のITレベルは低いです。

たとえ「自分にはできないから専門人材を雇って責任者に据えた」としても、同じです。そうした専門人材のやりたい放題にして管理できない会社のIT運営レベルは、だいたい高くありません。そもそも、責任者を選定しようとする人がよくわからない分野の専門人材について、その人材が自社にとって適切だという判断が果たしてできるものでしょうか。その人材の働きが自社にとって適切になっているという評価が、果たしてできるものでしょうか。

冒頭に挙げたような論点で、もしわたしが「経営者が細かいことに詳しい必要などあるのか」と聞かれたら、次のように答えます。

物事を「知る」ということには、レベルがあります。例えば、思いつくままに言えばこんな分類です。

1.他人に指導できるほど身についている
2.知っているうえに、自分でこなせる
3.知っているけれど、自分ではできない
4.知らないということを、認識している
5.知らないということに気づいていない

経営者は、”5番目” を限りなくゼロにする必要があると思います。

車の運転に例えていうなら、4番目の状態は、道路のすぐわきに崖があることが分かっている状態で、ハンドルを握っている状態です。一方で5番目の状態は、道路のすぐわきに崖があることを知らずに、ハンドルを握っている状態です。5番目が多い経営者は、自覚なしに危ない動きや判断を行います。しかも、それが危ないということに気付きません。

以前、ある大手企業グループが子会社を作って電子決済サービスを始めましたが、サービス開始直後に不正アクセスを許し、利用者のアカウントから不正にお金を持ち出されたという事件がありました。発覚後会社は記者会見を開き、社長が謝罪と説明に当たりましたが、その社長はある記者から「二要素認証をなぜしていなかったのか」と問われて、答えられませんでした。

彼は「二要素認証」という技術のことについてまったく無知だったのが、回答できなかった理由でした。

そんなことも知らない会社に大事なお金を預けていいのかとソーシャルメディアでは炎上騒ぎになり、大手メディアでも大々的に取り上げられ、結局その会社は、決済サービスの全面停止、社長の辞任、を通り越して、会社自体をたたむという判断に至りました。

おそらくこの社長は、情報セキュリティについては上記の5番目の状態だったのだろうと推察されます。もし少なくとも4番目の状態であったら、本人の危機管理能力次第ではあるでしょうが、知識補強なり理論武装なり、事前に準備を施すことは可能だったはずです。知らないことに自ら気付いていなければ、知らないままでいても何も感じることはありません。対策や準備は一切不可能です。

このようなかたちで、知らないでいることに平気でいる状態で下す判断は、運がよい場合を除いては、不適切で浅はかなものになります。経営者がそのような判断をすれば道を誤るわけですが、本人にはその自覚がまったくないので、極めて厄介です。

ちなみに、5番目の状態を限りなくゼロにするためには、一旦はあらゆる物事を知ろうとする努力が必要になります。つまり、不得意であろうが、気が向かなかろうが、時間がなかろうが、難解であろうが、経営に携わり社員をリードする立場である以上は、あらゆる分野のことを学習し、ひととおり人並み程度には知識を体系的に獲得しておく必要がある、ということです。

「他人に委ねて自分はラクをしよう、他にもやることがたくさんあるし」などという考えは、少なくとも社員数1000人を超えるような規模の企業に育て上げるまでは、潔く捨て去ったほうがよろしいかと思います。経営は、幅広く高い能力を要する大変な仕事です。

デジタル化したいなら、まず「因数分解」

わたしがお客さまの前でよく使う言葉で、通じないことが多いもののひとつが、「因数分解」です。

しかし、この因数分解、デジタル化においては極めて重要なスキルだとわたしは思っていますので、めげずに使っています。

ここでいう「因数」というのは、かみ砕いた言い方になっているかどうか自信はありませんが、対象になるものを構成する要素、というような意味です。物事の本質を見極め、課題解決の糸口を見つけ、課題を突破する新しい方法論や構想を構築しようとするとき、ぼやっとして捉えられている対象物を、根幹を構成している要素にどうにかして分解し骨組みを見極めることが必要になります。それを「因数分解する」と言っています。

因数分解する試みというのは、その対象に対する一種の研究のようなものであり、またある意味では、その対象の全体像を知り尽くそうとするこだわりが表れることではないかと思います。

例えば、ある食品製造業の場合。品質にこだわるその会社が、自分たちが納得のいく商品だけを作りたいと考えたら、どうするでしょうか。

製品出荷前に官能検査をするのは当然でしょうが、その検査が属人的では、テイスティングする専任の担当者の「勘」がすべてになってしまいます。その勘がどのように機能しているのか見えるようにしなければ、社内で納得感が共有されませんし、その人以外に優れたテイスターも育ちません。

そこで、検査に合格となる味の要素を因数分解するわけです。因数分解するなら、科学的に測定できる要素に分解したいものです。成分を分析し、合格品に備わる特性を導き出します。おそらくこうした調査は、専門機関などに依頼すればそれほど難しくはないでしょう。

本当の問題は、ここからです。では、そうした合格品を製造するには、どういう条件がそろっている必要があるのか。それがわかれば、安定的に合格品を製造することができます。合格品を生み出す特性が生産過程でどのように生み出されるのかを調べ、その要素をまた因数分解します。食品ならば、水分量、原材料の配合や重量、調合や加工のタイミング、場合によっては工場内の室温や湿度も影響するかもしれません。

その因数分解に成功できれば、それらの要素をモニターする仕組みをつくりこむという道筋が見えてきます。因数分解できているのなら、一連の仕組みを仕様として表現するのは、比較的容易です。品質のつくり込みに必要な要素が管理できるなら、品質検査で合格できなかった場合は原因を分析し、その対応策を製造現場に数字ですばやくフィードバックすることができるでしょう。現場はその数字を基に、即座に改善対応が取れることになります。勘に頼った改善対応よりも、はるかに精度の高い改善が、誰でもすぐに打てるようになります。

このようにして仕組みが完成して稼働すれば、それはまさしくシステムです。

先月のコラムでも、データは自分で作らなければ存在しないと述べました。データを生み出すために必要なスキルが、上記のような「因数分解」なのです。

仮に、既に使えそうなデータがすでにある場合でも、そのままでは用を満たさないことが往々にして起こります。そうした時にも「因数分解」が必要になります。

例えば、建設業では最近BIMを活用するケースが増えています。BIMによれば、建設物の設計データが余すところなく保存されており、それが3Dモデルとして利用可能です。これを用いれば完成後の建築物の施設管理にも使えそうだ、という発想が容易にできます。

しかし、実際はそうは簡単に行きません。設計時に構成したデータと、施設管理に使いたいデータでは、中身が大きく異なるのです。設計データは、主に建物の構造に着目したデータセットになっているわけですが、施設管理ではそんな細かい寸法などが知りたいわけではありません。一方で、施設内で使われている設備や装備のメーカーや品番といった保守に必要な情報は細かく知りたいわけです。

では、施設管理にはどんな情報が必要なのか。それを因数分解する必要があります。そのうえで、持ち合わせているデータがどのくらい流用できるか、流用できない情報はどこから引っ張ってくるか、という取組みができなければいけません。それがうまく行かなければ、大量にあるけれど用はなさないデータが壁になって、施設管理はままならないでしょう。

このコラムでは端的な話しかできないのですが、業務改革やデジタル化の取組みにおいて「因数分解」が大事であることが、少しでもご理解いただければ嬉しいです。引き続き、この言葉は多用させていただこうと思っています。

「デジタル化が遅れている」と言われて、安直に急がない

マスコミがさかんに「日本企業はデジタル化が遅れている」とはやし立てるせいか、判断に必要な情報が足りない、業務が非効率で混乱している、などといった課題に直面したとき、「システムを入れよう」という発想になる経営者や経営幹部が、最近多くなってきたように思います。

今回のコラムは、その発想は悪いことではないが安直である、というお話です。

もう多くの方にとって忘却の彼方に行ってしまったことかもしれませんが、コロナ禍が始まった時、医療現場ではコロナ患者の動向に関する情報収集をめぐって、深刻な混乱が発生していました。

国は当初、全国に感染患者がどれだけいるのかを集計するのに、電話やFAXを使っていました。しかし、それでは不正確で不確実なことはすぐに明らかになり、すぐさま「システムを入れよう」という流れになりました。

ところがこのシステムに必要なデータとして列挙された項目や内容があまりの分量となり、そのデータ入力作業は医療現場の人々にとって、押し寄せる患者の看護や治療でひっ迫している業務へのさらなる負担となりました。

結果、どうなったか。医療機関によってはすべての項目を入力せずに報告したり、1週間分をまとめて入力して報告したり、などという行為が横行したのです。

テレビやネットで情報を見ていた我々一般人は、感染者数の動向などはリアルタイムで報道されていると思っていたわけですが、実態は「だいたいの数字」を見ていた、ということになります。

システムを導入する、デジタル化をする、ということは、要するに何をすることなのか。一度は深く考えてみる必要があると思います。

データが見たいというのなら、まず自らの手でデータを生み出さなければいけません。データは、そこに自然に置いてあるものではありません。自然に湧いて出るものでもありません。ほしいデータは、通常は自分で作り出さなければ存在しません。例えば、いま誰もが当たり前に毎日使っている「温度」や「湿度」でさえ、その昔それが知りたいと考えた学者が生み出した指標です。

そうしてデータを生み出したところで、それは多くの場合、人間の手で「入力」されて初めて実体になります。裏を返せば、それは人間の対応次第で誤ったデータにも、汚れたデータにもなる、ということです。データだから正確、という保証はないのです。では「正確なデータ」をどうやって収集するのか。何をもって「正確」だとするのか。人手を介さず自動でデータを収集できるのが理想ですが、そうしたいなら自動で収集するやり方を、また自ら編み出さなければなりません。

データを収集する、データを加工する、データを集約する、そうして処理したデータを使えるように反映する、等々、一連のデータ処理を実行する「しくみ」もまた、自ら考え出さなければなりません。

世間に売っているソフトウェアやクラウドサービスを採用すれば済むと思っている経営者や経営幹部は多くいますが、それらを導入して「帯に短し襷に長し」な状況に陥った実体験をしたことがないのでしょう。自分のやりたいことが具体的で明確であればあるほど、それに一挙に適合する出来合いのソフトもクラウドサービスも、ますます見つからないのです。逆に自分のやりたいことが曖昧で明確でないほど、今度はソフトウェアやクラウドサービスの都合に振り回されることになります。

そのような、自分がやりたいことを実現する「しくみ」を設計する源泉は、どこから来るのでしょうか。

それは、データが見たい、業務を合理化したい、という課題解決を必要とする「目的」です。なぜそれが重要なのか、それをしないと会社はどうなってしまうのか、いままでのやり方を曲げてでも新しいやり方を採用してデータ入力の仕事を負担する必要がなぜあるのか、それが説明できなければなりません。

新しいやり方を採用しようとしたとき、そのやり方の実践には、一定の「デジタルの素養」が必要な場合もよくあります。その場合は、現場に対するデジタル分野の知識強化のサポートも必要になります。勝手に覚えてシゴトしてくれ、では通用しません。

的確に説明ができなければ、また現場に対する的確な支援が提供できなければ、現場は黙って、データ入力を実行しないか、正確性を追わずいい加減な対応でお茶を濁す行動に出ます。コロナ禍で、感染者数の正確な情報提供が重要であることは十分に理解していたはずの医療現場でも、前記したようなことが発生しているのです。

的確な説明を考え、説得できるのは、その取り組みを主導する経営者や経営幹部以外にいません。デジタル化を進めるとき、全体構想を考案し、実現シナリオを設計すべきなのは、取り組みを主導する経営者や経営幹部です。「ITに詳しい人」ではありません。

よく「経営トップが主導せよ」「経営者の意識が低いのではデジタル化はできない」などと言われているのは、こうしたことが本質なのです。「デジタル化をするぞ」「データを見える化するぞ」と掛け声をかけるのがトップの役割、などと考えていたら、道を誤ります。

デジタル化を進めたい、という思いがふつふつと湧いてきた経営者の方々は、一度立ち止まって、「それ、どういう仕組みで実行するの?」ということから絵に描いてみてください。わたしに聞いていただければ、その絵にいろいろなツッコミを入れさせていただきます。

「何でもできます」がウリのビジネスは、売れない

最近、地方銀行発のデジタルバンクとして、(少なくともIT業界や金融業界の周辺では)鳴り物入りで事業をスタートした「みんなの銀行」が、3年連続赤字で事業存続の危機と報道されたのが注目されていました。

同行は、勘定系をはじめとしたすべての業務システムをパブリッククラウド上に構築し、システム設計もクラウドネイティブが前提と、銀行のシステムとしては前例のないものを構築するということで、事業開始当初から注目を集めていました。決済や預金といった金融サービスに必要な機能を、小さく分割して実装するマイクロサービスと呼ばれる手法を採用し、必要なマイクロサービスを組み合わせて連携することでサービス提供を実現する作りになっており、サービスの提供・追加・修正・更新などが柔軟に行えるということをウリにしていました。

その柔軟性を活かして、モバイルアプリだけで完結できるバンキングサービスを展開したけれど、口座数こそ増やせたものの、預金残高が積み上がらず、ローンの貸出も伸びずに、収益が思うように上がっていない、ということなのでしょう。

危機と報じられた後の会社幹部のインタビュー記事などを見ると、「当初からBaaS(Banking as a Service)を事業の軸と考えていた」「黒字化はいまから4年後だ」などという発言で、事業撤退観測を打ち消しているようです。よく言えば「ピボット」というのかわかりませんが、僭越ながらいささか都合の良い言い回しにも感じられます。

私自身、ビジネスとは何か、売れる商品やサービスとはどういうものか、繁栄や成長を果たしている企業とそうでない企業では何が違うのか、ということにずっと悩みと課題意識を抱えてきました。いまはその悩みが消えてなくなったと言いたいところですが、残念ながらそうではありません。しかし、10年以上かけて事例研究や試行錯誤を繰り返していると、気づきも多く得られます。そうした気づきを体系化したフレームワークが、いまの当社がお客さまに提供する助言の根幹の考え方になっています。

それを踏まえて申し上げれば、「柔軟」、すなわち「何でもできます」というビジネスに接した顧客は、たいていの場合、そのサービスをおカネを出して買おうという魅力は感じません。なぜなら、「何でもできる」会社には具体的になにができるのかが、よくわからないからです。

「何でもできます」というサービスは、顧客の側においてすでに実行したいことの構想がかなり明確に描けていて、あとはその実現方法を確立するだけ、という場合には有効かもしれません。卑近なたとえをするなら、家の掃除の仕方は完璧に想定できているが、あとは掃除を実行する人が欲しい、という状態でしょうか。

しかし、たいていの場合、顧客の側でそこまで構想が描けていることはありません。簡単に言えば、顧客は自身が具体的に何をしたいのかがわかっていないことが多いのです。

そうした背景から、典型的に売れていく商品やサービスというのは、顧客の困りごとの解決や、顧客が得られる心地よい体験が、その提供シナリオが具体的にわかるかたちで明確に打ち出されているサービスなのです。

勝手な想像かもしれませんが、このデジタルバンク事業を始めに企画した段階で念頭にあったのは、どんな顧客にどのような価値を提供する「ビジネス」をつくるのか、ではなく、どの金融機関でも実現できていない画期的な「システム」をつくる、ということではなかったか、懸念されます。パブリッククラウド上でマイクロサービスによるシステム設計を行って、過去に前例のない金融システムを構築する、ということにばかりフォーカスが行ってしまっていなかったのか。当然ですが、情報システムの構築は事業の「手段」であって、事業の「目的」にはなりません。

そうではないという反論があるとしたら、では、ターゲットとしていた顧客はスマホだけで口座の操作や取引手続きが完結する金融サービスがないことにどれほど困っていたのでしょうか。BaaSの顧客は、スマホアプリを使って取引する顧客とはまったく異なる種類の「ターゲット顧客」になりますが、BaaSの顧客は何に困っていると考えていたのでしょうか。そしてなぜ、異なる2つの種類の「顧客」を、始めから同時に相手にしようとしたのでしょうか。ぜひ説明を聞いてみたいところです。世間にない(または認知度が低い)画期的なサービスを打ち出そうというときに、異なる顧客を同時に扱う、すなわち複数の異なるビジネスを同時に立ち上げる、という行為は、わたしの目には無謀に映ります。

BaaSという事業環境においても、すでにライバルのプレイヤーは群雄割拠の状況です。同行が「ピボット」してBaaSを軸に事業を進めるとしても、「柔軟」というだけでは4年後の黒字化も難しいのではないかと、わたしは見ています。まあ、わたしの予想なので、外れることを願っています。見事に外れた暁には、また勉強させてもらいます。

自分の会社のホームページくらい、魂込めてつくれ

わたしはここ数年、甘党傾向が年々極まってきているところがあります。始めは人様に差し上げるお土産として購入していたのですが、そのうち自前にもついで買いするようになり、拍車がかかってしまいました。最近では、訪問などで外出している際、場所を移動する間にエキナカやデパ地下などを見つけるとフラフラ寄り道し、おいしそうなものを見つけては買い食いする、ということを繰り返しています。

スーパーに売っている廉価品から、一流の名店による高級品まで、かなり舌は肥えてきたような気がしているのですが、それでも見た目でだまされる(といっては申し訳ないのですが、味でがっかりさせられる)こともしばしばあります。一方で、そこまで期待はしていなかったのに、ほおばった瞬間に感動を覚えるようなものに出合うと、かなり強く印象に残ります。

そうして感動を覚えるとまず行うのは、ネットでの検索です。その商品をよく知ったうえで買っているわけでもないので、そもそもどんな店なのか調べに行きます。

ところが、菓子製造の業界ではかなり顕著な傾向に思えるのですが、自社でホームページを構えていない事業者はかなり多いのです。

あっても、文字通り「一枚ぺら」しかページがない、会社の名前と住所程度しか書いていない、というような、情報密度が低レベルのものが少なくありません。それでいて、なぜだがフェイスブックやインスタグラムだけは(形だけ)やっていたりします。

本当に、もったいないことだと思います。これで、顧客のロイヤルティの獲得をほぼ逸することになります。

ホームページは、自社の創業の理念、社会に訴求したいミッション、目指しているビジョンなどを、誰からも制約を受けることなくアピールできる場所です。自分たちは何者で、何にこだわりを持ってシゴトをしているのか、自分たちの仕事から何を感じてほしいのか。見ず知らずの人にはなかなか聞いてはもらえないような思いの丈を世間に向かって存分に訴えかけることができ、それが反社会的でもない限りは誰にも咎められることはありません。そうした主張を読むことで、興味を持った人たちがより興味を深める機会になるわけです。

製造業であれば、自社の商品へのこだわり、商品を製造する過程や苦労、従業員の存在価値や職人技、等々を掲載したら、よりリアルに商品の価値や会社の価値を感じてもらえます。会社に直接コンタクトでもしない限りは知り得ない情報を、外部の人に知ってもらえるのは、かなり有益な機会です。

にもかかわらず、面倒だからか、作り方がわからないからか、ホームページさえ存在しないという会社は、自らの価値をかなり下げていると言えるでしょう。

会社として考えていること、大事だと思っていることを、具体的に言葉で表すのは、大変重要な取り組みだと思います。それが、会社の中での一体感の源泉になります。言葉になっていないのは、経営者が言葉にしていないからにほかなりません。言うまでもない当たり前のことのようでいて、実際にやらせてみるとなかなか言葉にならない会社を、個人的にもこれまでいくつも見てきました。

こと食品業界の場合はよくあることですが、会社が自社でホームページを作らないと、グルメサイトやまとめサイトの類のところが勝手にその会社や商品の紹介ページを作って勝手に公開してしまいます。それは会社のコントロールが利かない、いわゆる勝手サイトです。そこにポジティブなコメントが展開されるだけならよいでしょうが、間違った情報やネガティブなコメントでページが埋められれば、世間の人々はそれを共通理解にすることになります。

いまやホームページの制作に、専門知識は不要です。切り貼りする程度の操作で簡単に作成できるソフトウエアが安価に数多く販売されていますし、クラウドサービスでも制作できます。ホームページ制作の技術的な領域を代行してくれる個人や会社も、探せばいくらでもあることに気付くはずです(当然ですが、「丸投げ」は厳に慎むべきです)。

メンテナンスが面倒だと思うのかもしれませんが、それも知識はほとんど不要で簡単です。メンテナンスすることも見越して制作するようにすれば、間違った方向にはいかないでしょう。

フェイスブックやインスタグラムで十分ではないか、と思っている会社もいるのかもしれませんが、わたしに言わせれば、自社のホームページがないというのは全く不十分です。芸能人やプロスポーツ選手であればインスタだけで問題ないでしょうが、企業は違います。少なくともわたしには、そのような企業は本社住所もないのに事業者を名乗っているようなことと同じに見えます。

これは食品系の会社に限りません。中小の会社ならどの業界でも、特に社歴の長い会社ほど、このような傾向があるのではないでしょうか。小難しいSEO対策などは一切不要です。写真も動画も、手持ちのスマホで簡単に撮れます。自分の会社の存在価値を訴えるホームページくらいは、入魂して自分で作りましょう。

スタートアップや小規模企業に、ビジネスのしくみはムダなのか

ビジネスのしくみ化について、わたしは度々、その重要性を様々な場所で述べています。

一方で、識者と呼ばれる人の中には、スタートアップや小規模企業が仕組み化に拘り過ぎると、ビジネスにおける柔軟性を低下させて成長の足かせになる、ということを主張する人々がいます。

スタートアップや小規模企業は、ビジネスのしくみ化に取り組む必要性は低いのでしょうか。今回はこのことについて(改めて)論じてみたいと思います。このコラムをよく読んでいただいている方々には、わたしがどういう主張をするのかということは読む前からお分かりかもしれませんが。

「ビジネスのしくみ化をするから、ビジネスが柔軟でなくなる」というのは一面的な考え方であると、わたしは考えます。

ビジネスのしくみ化をする意味というのは、その企業が目指すミッションや提供したい価値を実現するための行動シナリオを具体化し、言っている通りの価値を顧客に実際に提供できるようにすることにあります。仕組みというのはつまり、固定的で硬直化した業務プロセスを指すものではありません。つねに管理され、最適化を目指して改善を続けられるものです。

ビジネスの価値をどう提供すべきなのかは、一度決めてしまえばあとは変更しない、変化しない、ということではないはずです。事業環境が変われば、または顧客にとっての価値が増すような提供のしかたが新たに見出されれば、それは当然に考慮され、よりよい提供方法に変えられていくべきです。

スタートアップ段階の企業ならなおさら、価値提供のノウハウが完全に定まってはいないでしょう。より価値提供のあり方を高めるべく改善の余地は多分にあるはずで、改善活動に付随して、ビジネスのしくみも進化していくのが自然です。

また、一定の成長軌道にすでに乗っている小規模企業であっても、顧客の意向や嗜好は変化することを念頭に、常に動向をウォッチし続け、顧客にフィットするように、価値提供のしかたや質をアップデートしつづける努力は欠かせないはずです。その努力をしなければ、競争社会のなかにあってすぐにその提供価値は陳腐化していきます。

逆に、ビジネスに柔軟性がなくなるからと言って、ビジネスのしくみづくりを軽視すればどうなるでしょうか。

ビジネスのコンセプトやミッションとして経営者が掲げるコトバは立派だが、現場の仕事は実のところそれを体現できず、コトバとは裏腹なサービスや購買体験が顧客に向けて展開される、ということに、容易につながるのではないでしょうか。実際、外見や評判はすごそうに見えて、内情は随分混乱しているスタートアップというのは、個人的に観察する範囲では相応な頻度で見られる印象があります。同様に、立ち上がり段階こそ良かったのに、ビジネスが進展していくにつれ、当初の提供価値からは離れていくようなサービスや商品が展開されていくような会社も見かけます。

もちろん、ビジネスのしくみは一気に完成するものではなく、段階的に整備を推進することは大いにあります。ただしそれも、ロードマップは予め描かれ、それに従って進められています。成長シナリオが明確な企業というのは、ある程度の試行錯誤は不可避とはいえ、決してその場の思い付きや偶然の成り行きで事業を進めているのではないのです。

どのレベルまで仕組みづくりが実現できれば、どの程度まで価値提供が実現できることになり、その先はどのようなステップを踏んで、価値提供のレベルを高めていけるのか。そうしたシナリオが描けていてこそ、段階的な推進と言えます。

計画は不確実性がつきものであり、もちろん軌道修正が必要になることもあるでしょう。仮に軌道修正するにしても、予め描いたロードマップがあってそうするのなら、変更すべき個所と到達点に向けた修正ポイントは明確です。計画を立てても変更されるからといって、計画すること、シナリオを構想すること、ロードマップを描くことに、無駄はありません。

こういうことを申し上げると、「仕組みなど考えている時間があるなら、先に売り上げを上げることのほうが優先だ」という趣旨の反論を受けることがあります。

ビジネスで売上を立てることは何より重要だということは、論を待たないと認めますが、仕組みもないところで「なんとなく」上がる売上というのは、往々にして長くは続きません。「一発屋」で終わりたい事業家は、そうたくさんは存在しないだろうとわたしは信じています。

実のところ、(単純に)売上を上げる(だけ)ということは、案外「為せば成る」世界でそんなに難しくはありません。爆発的に売り上げて勢いが増すビジネスの例も聞きます。しかし、一見成功したかに見えて、そのあとで提供価値のクオリティがついてこず、顧客を失望させて一気に冷める、というケースは、案外よく聞かれる衰退事例です。

ビジネスのしくみというのは、誰がオペレーションしても確かな売上さらには利益を継続する裏付けとなる「カラクリ」です。カラクリがない事業は、勘でオペレーションしているということです。それは、くじ引きで運試ししていることに近い。当たればうれしいが、当たらなかったときに原因は一切わかりません。改善しようと対策を考えるときも、同様に勘による「くじ引き」を繰り返すことになります。

仕組みを考えさせると逡巡する経営者、逃げようとする経営者も見かけますが、自ら発想するビジネスアイデアを仕組みに落とし込むこともできないのなら、能力を鍛えてできるようになるまで事業展開はやめるべきです。巻き込まれる人たちが不幸になります。そんな構想を描いていたら多大な時間がかかる、というのなら、そのアイデアは考えが浅いか、視野が狭いか、その両方か、である証拠であり、本格的な事業展開ができるポテンシャルに不足があるということです。

アイデアの創出に論理は不要ですが、論理性のない事業は、経営者の独壇場となり、他の人間が入り込む余地がありません。仮にその事業が先に進んだとしても、誰もその経営者と議論できないし、客観的に語れるブループリントがない事業の経営者は真の相談相手を得られないでしょう。外食業界で活躍する、あるスタートアップ経営者は、そうした創業社長のことを「占い師」と称していました。経営者の勘とセンスで店を開発し、ヒットへと導くが、なぜ売れたかは本人にさえも分からない、そんな会社は占い師以外は活躍できない、ということを皮肉ったものです。くじ引きと占いの違いこそあれ、まったく同感です。

「職務経歴」だけで、人材を判断していないか

先月のコラムでは、幹部社員をどう育成していくことができるかについて論じてみましたが、今回はその続きです。

会社のコアになるようなハイレベルの人材については、専門的なスキルを持つ人材を社外から入れたがる経営者もよくいます。

ただ、外部から人材を採用するなら、事業運営の仕組み化までができていることが前提だと思います。仕組みが未熟な状態で外部のハイスキルな人材を採用すれば、わたしの知る限りではおよそ失敗に終わります。

まずそもそもの話として、採用しようとする人材に、組織として要求する専門的スキルが十分にあるのかどうかを見抜く力が経営者や経営幹部にあるのか、という問題があります。その専門性のレベル感や価値が理解できるためには、先月のコラムのとおり、経営者や経営幹部がまずその業務を(自分の会社の範囲内でも)自分で手掛けて、考えてみたことがあるのが不可欠です。

そうでないのなら、その分野における本質的な能力を兼ね備えているのかを見抜く術は、まず持ち合わせていないでしょう。料理をしたことがない人が、料理人の腕や底力を見抜くことができないというのと、同じことです。

また、組織が要求する能力を発揮するということは、実は専門能力があれば十分なのではありません。「専門能力」というのは、その人材の能力を見る切り口のひとつでしかないという事実に気付く必要があります。その人材が職務で発揮する「能力」というのは複雑で、専門能力だけでなく、対人スキル、コミュニケーション能力、問題解決能力など、その他の様々な能力(コンピテンシーとも呼ばれます)の相互作用によって形成されるのが現実です。

ですから、個々の専門性だけを見ていても、それらは断片的なので実は評価しづらいのです。本当のところは、業務の仕組みが確立された職務環境で、実際に仕事をしてもらわなければわかりません。例えば、社交性が高いのに営業はできない人材も実際にいますし、営業成績は抜群だけどあまり協調性がない人材もまた存在します。

同様のことが、職務経歴に関しても言えます。

履歴書を見て、立派な経歴、レベルの高い資格の数々、豊富で幅の広い経験、積み重ねてきたキャリアのすばらしさに目を引かれた経験がある経営者の方も多いだろうと思いますが、仕事をさせてみたらまったくの期待外れだったケースがこれまでなかったでしょうか?何を隠そう、わたしもそれで痛い目に遭ったことが何度かあります。

よくよく考えてみれば、ビジネスパーソンが「経験」や「経歴」を獲得するのは、実はそれほど難易度が高くありません。業務が行われている現場に関与していさえすれば「経験」したことになりますし、成果はどうであったとしても「経歴」と称することはできます。実際、そのようにしている人は多いと見受けられます。

本質的な能力というのは決して簡単に見につくものではありませんが、一方で、職務経歴書の書面で本質的な能力の有無を見抜くことはまず無理です。そのため、職務経験にだけ力点を置いた人選をすれば、なぜか凡庸な人材が集まる結果になるのです。

ある時点で、外部人材を採用して「専門スキルを買う」ことが必要になるときは来るでしょう。ただしそのときは、社内の人材を育てる以上に慎重に評価することが必要ですし、採用前の面談や試験だけで判断しきらないことも意識する必要があります。採用した後でしかわからないことも、かなりあるものです。そこまで念頭に置いた採用プロセスを構築したうえで、外部人材を取り込むことを考えるのが無難です。

良くも悪くも、人材の能力を見抜くというのは、本当に難しいことです。

平凡な人材を、自社の幹部に育てる方法論

中小規模の会社で、有能な人材の不足を嘆いていないところを聞いたことがありません。それは今も昔も変わりませんし、洋の東西も問いません。名経営者として現在謳われているような方々であっても、かつて中小企業だった折には、やはり自分に匹敵するような能力を持つ幹部がいないことに悩んだといいます。

あなたの会社に、もしポテンシャルの高い人材がすでにいるとしたら、それは大変な幸運に恵まれているといえます。ぜひ、大事にしてください。そういう有能な人材ほど、いろいろな意味で「感度」が高いので、大事にしなければより高いレベルの職業機会を求めて転職していく可能性が高いです。そのような機会を社内で与えられなければ、フツウの中小企業と同様に、平凡な人材の集団になります。ほとんどの中小企業にとって、能力が高い人材を集めることはハードルが高いことです。

通常、経営者に要求されるのは、平凡な人材が集まる会社の中で、どのようにして有能な幹部社員を育てていくのか、ということでしょう。これには一定の答えがあるわけではないと思いますが、中小企業における方法論を念頭に、以下にわたしなりの考えをまとめてみます。

まず、会社の規模が小さいうちに、会社の中のあらゆる業務において、経営者が率先垂範してすべてをリードし、部下に仕事の手本を見せてほしいと思います。

企画でも、営業でも、開発でも、経理でも、人材育成でも、すべてをまずは経営者自身が先頭を切って必死に働くことです。部下には主導させない。経営者が第一線で必死に働いて顧客に価値を実際に提供している姿を見ることで、部下は「ついて行ってみよう」「真似してみよう」という気持ちになれるものだと思います。

自分には現場レベルの仕事はできないからと言って、ある業務カテゴリを丸投げして他人に任せる経営者は、かなり多いのが実情でしょう。しかし中小レベルの企業において、経営者が自分で手掛けて成果を出せないような仕事は、他人がやればそれ以下にしかなりません。部下に任せるだけでなく、信じられないかもしれませんが外部から人を採用してもそれは同様です。

そして、経営者がその仕事の成果を的確に判定できない業務カテゴリでは、やがてその領域が、会社の成長の足かせになっていきます。以前のコラムにも書きましたが、自分ではできないことが限界を形成していくわけです。中小企業の経営者は、「小さく万能」でなければなりません。

そうして自ら実践する中で、一定の方法論を形式知にし、業務を仕組み化をしていきます。これが次の段階です。

経営者が勘で仕事を続ける限り、いつまでも部下の意識の中に軸をつくることができません。成果に繋げられる仕事の仕組みが見えるようになれば、経営者と部下の間に共通の価値観が形成しやすくなります。自分が黙っていても部下が自然にその仕組みに従えるようになってきたところが、部下に任せられるようになったタイミングです。

そうして任せられる人材が出てきたところで、幹部になる心構えを説く育成プログラムを考えていきます。こうしたプログラムは、幹部候補にだけ行うようなものではありません。一般社員にも持ってほしい心構えから始めて、段階を踏んで進めていくほうがよいと思います。会社のミッションやビジョンを下敷きにしつつ、一般社員から幹部に育つにはどのような心構えの成長が必要なのかを、やはり経営者が概念化する必要があるでしょう。その成長プロセスに沿ったプログラムを段階的に整備し、部下に提供していくのです。

段階的に提供していくことで、幹部候補になった時から急に始めようとするときに生じるギャップを小さくすることができるはずです。そもそも、自分が会社でリーダー的な役割を果たせるようになりたいという思いは、仕事をして成果を挙げていく中で徐々に意識が変わって生まれてくるものです。その過程のなかで、幹部に必要となる覚悟や責任感を、徐々に持っていってもらえるように仕向けていくほうが、育成は円滑に進むはずです。

時々、研修プログラムを整備しようとしない中小企業や、研修は外部のものを買ってやらせればよいと考えている主体性のない中小企業を見かけます。研修の仕組みは、自社にとってのあり方を明確に設計して実施すべきで、設計されたうえで外部のコンテンツを取り入れるなら有益でしょう。その「あり方」を具体化するのも、始めは経営者が率先垂範すべきことです。

また、能力がある社員には研修は要らない、ということは決してありません。一方で、研修が充実していればどんな人材でも育成されることも、決してありません。会社が適切な対象者を選定し、その人たちに充実した研修を施して初めて、効果が生まれます。

併せて重要なのは、幹部候補になり得る社員たちに対して、重要な価値観や考え方を、経営者が日常的に言い続けることです。いつも同じことを言う、いつも同じことを問いかけて確認する、ということを通して、徐々に経営者のイズムが浸透していくのです。また、日常の仕事のしくみも、そうした「いつも同じことをする」の一環として機能するものです。

どのような方法を採ろうとも、会社のコアになるような人材の育成には時間がかかるのは間違いありません。簡単に育成することはできない、意図しなければ育つことはない、と思ったほうがよいです。「そんなことは経営者の仕事ではない」として丸投げするのは、だいたいの場合誤りです。長い時間をかけて経営者が率先垂範する覚悟は、持つ必要があるだろうと思います。

自虐はやめよう、「ガラパゴス」かどうかは顧客が決める

ここ最近読んでいた記事のなかで目を引いたもののひとつに、「国家ブランド力」で日本が60か国中でトップに立った、というトピックがありました。アンホルト-イプソス国家ブランド指数(NBI)というもので、フランスの調査会社イプソスと、国家イメージ分野における世界的権威サイモン・アンホルト氏が、2008年から共同で実施している、国家ブランド力を評価するグローバル調査です。

NBIでは、「輸出」「ガバナンス」「文化」「人材」「観光」「移住と投資」の6つのカテゴリとそれぞれの詳細な属性について、世界各国の調査対象者にアンケート調査を行って評価を行っています。多様な切り口で各国の印象を評価しているようで、NBIの総合ランキングはその言葉通り、国家ブランドの総合的な評価と言えそうです。

わたしが関心を持ったのは、日本が国際的な評価指標でトップになったとはずいぶん珍しいな、ということだけではありません。その詳細な評価を見ていくと、興味深い点がいくつか見受けられるのです。

例えば、日本は上記6つのカテゴリのうち「輸出」が強いと評価されたといい、科学技術への貢献、場の創造性、製品の魅力といった属性で1位だったそうです。

いずれも、日本の国内では「陰りが見えてきた」などと批評されることが多い分野ではないでしょうか。さらには、ガラパゴスだとか、過剰な機能だとか、そうした自虐もよく聞かれるような分野である気がします。

ほかにも、国家としてのパーソナリティを評価する質問において、17種ある特性のうちで日本が唯一1位を獲得したのは、なんと「創造的」でした。ちなみにパーソナリティの特性については、ポジティブな特性とネガティブな特性が共に評価されているのですが、日本人だけにアンケートを取ったら「問題が多い」に票が集まりそうです。

そんな結果を見て感じたのは、「支持と尊敬というのは自然に集まるものなのであって、それを獲得しようと注力するものではない」ということです。

思えば「ガラパゴス」ということばは、個人的には、日本が携帯電話の通信規格をいち早くインターネット接続に対応させ、その先進的技術を世界に広めようとして失敗した、という経緯の中で広まったものだと理解しています。この事例のほかにも、「日本は技術で勝ってビジネスで負ける」などとはよく言われてきました。ただ、その指摘の根底にあるのは、要は覇権主義的な考え方であって、そうした野心や魂胆はすぐに見抜かれ警戒されるわけで、容易に行かないのは当然です。近年台頭する某国の振る舞いを見て多くの国が何を感じているか、というのと同じです。

一方で、そうした野心も魂胆も持たず、ただ地道に自らの取組みや良い側面を対外的にアピールし、それが評価されれば、支持や尊敬は自然と集まる。NBIにおけるトップというのは、それを象徴しているように思えるのです。

いまITにおいて世界のスタンダードとして不動の位置にある米国企業は、どの企業も、ビジネスを始めたその時から「世界を牛耳る」などとは考えていなかったのではないかと、わたしは考えています。彼らの視点がもともとグローバルなだけなのではないでしょうか。自国内のリーグで行うプロスポーツの王者決定戦を「ワールドシリーズ」と躊躇なく呼ぶ人たちなわけですから。

現代は、隠そうと思っても、情報はネットで瞬時に世界中に伝わってしまう時代です。軸を明確に据え、地道にそれを体現する努力を積み、周囲に向けて提供価値の訴求や啓もうを続けていくという、ただその取り組みに集中することが、大事なのではないでしょうか。あとは神のみぞ知る。反応を見て軌道修正していけばよい。経営者が考えていることのスケールが大きいかどうかは重要です。ただし、顧客の支持や評価に関することをコントロールしようとすると、余計な力が入っておかしな方向へ走るように思います。

「自分自身でできること」が、限界を決める

昨年中の仕事の活動を振り返ると、結局のところ「自分でできることが自分の限界を決めてしまう」のだという(当たり前の)ことを多く実感させられたように思います。

昨年は、製造業の企業に触れる機会が複数ありました。これまで脈々と広まってきた「現場のカイゼン」に基づくシゴトの仕組みは、どの工場にも一定程度カタチがあるのは確かなようです。ただし現場に至る前の、事業戦略から生産計画を立ててそれを現場に作業展開するまでの「生産管理」については、企業によって相当にレベル差があることを実感しました。その理由は、生産管理をロジカルに仕組み化して実践することは、難易度が高いからです。その会社にとって「できないこと」は放置されがちだということです。

また、営業組織の支援を様々に行ってきて感じたのは、課題があることも、変えなければこの先成長しないことも、頭では理解しているはずなのに、強制力が働かない限り、いつまでも同じ所を堂々巡りしているチームが圧倒的に多いことでした。慣習を変えられない理由は、変えるための具体的な行動を自分たちの力では組み立てられず、目指すべき姿が彼らにとって「できないこと」になるからです。何の実にもならないようなつまらない進捗報告でも、毎回毎日だと、みんな慣れてしまってそれがフツウになっていきます。まるで生活習慣病のようで恐ろしいことです。でも実はその「できないこと」は、ちょっと背伸びすればできてしまうことに、無理やり取り組んでみてようやく気づきます。

従来からの取り組みがうまく行かなくなり方針転換を図ろうとする時、その前に、組織としてのそれまでの取り組みを総括するべきです。しかし、当事者たちの力だけではまともな言語化というのはできないものです。考えてみれば当然なのかもしれませんが、うまくできなかった人たちが、自分の出来なかったことを自分の力だけで分析評価するというのは、無理難題と思われます。解けなかった数学の問題について、解答を見ずに自分で解答をつくろうとしていることと同等です。そうかといって、彼らが第三者による指摘を素直に受け入れるかどうか、受け入れたとしてもその内容を咀嚼し応用できる能力があるか、というのは、また別の「できないこと」かもしれません。こうした課題には、最終的には自ら気づいて自ら腹落ちしないと、本当の意味での課題にはならないのです。

ある時、某社のCIOの話を聞く機会がありました。顧客ではないので書きますが、この方はデジタルマーケティング畑で長く勤めて経験が長く、一方でシステムを作ったことがありません。話の筋はおよそ、デジタルを「使う」観点からくるもので占められ、デジタルで「つくる」発想がないがために、CIOとしては世界観が限定されているように感じられました。残念ながら、CIOという役職は、マーケティングを知っているだけでは務まりません。そのことに、ご本人は気づきがないのかもしれません。要職を務める人たちからよく聞く悩みのひとつは、率直に言ってくれる人が周囲にいなくなること、です。もったいないなという感想を、内心では持ったことが思い出されます。

自戒を込めて言えば、結局のところ、自らが「できること」をできるだけ増やし拡げていく努力を不断につづけなければ、自分の出来ないことに気付くこともできずになおざりにし、最終的には、できないことに飲まれて衰退していくのだろうと思います。

もちろん、ひとりで何でもできるようになることは、当然ながらできません。できる他人に何かを任せることが必要になります。ただし、自分では全くできないことを他人に任せるのは、簡単そうですが実際は容易なことではありません。実際にやってみるとわかることですが、そもそもどのように仕事を頼めばいいのかさえ、わからないはずです。さらに、ある程度はわかっているうえで他人に委ねるのでなければ、他人のアウトプットの良し悪しを判定できません。結果として、相手にコントロール権を奪われることになります。

渡してはならないコントロールを相手に渡してしまうのが最悪の筋書きになりますが、自分にできないことについては、それがクリティカルなのかどうかさえも往々にして判別がつきません。

例えば、英語の読み書きのスキルは、生成AIの登場によって、もう必要ないかもしれません。英語が不得意だった人たちにとっては福音と言えます。ただし、ChatGPTが生成した電子メールの本文を本当にそのまま相手先に送っても問題が起こらないか、ChatGPTが作ったスピーチの原稿をそのまま顧客や社員に向けて流してしまっても本心が伝わるのか。その判断は、自分がある程度は英語ができないと、判別がつかないはずです。日常会話レベルの事務的なやり取りであればどうでもよいかもしれませんが、適用したい場面がクリティカルであるほど、気持ちを漏れなく的確に伝えたいと思う場面ほど、生成AIの言うとおりでよいか否かの判断は重要になります。こうしたこともまた、英語という言語が、日本語と比べるとハイコンテクストな言語的特徴があり、ひとつの言葉の意味の守備範囲が日本語のそれよりも一般的に狭いということを知っていなければ、他人から重要だと言われてもまったくピンとこないかもしれません。

企業におけるデジタルの選択肢は、この先もますます増えていきます。技術の向上に比例して、デジタルがビジネスに発揮できる影響力や破壊力は、さらに増していくでしょう。無数に出てくるデジタルソリューションやツールの中から、自社に相応しいものを探し出して選び取る能力が、利用する企業にますます重要になっていくことになります。

さらに言えば、そうしたソリューションやツールを適材適所で活用するには、会社の仕事のしくみをデザインする能力がますます重要になっていきます。自分でデザインできる会社ほど、デジタルをテコにした独自のしくみを発展させて成果に繋げるでしょう。自分でデザインできる能力を持たない会社ほど、デザインすることの必要性さえ理解ができず、自身で自身を変えることができずに衰退していくでしょう。

自分で考えることが「できない」企業ほど、ITは、丸投げ対象のコスト要因にしか見えないはずです。自分で考えることが「できる」企業ほど、ITは、ビジネスで利益を出して必ず手に入れたい魅力的な道具に見えることでしょう。業界で一流を目指すなら、どちらになりたいですか?

わたしがこれまで見てきた「元気のいい会社」は、総じて健全な危機意識を常に高く持っていて、それでいてメンバーの多くがビジネスへのチャレンジを楽しんでいるように見える組織でした。新しい年の初めに際して、わたしは「自分でできることをさらに増やす」ことを肝に銘じて、新しい提供価値を増やせるように、また仕事を始めていきたいと考える今日この頃です。