「見える化」と「見え過ぎる化」

よくある企業のシステム化事例に、「見える化で成功」というものがあります。

これまで曖昧だった社内の状態、顧客の状況、問題や異常、施策の成果などを、経営者や責任者または現場の人々が「見える」形に整え、確認したり評価したりできるようにする。「見える化」そのものは、大変に意義も効果もある取り組みです。

ただし、見えればよいというものでもありません。見え過ぎることで弊害が生じることもあります。

ある製造業の企業で、それまで見えていなかったサプライチェーンの動きを徹頭徹尾「見える化」して成果を挙げたという事例がありました。当時、この事例は大々的にマスコミに取り上げられ、仕掛け人だった当時の社長は「経営とITのどちらにも精通する人物」としてもてはやされていました。

ところがその社長が退任し、次の社長がその会社に就任すると、新社長はその「見える化」のほとんどを、ことごとく廃止していきました。なんと、見えなくてよいと宣言したのです。

現場の仕事ぶりと成果がすべてデータで挙がってくる「見える化」が、就任時点から労することなく整備されていたにもかかわらず、新社長はなぜ止めるように指示したのか。その理由は、現場にありました。

「見える化」を実現するためには、各業務の動きや流れをどこかでデータに変換しなければなりません。そのデータをどこかで入力し、どこかに集約して集計し、どこかから出力して、表示しなければなりません。実はこの会社では、こうしたデータ処理のプロセスのほとんどが、人力だったのです。現場の社員の多くはデータ処理に相当の工数を強いられ、実はお疲れ気味だったのだとか。

しかも社長向けに出力されてくるデータはかなり細かく、経営判断にはそこまで必要がないというものだったそうです。

「見える化」するのはよかったけれど、見えるようにしすぎて処理が重くなりすぎ、本来の業務に支障をきたすという、本末転倒な状況でした。もうやめるように指示するのも、無理はありません。

世間の事例をマネして単に「見える化」を目指そうとすると、リーダーの性格によってはこうしたことになりがちです。無用な細かさは、ITツールの技術的なスペックにも影響して無用な投資にもなりかねません。こうしたことを避けて「足るを知る」ためにも、まずはシナリオのデザインが必要です。見えるようにする前に、データを見ることによって何がしたいのか。見えるようになったデータから何をどのように達成して成果にするのか。

現実味のあるシナリオが的確に描かれていれば、必要十分な「見える化」となって、末永く自社のビジネスの仕組みに活かされるはずです。

当然ですが、「見える化」の受益者が経営者であるなら、システム要求の整理には主体となって参加すべきでしょう。

デカい会社よりも、ハヤい会社を

今から25年ほど前、大学の研究室で初めてMosaicなるものをコンピュータ画面で目にしたとき、それがいったい何の役に立つものなのか皆目見当がつかなかったことを、よく覚えています。

“Mosaic” とは、現在のWebブラウザーの原型となったソフトウェアです。その後どうなったかは、みなさんご承知のとおりでしょう。このように、わたしにはあまり先見の明がないのですが、年頭くらいはボヤキよりも前向きなことを書きたいと思い、少々慣れない将来予測をしてみたいと思います。

私見では、ビジネスを成功に導くために、当面は「ちょうどよい規模の驚速企業」を目指すのがよいのではないかと考えています。

ここでいう「ちょうどよい規模」とは、大きくてもダメ、小さくてもダメ、いわゆる「足るを知る」ということです。

まず、当面は大きなものを作ってはいけないと思います。大きなものは、全体制御も微調整も難しい。全体で信頼性を維持するのが困難であり、一部でも壊れればその影響が大きくなりかねない傾向があります。それに、柔軟性も通常はありません。何か課題を抱えた時、すぐに課題のある部分だけ直したくなりますが、たいていそれは理想的な解ではありません。そうわかっていながら、全体を考えようとすると複雑で面倒なので、部分的に直してしまいます。つぎはぎを継続するうちに無理が出るようになり、いつしか仕組みの効果や効率が落ちていきます。そしてそれが破たん寸前になるまで、当事者たちは問題にしません。

大きなものの末路とは、およそこうしたものです。

だからと言って、小さいものであればいいわけでもないと思います。小さいものにフォーカスすると、必ずそのうち、小さいもの同士を連携させたくなります。それが不幸の始まりです。始めのうちは繋いで幸せですが、徐々に調子に乗っていくと、構造が複雑化していきます。複雑化したものは、大きなものと同じです。しかも厄介なことに、人間は、複雑が極まってコントロールできなくなって初めて、それが複雑であることに気付く生き物なのです。

ちょうどよい規模であることがなぜ必要なのか。その理由は「驚速」にあります。これからの時代、企業は「常に速い」ことが要求されるだろうと思うからです。

その要因は、ITがもたらすスピードと処理能力です。資本がなくてもITのパワーを享受できる時代になったいま、これに対応できる人間や組織であるかどうかが問われます。ニーズに対して驚速でアウトプットを出せる企業が勝ち、遅かった企業は、場合によっては秒単位の遅れでも、淘汰されてしまうかもしれません。

ただし、速ければよいというわけでもありません。精度も問われます。速くアウトプットできたとしても、すぐにもろさが露呈する企業は、やはり淘汰されるでしょう。ITと、それを駆使する組織、安定した質を実現できる仕組み、すべてが問われます。これが、「常に速い」という意味です。

これからビジネスに要求される「驚速」を実現するための現実解が、現時点では「ちょうどよい規模」であることだろう、ということで、目指すべきは「ちょうどよい規模の驚速企業」と考えました。

ところで、「ちょうどよい規模の驚速企業」という目標のうち、「ちょうどよい規模」というのは「当面」に限られる話です。「ちょうどよい」時代の後には、「デカいのに速い」企業が主役になるだろうと思います。

そういう企業はしばらく出てこないだろうと思いますが、冒頭に申しあげたとおり、わたしには先見の明がありませんので、悪しからずご了承ください。