会社でやったらダメな「議論」

最近、「議論」ということばによって人が抱くイメージについて、考えることがありました。

わたしは大学で講義を担当していますが、そのなかで「議論」をしようとすると、恐れる人、そうでなくても少なくとも緊張する人が多くいることを感じています。意見を交わそうとすると非常に遠慮がちになるし、説明が不十分な点を問うとすぐに撤回するし、さらにはそれ以前に反応しようとしない人もいます。時々ですが、それとは逆にこちらと”戦おう”とする勇敢な?人もいます。

これはマスコミの影響が非常に大きいのではないかと、わたしは考えています。識者と言われる人々がエンドレスで言い合いする”朝まで○テレビ”のような「議論」、与野党が激しく対立するところだけフォーカスする国会での「議論」、ソーシャルメディアでの発言をきっかけに炎上騒ぎになる「議論」。メディアでは、およそこんな「議論」ばかり取り上げられているように思います。

それらを目にすることで、「議論」とはああいう知識の弱肉強食合戦のようなものだと考えて、恐れたり関わりたがらなかったりという反応になるのではないか。そんなことを考えています。

わたしの考えでは、論破されるか合意するかに関わらず、意見を交わした結果として最終的に何の納得も得られない「議論」は、議論とは言えません。したがって、マスコミがこぞって取り上げるような前記のものは「議論」ではありません。テレビでやってもらうのは一向にかまいませんが、会社でそのような議論をやったら絶対にダメです。

しかし、会社の中であっても、あるものが欠けていると、実にカンタンに「マスコミが好む議論」が会社でも展開されてしまいます。関係者間で意見の対立が起き、侃々諤々の主導権争いをするも折り合わず、最後は社内政治で決まる、というような、「それなら最初から議論する必要はないだろう」というような話です。

その「あるもの」とは、関係者間での共通認識です。

会社であれば、「当社はどういうビジネスを展開して発展していきたいのか」「お客さまにどういう価値を提供したいのか」「どういう行動により社会の役に立とうとするのか」といったものが共通認識になりえるものでしょう。ミッション、ビジョン、といえば聞こえがいいですが、それよりもさらに理解を具体化したものでなければ不十分だと思います。

こういうものがあることで、関係者間で「我々はどうあるべきか」「何を成し遂げるべきなのか」「どのような仕組みを実現すべきなのか」という認識が共通化されるわけです。

いわゆる「マスコミが好む議論」には、この共通認識が参加者の間にありません。場合によっては、それを互いに持とうとしません。だから、エンドレスで議論しても結論がないのです。

こうした共通認識のないまま、例えば「クラウドはどうするか」という「議論」を会社で行ったなら、クラウドはやるべきだという勢力と、クラウドは慎重に扱うべきだという勢力が、真っ向から対立する構図になり、最後は声の大きなほうが勝つでしょう。それはまったく本質的な結論ではありません。その会社のやりたいビジネスに照らし合わせた時に、クラウドはどう活かせるのか、自分たちの役に立つのか。そういう議論をすることが、意味のある結論を導く唯一の道ではないでしょうか。

当然のことですが、この共通認識を持つにあたっては、経営者もそこに参加していなければなりません。それが意識的にできているなら、たとえよくわからないITの話を持って来られても、なにも恐れることはないはずです。